木梨軽太子 きなしのかるのひつぎのみこ

允恭天皇の皇子。母は忍坂大中姫。安康天皇・雄略天皇の同母兄。允恭二十三年、立太子。同母妹の軽大娘皇女と密通し、翌年、これが漏れて軽大娘皇女は伊予に配流された。四十二年、允恭天皇が崩御すると、群臣は同母弟の穴穂皇子につき、孤立した太子は物部大前宿禰の家に匿われるが、穴穂皇子の軍勢に取り囲まれ、自決した(以上、日本書紀による)。古事記では大前・小前宿禰に捕えられ、伊予の湯に流されたあと、追って来た軽大郎女と心中したとある。
古事記に九首、日本書紀に三首の歌を伝える。以下は古事記所載の全九首である。

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天皇かむあがりまして後、木梨軽太子日継知ろしめすに定まれるを、未だ位に即きたまはざりしほどに、そのいろも軽大郎女にたはけて御歌よみしたまはく

あしひきの 山田やまだを作り 山だかみ 下樋したびわしせ 下ひに 我がふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今日こふこそは 安く肌

【通釈】山田を作って、山が高いので、土を掘って下に樋を通し――そのように、人目につかないように俺が訪ねてゆく妻を、人目に隠れて忍び泣く妻を、今日こそは、心やすらかに肌触れて寝よう。

【語釈】◇走(わし) 走らせ。「走(わし)る」の他動詞形。◇今日こそは 原文は「許存許曾婆」で、「こぞ(昨夜)こそは」と訓むのが普通。ここでは存を布の誤写とし、「此日(こひ)」の意だとする宣長『古事記伝』の説をとる。

【補記】古事記下巻(以下同じ)。允恭天皇四十二年、天皇崩御の後、木梨軽太子が皇太子に定まったが、即位前に同母妹の軽大郎女と近親相姦を犯した。次の一首と共に、その際の歌と伝わる。日本書紀巻第十三にも同内容の歌が見える。

また御歌よみしたまはく

笹葉ささばに 打つやあられの たしだしに 寝てむ後は 人はゆとも

【通釈】笹の葉にあたる霰の音のように、確かに確かに、一緒に寝ることができたなら、まわりの人たちが離れて行っても、かまうものか。

 

うるはしと さ寝しさ寝てば 刈薦かりこもの 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

【通釈】愛しい人と寝ることができたなら、刈り取った薦草がばらばらになるように、人々が離れて行くなら行くがよい。お前と寝ることさえできたなら。

【語釈】◇たしだしに 霰が笹の葉にあたる擬音語と、「確かに」の意とを掛けている。

大前小前宿禰、その軽太子を捕へて、て参出て貢進たてまつりき。その太子、捕へらえて歌ひたまはく

天飛あまだむ 軽の嬢子をとめ いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く

【通釈】軽のお嬢さん、ひどく泣くと、人に居場所を知られてしまうよ。羽佐の山にいる鳩のように、声をしのばせて泣きなよ。

【語釈】◇天飛む 「軽」にかかる枕詞。空を飛ぶ雁(カリ)、から音の近いカルに掛かる。◇下泣きに泣く 「此ノ結(トヂメ)は必ズ那氣(ナケ)とあるべきことなり」(古事記伝)。

【補記】大前・小前宿禰に捕えられた時に歌ったという歌。日本書紀巻第十三にも同内容の歌が見える。

 

天飛あまだむ 軽嬢子かるをとめ したたにも り寝て通れ 軽嬢子かるをとめども

【通釈】軽のお嬢さん、よくよく身を潜めて、物陰を屈んで通り過ぎなよ。くれぐれも人に見つからないようにね。軽のお嬢さん。

【語釈】◇したたにも 下々にも。「下泣の下と同くして志奴比々々々(シヌビシヌビ)にと云むが如し」(古事記伝)。「したたかに・しっかりと」の意とする説もある。◇倚り寝て通れ 「道かひにても、人にしのびて物の陰などにより、身を潜めて行過よ」(古事記伝)。説話から離れて読めば、軽地方の少女たちに対し「私のそばに倚って寝てゆけ」と呼び掛けていると解釈することもできよう。

