斎藤茂吉年譜

※藤岡武雄氏著『新訂版・年譜 斎藤茂吉伝』(沖積舎刊)、岩波書店刊斎藤茂吉全集所収の年譜等を参考にさせて頂きました。
※年齢は満年齢です。茂吉自身は数え歳を用いるのを通例としたので、茂吉の書き物における年齢とは一年のずれがあります。
※年齢の下に、当年制作された歌を収める歌集の名を示しました。
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明治一五(1882)  〇歳
五・一四  山形県南村山郡金瓶かなかめ村(現 上山かみのやま市金瓶)の農家守谷もりや家の三男として生まれる。戸籍上は七・二七出生。父伝右衛門、母いく。
明治二一(1888)  七歳
四月    金瓶尋常小学校入学(のち小学校併合により半郷尋常小学校に移る)。
明治二五(1892) 一〇歳
四月    半郷高等尋常小学校卒業、同校高等科に進学。九月には新設の上山尋常高等小学校に転校。
明治二九(1896) 一四歳
三月    宝泉寺の住職佐原窿応りゆうおうの仲介により、東京浅草で医院を開業していた同郷の斎藤紀一方に茂吉を引き取ることが決定する。
八月    上京し浅草の斎藤紀一方に寄宿。
九・一一  東京の開成中学校に編入学する。
明治三一(1898) 一六歳
      ※この年、佐佐木信綱の『歌の栞』等を買い、短歌に親しむようになる。記録に残る最初の歌はこの年の作。
明治三四(1901) 一九歳
三・二八  開成中学を優秀な成績で卒業。
六・二   紀一の長男西洋せいよう生まれる。
七月    第一高等学校三部(医科)を受験するが不合格。
八・一五  与謝野晶子歌集『みだれ髪』刊行。
明治三五(1902) 二〇歳
七月    第一高等学校三部を再受験、合格する。九月に入学、入寮。
九・一九  正岡子規没。
明治三六(1903) 二一歳
六・五   伊藤左千夫が中心となり歌誌『馬酔木』創刊。
八・三〇  養父紀一、青山脳病院を創設。
明治三七(1904) 二二歳
二・八   日露戦争始まる。
十二月   子規の遺稿集『竹の里歌』を読み、作歌を志す。
明治三八(1905) 二三歳(赤光
七・一   斎藤紀一の二女てる子(当時十一歳)の婿養子として入籍する。
七・五   第一高等学校を優秀な成績で卒業する。
九・一一  東京帝国大学医科大学に入学。
      ※この年、読売新聞などに短歌を投稿し、多数掲載される。茂吉が自身の歌歴の初めとしたのはこの年である。
明治三九(1906) 二四歳(赤光
二・二五  初めて『馬酔木』に歌が掲載される。
三・一八  初めて伊藤左千夫を訪問し、入門を許される。
明治四〇(1907) 二五歳(赤光
五月    左千夫宅で古泉千樫と知り合い、以後親交する。
九月    青山脳病院に移り住む。
明治四一(1908) 二六歳(赤光
一・一   『馬酔木』廃刊。
一〇・一三 『アララギ』創刊。編集担当の伊藤左千夫に従い、同誌に移る。
十月    塩原温泉に遊ぶ。
十一月   雑誌『明星』廃刊。
明治四二(1909) 二七歳(赤光
一・九   初めて観潮楼歌会に出席し、森鷗外の知遇を得る。この会で与謝野寛・佐佐木信綱・北原白秋など多くの歌人と知り合うことになる。
六月    腸チフスを病む。秋まで休学し、卒業が一年遅れる。
十一月   再び腸チフスを病み入院。翌年春まで休学。
      ※この年、中村憲吉、土屋文明などと知り合う。
明治四三(1910) 二八歳(赤光
九・一〇  吉井勇の第一歌集『酒ほがひ』刊行。
十二・一  石川啄木の第一歌集『一握の砂』刊行。
一二・二七 東京帝大医科大学を卒業。
明治四四(1911) 二九歳(赤光
一月以後  『アララギ』の編集を担当。
