折節の記



―三十六歌仙―

 千人万首に藤原元真を入れて、三十六歌仙が揃いました。
 三十六歌仙は、藤原公任が編集した『三十六人撰』に由るものです。上代の柿本人麻呂から、公任にとっては前世代の歌人である藤原高光等まで、三十六人の歌人の代表作を三首または十首ずつ、歌合形式に並べた秀歌選です(岩波文庫の『王朝秀歌選』などに収録されています)。公任は平安中期歌学の第一人者と目されたので、『三十六人撰』は非常に重んじられ、後世まで歌人評価に影響を与えることになりました。
 万葉歌人からは、三人しか選ばれていません。人麻呂・家持・赤人。
 古今集の歌人からは、貫之・躬恒・伊勢・業平・遍昭・素性・友則・猿丸大夫・小町・藤原兼輔・壬生忠岑・藤原敏行・藤原興風・坂上是則・源宗于の十五人。
 後撰集初出の歌人からは、藤原朝忠・藤原敦忠・源公忠・源信明・壬生忠見・平兼盛・藤原清正・中務の八人。
 残る十人は、拾遺集以後の勅撰集に初めて名の見える歌人で、公任からすれば、多くは祖父母・父母の世代にあたる人たちです。すなわち、藤原高光・大中臣頼基・斎宮女御・源重之・藤原仲文・大中臣能宣・源順・清原元輔・藤原元真・小大君。
 万葉歌人が少ないのは時代的な制約から致し方ないとして、公任の選択はおおよそ公平で中正と言えるでしょう。のち、藤原俊成は「三十六人歌合」を撰して歌の入れ替えを行ないましたが、歌人の顔ぶれは公任の撰を踏襲しました。

三十六人集
三十六歌仙絵 紀友則 (望月章斎画)

 もちろん、異を唱える人も少なくはなかったようです。俊成より少し後の世代になる歌学者顕昭は、秀歌の少ない大中臣頼基と藤原元真の撰入に疑問を呈し、清原深養父・文屋康秀・大江千里・在原元方・平貞文らが選ばれていないことを不審としています(「後拾遺抄」)。また江戸時代の契沖は、より相応しい歌人として大伴黒主・藤原忠房らの名をあげています。
 そういった意見も尤もではありますが、芸術作品の評価というのは、制作された時代に近ければ近いほど、難しいものでしょう。公任の批評眼はやはり大変なものだったと私は思います。
 後世、公任に倣って、「後六々撰」(中古三十六歌仙)、「女房三十六人歌合」、「新三十六人歌合」、「集外三十六歌仙」など、近世に至るまで、多くの歌仙詞華集が作られました。
 「歌仙」意識の変遷を辿るのも面白いのですが、ひとつ特徴をあげるとしたら、時代と共にだんだん「歌仙」という概念が広範になって行く、ということは言えそうです。貫之の六歌仙は小野篁・在原行平といった公卿を除外しましたが、公任も大臣クラスや天皇・親王などを歌仙に選ぶことはしませんでした(たとえば菅贈太政大臣・小野宮太政大臣実頼・一条摂政伊尹・村上天皇などは、公任が「金玉集」に撰入して高く評価し、力量的にも時代的に言っても「三十六人撰」に入っておかしくない歌人たちだったはずです)。
 それが中古三十六歌仙になると、大納言という高位に至った公任自身が選ばれていますし、中世の新三十六歌仙になると、後鳥羽院や順徳院までもがその対象に入ってきます。遂には、歌仙は単に歌人を意味する語としても用いられるようになってしまいました。
 しかし、歌仙とは、もとはと言えば、単に良い歌を残した人ということでもなければ、時代を代表する歌人ということでもなかったように思えます。すぐれた歌によってこそ、伝説化された人物、ということになりましょうか。「老いて死せざるを仙と曰ふ」(『釈名』)。彼らは、尋常でない言葉のパワーを発揮することによって、不朽の生命と栄光を得た人たちだと考えられたのでしょう。
 三十六歌仙にはそれぞれに家集が作られ、まとめられて『三十六人集』(別名『歌仙家集』)として今に伝存しています。藤原定家は、作歌の勉強になる歌集として、三代集とこの三十六人集を挙げています。あやしい歌も混入していますが、勅撰集に漏れた秀歌がたくさん見つかりますし、なかには歌仙たちの生活をいきいきと伝える歌や逸話もあって、非常に面白いものです。今に至るも、手軽に読める注釈書が揃っていないのは、残念な気がします。
 なお、三十六歌仙の家集で私が主に参考にしたのは、大正三年刊の博文館和歌叢書『三十六人集 全』(佐佐木信綱・芳賀矢一校註)でした。古本屋で二千円で買ったものです。

 手垢こそ愛しかりけれ磨滅せぬ言葉はありき歌仙の家集

(平成十二年十一月一日)


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