【補記】上の二首は、軽太子が大前・小前宿禰に捕えられ、穴穂皇子の兵に差し出された時、軽大郎女に対して詠んだ歌とされる。物語を離れて読めば、いずれも軽の地に住む乙女たちに詠みかけた歌として理解できる。

かれ、その軽太子をば、伊予の湯にはなちまつりき。またはなたえたまはむとせし時に歌ひたまはく

天飛ぶ 鳥も使ひぞ たづが音の 聞こえむ時は 我が名問はさね

【通釈】空を飛ぶ鳥も、俺たちの間を取り持ってくれる使者だよ。鶴の鳴く声が聞える時には、俺が元気かどうか、尋ねてくれよな。

【補記】次の一首と共に、伊予の湯に流される時に軽太子が詠んだ歌とされる。

また歌ひたまはく

おほきみを 島にはぶらば ふな余り いがへむぞ 我が畳ゆめ ことをこそ 畳とはめ 我が妻はゆめ

【通釈】大王の子たる俺を四国の島に追いやったならば、俺はきっと帰って来るぞ。茣蓙はきれいにしておけよ。言葉では茣蓙と言っているが、我が妻、大郎女よ、つつしんで俺の帰りを待っておれ。

【語釈】◇船余り 「帰り来む」の枕詞。「如此續くる由は、船に乘らむとする人の乘る人多くて其船に滿贏(ミチアマ)りぬれば、得乘らで姑く囘來(カヘリク)る意なり」(古事記伝)。◇我が畳ゆめ 「畳」は日常座臥する筵や茣蓙の類。「ゆめ」は、よく気をつけるように注意を促す語。

【補記】日本書紀巻第十三にも同内容の歌が見える。

【補記】五・七・五・七・七の短歌謡に五・七・七の片歌を付けた形式。古事記の仁徳天皇の歌に同じ形式が見られる。

かれ、追ひ到りませる時に、待ちおもひて歌ひたまはく

隠国こもりくの 泊瀬はつせの山の 大峡おほをには はた張り立て さ小峡ををには はた張り立て 大峡にし なかさだめる 思ひ妻あはれ 槻弓つくゆみの こやる伏りも 梓弓 立てり立てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ

泊瀬
泊瀬 奈良県桜井市

【通釈】泊瀬の山の、大きい丘には幡を目立つように立て、小さい丘には幡を目立つように立て、《大峡にし、なかさだめる》(意味不明)、恋しい妻よ、ああ。使わない時は槻弓なら伏せておくよな、梓弓なら立て懸けておくよな、そんなふうに今は手もとにないけれども、後できっとこの手に抱くぞ、恋しい妻よ、ああ。

【語釈】◇隠国(こもりく) 「泊瀬」の枕詞。◇泊瀬 奈良県桜井市。初瀬とも書く。初瀬川ぞいの渓谷の地。古代大和政権の中心であった。天武天皇の時に創建された長谷寺は、観音信仰で栄えた。◇槻弓(つきゆみ) 槻の木(ケヤキ)で造った弓。◇梓弓 梓の木で造った弓。梓はミズメ・ヨグソミネバリとも呼ばれるカバノキ科の落葉高木。

【補記】次の一首と共に、流刑地まで追って来た軽大郎女を懐かしがって軽太子が詠んだ歌とされる。

 

隠国こもりくの 泊瀬はつせの河の かみつ瀬に 斎杙いくひを打ち しもつ瀬に 真杙まくひを打ち 斎杙いくひには 鏡をけ 真杙まくひには 真玉またまを懸け 真玉またまなす ふ妹 鏡なす 我が思ふ妻 ありと 言はばこそよ 家にもかめ 国をもしのはめ

【通釈】泊瀬の川の、上流の瀬には浄めた杭を打ち、下流の瀬には太い杭を打ち、浄めた杭には鏡を懸け、太い杭には宝玉を懸け、そうやって神を祭る、その玉みたいに大切に思うひと、その鏡みたいに美しく思っている妻が、いると言うのならさあ、大和の家へ行きもしよう。故郷を懐かしみもしよう。

【補記】軽太子の軽大郎女を愛しむ歌。妻が故郷にいるなら帰ろうが、今はここで自分と一緒にいるので、家も故郷も恋しくはない、との思い。この歌を詠んだあと、軽太子・軽大郎女は共に自殺したという。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成20年10月15日