二・二   東京帝大医科大学副手となり、同大附属の巣鴨病院に研究生として勤務する(七月、医員となる)。以後、呉秀三教授・三宅鉱一助教授のもと精神病学を専攻。
大正一 (1912) 三〇歳(赤光
四・一三  石川啄木没。
一一・一四 東京帝大助手に昇任する。
      ※この年あたりから短歌のみならず評論・随筆も多く発表するようになり、師の左千夫に論駁するなどもした。
大正二 (1913) 三一歳(赤光・あらたま
一・二五  北原白秋の第一歌集『桐の花』刊行。
三月    養父紀一、佐藤文次郎(のちの出羽ヶ嶽。当時十一歳)を引き取る。
五月    生母いく危篤のため山形に帰省する。二三日、母を亡くす。三〇日、帰京。
七・三〇  伊藤左千夫、急逝(五十歳)。茂吉は旅中上諏訪でその報に接し、八月一日帰京、翌二日、葬儀に出席。
九月    『アララギ』に「死にたまふ母」「悲報来」などを発表。
一〇・一五 第一歌集『赤光』を東雲堂書店より刊行する。
大正三 (1914) 三二歳(あらたま
四月    斎藤てる子(二十歳)と結婚するが、直後から不和が続く。
六月    古泉千樫に代り『アララギ』編集発行人となる。
八・二〇  妻てる子と三浦半島へ行く。三崎などに遊ぶ。
大正四 (1915) 三三歳(あらたま
二・八   長塚節、没(三十七歳)。
二月    島木赤彦が『アララギ』編集発行人となる。
八月    妻てる子と茨城を旅する。
一一・一三 祖母ひで没。帰郷し葬儀に列す。
大正五 (1916) 三四歳(あらたま
三・二一  長男茂太生まれる。
七~八月  郷里の父を見舞い、帰途福島に遊ぶ。
大正六 (1917) 三五歳(あらたま
一・一二  東京帝大医科大助手、同付属病院勤務を依願退職。
四月    養父紀一、山形から衆議院選挙に立候補し当選する。この頃茂吉は青山脳病院での診察にあたる。
一〇・一〇 単身箱根五段の温泉宿に赴き滞在。のちてる子も来る。
一二・三  呉秀三教授の勧めを受け、長崎医学専門学校教授に就任する。同月一八日、長崎着。
大正七 (1918) 三六歳(つゆじも
六月    妻てる子、長崎に来る(長崎赴任中、喧嘩等が原因で同居・別居を繰り返す)。
      ※この年と翌年の歌稿は大正一三年の青山脳病院の火事で焼けたため、茂吉の作歌は極めて僅かしか残っていない。
大正九 (1920) 三八歳(つゆじも
一月    流行性感冒にかかり、さらに肺炎を併発。二月下旬まで臥床。
四月    「短歌に於ける写生の説」を『アララギ』に連載し始める。
六月    喀血し、自宅療養の後、県立長崎病院に入院。
七・二六  雲仙に転地療養する。島木赤彦・てる子など同伴。八月十四日長崎に帰る。
八・三〇  唐津で転地療養。九月一一日まで。
九~十月  古湯温泉・六枚板・小浜・嬉野温泉など九州の保養地でたびたび療養し、快方に向かう。その間『あらたま』の編集や『赤光』の改訂を進める。
一二・三〇 妻と南九州の旅に発つ。熊本に泊る。
大正一〇(1921) 三九歳(つゆじも
一・一   第二歌集『あらたま』を春陽堂から刊行。
一月    鹿児島・宮崎・福岡を観光する。
二・二八  文部省在外研究員を命ぜられる。
三月    長崎を去り、四国・山陽・関西を観光してのち帰京する。
五月    金瓶に帰省する。
八~九月  長野県富士見にて静養する。九・六、帰京。
十・二七  東京を発ち、欧州留学の途につく。翌日、横浜出航。
一一・一  改選版『赤光』を東雲堂書店より刊行する。
一一・三  門司出航。中国・シンガポール・マラッカ・セイロンなどを経て、アデン湾・紅海を航行。
一二・七  スエズ上陸。エジプト観光。
一二・一四 地中海を航行しフランスに上陸する。
一二・二〇 パリを経てベルリン着。
大正一一(1922) 四〇歳(遠遊
一・一三  ベルリンよりウィーンに至る。
