兼載 けんさい 享徳元〜永正七(1452-1510) 号:相園坊・耕閑軒

奥州の名族、猪苗代氏の出。式部少輔盛実の子。初名、宗春。
若くして出家したらしい。文明二年(1470)頃、応仁の乱を避けて関東流浪中の身であった心敬に師事する。心敬没後、文明七年(1475)前後に上京し、以後京の連歌界で活躍する。この間和歌にも精進し、飛鳥井雅親雅康ら和歌宗匠や姉小路基綱・三条西実隆ら公家歌人と親交を持った。地方に下っては木戸孝範ら武家歌人とも交わる。文明十八年(1486)頃、初めて兼載を名乗る。
延徳元年(1489)、宗祇の辞任に伴い、北野連歌会所奉行・連歌宗匠に三十八歳の若さで就任する。明応三年(1494)、堯恵に入門し、古今集の講説を受ける(堯恵からは『愚問賢注』『井蛙抄』なども授けられた)。同四年、宗祇を助けて『新撰菟玖波集』を編纂するが、入集句をめぐって意見の対立があった。この間、山口・阿波・関東・奥羽などを巡り、各地の大名を歴訪している。明応九年(1500)、京の大火で住居を焼失、翌年の文亀元年(1501)、京を離れて岩城に草庵を結ぶ。のち会津や古河に住み、永正七年六月六日、古河にて病没した。五十九歳。墓は栃木県下都賀郡野木町の満福寺にある。
句集に『園塵』、連歌論書に『心敬僧都庭訓』『連歌延徳抄』ほかがある。また弟子の兼純が筆録した『兼載雑談』がある。和歌関係の著書としては『万葉集之歌百首聞書』『新古今抜書抄』『自讃歌聞書』『兼載名所方角和歌』などがある。家集『閑塵集』に三百七十余首の歌を残す。

「閑塵集」 私家集大成6・新編国歌大観8

春雨

かすみつつ空には見えぬ春雨のこまかにそそく水の(おも)かな(閑塵集)

【通釈】霞んだようにぼんやりとして空には見えない春雨が、水面では細かに降り注いでいるのが見えるのだなあ。

【補記】空と水面という対比の趣向で、のどかに降る春雨の風情を捉えてみせた。

【参考歌】冷泉為秀「風雅集」
たちそむる霧かとみれば秋の雨のこまかにそそく夕ぐれの空

五月雨

日をふれば海をたたへて中々に河音たゆるさみだれの(ころ)(閑塵集)

【通釈】降り続けて何日も経ったので、海のように水を湛えて、かえって川音は途絶えている、五月雨の頃よ。

【補記】五月雨が絶え間なく降り注ぐ大河のイメージが髣髴する。

【先蹤歌】藤原経高「南朝五百番歌合」
あさき瀬にせかれし波は岩こえて川音たゆる五月雨の比

荻風

荻の葉を時々風の露ふけば夜半の枕の夢のむらぎえ(閑塵集)

【通釈】荻の葉を鳴らし露を飛ばし、時々風が吹くので、夜の枕で見る夢はまばらに消えてしまうことよ。

【補記】「むらぎえ」は雪について言うことが多く、「夢のむらぎえ」の句は先蹤無し。因みに「露」と「きえ」は縁語。秋の独り寝の孤独感が余情となる。

【参考歌】藤原良経「秋篠月清集」「続後拾遺集」
荻原や夜半に秋風露ふけばあらぬ玉ちる床のさむしろ

五十首歌中に、戸外月

たて残す槙の戸口のさむしろにひとすぢうつる月の影かな(閑塵集)

【通釈】閉め残した槙の戸口に敷いてある狭莚(さむしろ)に、一すじ反映している月影であるよ。

【語釈】◇槙 杉檜の類。◇さむしろ 短い莚。または幅の狭い莚。

【補記】「たて残す」など、伝統的な和歌なら嫌う散文的描写であろうが、この句が「ひとすぢうつる月の影」という趣向を実感あるものとしている。

雨のふる夜かへりし人におくりける

ふかき夜の雨にかへりし君ゆゑに残る袖までしほれつるかな(閑塵集)

【通釈】深夜の雨に帰って行ったあなたのせいで、家に残る私の袖までがぐっしょり濡れてしまいましたよ。

【補記】恋歌。詞書からすると題詠歌でなく、実際恋人に贈った歌のように見える。しかし、和歌の通例では帰るのは男であり残るのは女であるから、男である作者が女に贈った歌と考えるのは常識に反することになる。詞書は虚構の設定か。


最終更新日:平成17年09月17日