章義門院小兵衛督 しょうぎもんいんのこひょうえのかみ 生没年未詳 別称:永福門院小兵衛督

父は神祇伯資邦王(花山院の裔)。尊卑分脈によれば資邦王の母は藤原信実の娘(おそらく四条院少将内侍であろうと言う)。
伏見院皇女章義門院に仕え、のち永福門院に仕える。風雅集の永福門院右衛門督と同一人かとも言う。
正安元年(1299)三月の五種歌合、乾元二年(1303)閏四月の仙洞歌合、嘉元三年(1305)三月の伏見院御所での歌合、延慶二年(1309)〜応長元年(1311)頃の十五番歌合、延慶二〜三年頃の歌合(徳川美術館に伝後伏見院筆が一部残存)など、前期京極派の歌合のほとんどに出詠。玉葉集初出。勅撰入集は六首。

夕恋

夕暮の空こそ今はあはれなれ待ちも待たれし時ぞと思へば(玉葉1785)

【通釈】夕暮の空こそ、恋人との仲が絶えた今は心に染みて感じられるよ。待ちもし、待たれもした、胸はずむ時間だったと思えば。

百首歌よみ侍りけるに、恋歌とて

よそにのみ人をつらしと何か思ふ心よ我を憂きものと知れ(玉葉1804)

【通釈】自分を棚に上げて、恋人の仕打ちが辛いだなんて、私は何を思うのだろう。心よ、私自身が厭わしい存在なのだということを知れ。

恋夕

あはれなりいまはののちの夕ぐれも我が心のみその世にぞ似る(十五番歌合)

【通釈】哀れなことだ。このまま恋い死にしてのち、後世(ごせ)で迎える夕暮にも、恨みを残す私の心だけは前世と同様、辛い思いをし続けるとは。

【補記】延慶二年(1309)〜応長元年(1311)頃の十五番歌合、九番右負。左勝は宮内卿「さこそはと見ぬよりつらし今かもと待つ夕暮の人のたまづさ」。


最終更新日:平成14年12月12日