一・二〇  ウィーン大学神経学研究所を訪ね、所長マールブルク教授に指導を受けることとなる。
一・二三  前所長オーベルシュタイネル教授に会い、以後親炙する。
七・九   森鷗外没。茂吉は翌月ベルリンにてこれを知る。
七・二七  ドナウ川下航の旅に出る。ブダペスト見物。
八月    ドイツを旅する。ミュンヘン・ベルリン・ライプチヒなど。
大正一二(1923) 四一歳(遠遊・遍歴
四・一四  学位論文「麻痺性痴呆者の脳図」印刷完成する。
六月    イタリアを周遊する。
七・一九  ウィーンを去り、ドイツのミュンヘンに転学する。二一日、ミュンヘン大学ドイツ精神病学研究所のシュピールマイヤー教授の門に入る。
七・二七  実父守谷伝右衛門没。茂吉は翌月二九日、日本からの報せで知る。
九・一   関東大震災。一三日、家族無事の電報を受け取る。
一一・八  ヒトラーらの起したミュンヘン一揆に遭遇。
大正一三(1924) 四二歳(遍歴
四・一八  ドナウ源流行の旅に出る。
四月    北原白秋、歌誌『日光』創刊。古泉千樫・釈迢空らも参加。反アララギ派の牙城と見なされた(昭和二年廃刊)。
五・二八  ミュンヘンにおける研究成果たる医学論文を完成させる。
七・二二  ミュンヘンを発ち、パリに向かう。翌日、パリで妻てる子と落ち合う。以後、てる子と欧州各地を旅行。イギリス・オランダ・スイス・イタリアなどを巡り、十月パリに戻る。
一〇・二四 東京帝大医科大学より医学博士の学位を受ける。
一一・三〇 マルセーユより帰国の途につく。
一二・二九 青山脳病院全焼。入院患者二十名焼死。茂吉は翌日香港・上海間の船上において電報で病院全焼を知る。
大正一四(1925) 四三歳(ともしび
一・五   神戸着。七日、東京に帰り着く。
二・二三  長女百子生まれる。
四・二〇  自選歌集『朝の蛍』刊行。
五・二三  六月二日まで近江蓮華寺に窿応和尚を見舞う。木曽福島などを経て帰京。
八月    奈良・高野山・熊野などを旅する。
八・一五  改選三版『赤光』を春陽堂より刊行する。跋文で茂吉はこの版を「定本」とした。
八・二二  箱根強羅の別荘に赴く。
      ※この年、病院再建のための金策に奔走する。
昭和一 (1926) 四四歳(ともしび
三・二七  島木赤彦没。茂吉は前日下諏訪の赤彦邸に駆け付けていた。
四・七   東京府松原村に青山脳病院(本院)を復興・開院。青山の診療所は分院となる。
五月    亡くなった赤彦に代り『アララギ』編集発行人となる(昭和五年土屋文明に代るまで)。
一二・二五 大正天皇崩御、昭和に改元。
昭和二 (1927) 四五歳(ともしび
四・二七  養父紀一に代り、青山脳病院院長となる。
五・一   二男宗吉(北杜夫)生まれる。
七・二四  診察していた芥川龍之介が自殺する。
八・一   アララギ安居会のため永平寺に旅立つ。和倉温泉などに遊び、一〇日帰京。
八・一一  古泉千樫没。
十月    翌月にかけ信州各地を旅行。天竜川・妙高温泉に遊ぶ。
昭和三 (1928) 四六歳(ともしび
七月    出羽三山参拝。
一一・一七 養父紀一没。
昭和四 (1929) 四七歳(たかはら
一一・二八 朝日新聞社の飛行機に搭乗。この体験は翌年連作「虚空小吟」に結実する。
昭和五 (1930) 四八歳(たかはら・連山
五月    講演旅行のついでに妙高温泉などに遊ぶ。
七月    十五歳になった長男茂太を連れて出羽三山を参拝する。
八月    高野山・飛鳥などを旅し、滋賀の蓮華寺に寝たきりの窿応和尚を見舞う。
十~十一月 南満州鉄道の招待を受け満州各地を旅する。北京・京城などを経て帰国。
昭和六 (1931) 四九歳(石泉
二月    仙台などを旅する。
五~六月  熱海・那須で静養する。
八・五   「明治大正短歌史」書き終える。
八・一〇  窿応和尚遷化。
八・一五  強羅の別荘に赴く。
一一・一三 長兄守谷広吉没。郷里での葬儀に参列し、鳴子・平泉・石巻・松島・塩釜などを旅して帰京。
昭和七 (1932) 五〇歳(石泉
三・一   満州国建国。
八~九月  北海道・樺太旅行。志文内の次兄守谷富太郎を訪ねる。十和田・那須などに寄って帰京。
昭和八 (1933) 五一歳(白桃
四月    てる子と共に蓮華寺の窿応上人の本葬に列し、比叡山・京都・大阪を観光、てる子と別れたのち広島で中村憲吉を見舞う。
四・一四  広島より帰京し、すぐ伊香保温泉に向かう。二泊して帰京。
九月    軽井沢・草津・四万などを旅する。
十月    柿本人麿論を執筆する。
一〇・二〇 上高地に向かう。白骨温泉などに遊び、二四日帰宅。
一〇・三〇 平福百穂、秋田県横手に帰省中に死す。茂吉は発病を知って駆け付け看病していたが、上山の宿で死を知った。
一一・八  所謂ダンスホール事件につき妻てる子の醜聞が新聞に掲載される。以後、妻との別居が昭和二〇年まで続く。
昭和九 (1934) 五二歳(白桃
一・二三  二月二日まで上山に滞在し、実弟高橋四郎兵衛の経営する旅館山城屋にてる子を預かってもらうため交渉する。
五・五   中村憲吉、尾道にて没。八日、葬儀に参列する。
七月    大峰を参拝し、吉野・熊野などを旅したのち、人麿地理調査のため山陰に赴く。翌月、「鴨山考」の執筆にかかる。
九・一六  向島百花園での子規忌歌会で永井ふさ子を知る。
一一・一〇 『柿本人麿(総論篇)』出版。
一二・一四 熱海にて幸田露伴に初めて会う。
      ※この年以後、名目上の院長となり、週一回のみ診察という形をとる。
昭和一〇(1935) 五三歳(暁紅
一月    「童馬山房夜話」を『アララギ』に連載し始める。
三・二六  与謝野寛没。
四月    石見で人麿地理調査ののち、吉野・大阪を経て、箱根に至る。
七・八月  たびたび強羅の別荘に赴き、万葉集の評釈を書く。以後、夏は毎年のように強羅に籠るようになり、執筆などに励んだ。
十一月   伊勢・大和旅行。
      ※この年、永井ふさ子との交際を深める。
昭和一一(1936) 五四歳(暁紅
二・一   幸田露伴を訪ねる(七・六に再訪)。
七~八月  箱根強羅に滞在。
十月    信州旅行。木曾・白骨温泉などに遊ぶ。
昭和一二(1937) 五五歳(寒雲
五月    人麿研究のため再び鴨山を調査する。その後四国を旅行、松山で永井ふさ子に会う。帰途、岡山・淡路島・大阪などで万葉地理調査をする。
七月    伊香保に遊ぶ。
一二・一三 南京陥落。
昭和一三(1938) 五六歳(寒雲
七・二二  強羅の別荘に赴く。九月初旬まで滞在。
一一・二〇 『万葉秀歌』刊行。
昭和一四(1939) 五七歳(寒雲・のぼり路
五・四   人麿研究のため島根県への旅に発つ。広島・奈良を経て帰京。
七・六   蔵王の山頂の茂吉歌碑を見るため、上山へ向かう。八日、蔵王登山。
七・二二  強羅の別荘に赴く。九月半ばまで滞在。
十・四   鹿児島県の招待を受け、霧島等を廻る旅に出る。十日、高千穂登山。名古屋を経て十七日帰京。
昭和一五(1940) 五八歳(のぼり路
一月    『改造』に「高千穂峰」二百十首を発表。
三・一   第十二歌集『寒雲』を古今書院より出版する。刊行順では『あらたま』以来三冊目の歌集。
五・一四  『柿本人麿』の業績に対し、帝国学士院賞を授与される。
六・三   第十一歌集『暁紅』を岩波書店より刊行(以後の序数歌集はすべて岩波書店刊)。
七・二二  強羅の別荘に赴く。歌集『連山』『つゆじも』の歌稿の整理などをする。九月半ばまで滞在。
昭和一六(1941) 五九歳(
四・二四  佐渡・新潟旅行に発つ。山形を経て五月四日帰京。
七・二   強羅の別荘に赴く。『遠遊』『遍歴』の歌稿整理。九月半ばまで滞在。
十一月   関ヶ原などを旅する。
一二・八  日米開戦。
昭和一七(1942) 六〇歳(
二・二五  第十歌集『白桃』刊行。
五・一   六十一歳(数え歳)になった記念に、宮城・山形県境の笹谷峠越えをする。その後上山に滞在し八日に帰京。
五・二九  与謝野晶子没。告別式に出席。
七・三一  箱根強羅の別荘で『作歌四十年』の執筆を始める。
一一・二  北原白秋没。
昭和一八(1943) 六一歳(小園
七・一七  強羅の別荘に赴く。九月七日まで滞在。
一一・二〇 第十三歌集『のぼり路』刊行。
昭和一九(1944) 六二歳(小園
二・五   長男茂太、応召。陸軍病院に入隊。
七月    箱根強羅の別荘で『作歌四十年』の続きを執筆する。
昭和二〇(1945) 六三歳(小園
二・一七  疎開について相談するため上山に赴く。三月七日まで滞在。
三・一〇  東京大空襲。
三・二九  妻てる子を自宅にかえす。十二年に及ぶ別居生活を解消する。
四月    疎開のため単身山形県に赴く。故郷の金瓶の斎藤十右衛門宅の土蔵を借りて住む。
五・一八  松原の青山脳病院本院が東京都に買収される。
五・二五  空襲により青山の自宅・病院が全焼。松原の病院も罹災する。
六月    疎開先でてる子と同居する。
七月    八雲書店の勧めにより「決戦歌集」を編集、『万軍』と名付ける(終戦により刊行に至らず)。
八・一五  終戦。
昭和二一(1946) 六四歳(小園・白き山
一・三〇  金瓶より大石田に移る。
二月    妻てる子、上京する。
四・二八  孫茂一(茂太長男)が生まれる。
八・三〇  第三歌集『つゆじも』刊行。制作年順では『あらたま』に次ぐ集。
昭和二二(1947) 六五歳(白き山
六月    秋田を旅する。横手・八郎潟・角館・田沢湖などを巡り大石田に帰る。
八・三〇  第四歌集『遠遊』刊行。
十月    酒田・象潟などを旅する。
一一・四  帰京。世田谷区代田の新居に落ち着く。
昭和二三(1948) 六六歳(つきかげ
一・二六  養母ひさ没。
四・五   第五歌集『遍歴』刊行。
七・二七  強羅の別荘に赴き一夏滞在する。疎開時代の歌の清書などする。
昭和二四(1949) 六七歳(つきかげ
四・二〇  第十五歌集『小園』刊行。
七・一九  強羅の別荘に赴き夏を過ごす。
八・二〇  第十六歌集『白き山』刊行。
昭和二五(1950) 六八歳(つきかげ
一・三〇  第六歌集『ともしび』刊行(五月、第一回読売文学賞受賞)。
六・三〇  第七歌集『たかはら』刊行。
七・一四  強羅の別荘に赴き九月半ばまで滞在。
一〇・一八 次兄守谷富太郎、北海道北見にて没。
一〇・一九 左側不全麻痺。二〇日、出血あり絶対安静となる。
一一・一四 新宿区大京町の新居に移る。
一一・一五 第八歌集『連山』刊行。
昭和二六(1951) 六九歳(つきかげ
二月    心臓喘息の発作を起す。
六・一五  第九歌集『石泉』刊行。
一一・三  文化勲章を授与される。皇居に参内する。
一二・二〇 第十四歌集『霜』刊行。
昭和二七(1952) 七〇歳(つきかげ
四・二   宗吉の大学卒業を祝い、新宿にて家族で会食。鰻を食う。最後の外出となった。
四・六   再び心臓喘息の発作に襲われる。
五・七   岩波書店刊『斎藤茂吉全集』第一巻が配本される(全五十六巻。昭和三二年完結)。
昭和二八(1953) 
二・二五  午前十一時二十分、心臓喘息のため死去。満七〇歳九月。
五・二四  金瓶の宝泉寺の墓地に分骨。
六・四   青山墓地に埋葬される。
昭和二九(1954) 
二・二五  一周忌。第十七歌集『つきかげ』刊行。
昭和四九(1974) 
一月    新編集の『斎藤茂吉全集』が岩波書店より刊行開始(全三十六巻。昭和五一年完結)。
平成九 (1997) 
一二月   『アララギ』廃刊。