読書ノート

主として和歌関連の書籍の感想文です。比較的新しく刊行された本で、入手も容易と思えるものを中心に取り上げるつもりです。

『秋田城木簡に秘めた万葉集』  『千載集 勅撰和歌集はどう編まれたか』 『聖徳太子 未完の大王』 『櫻史』 『木丹木母集』 『万葉集と六朝詩』 『西行の風景』 『万葉集形成の研究』

『秋田城木簡に秘めた万葉集―大伴家持と笠女郎―吉田金彦(おうふう)平成12年9月刊

久々にロマンあふれる万葉学の本を読んだ。

著者の吉田金彦氏は、本業は国語学者であるが、地名や語源に着目し、実証的かつ大胆に万葉集を再解釈する近著でめざましい活躍をみせていた。すでに独自の学風を完成したと見える著者が、さらに新たな領域に挑戦した成果がこの本である。

本書の学問的冒険は、七年前、秋田市の秋田城跡から発掘された一枚の木簡の解読に始まる。木片の表裏には、それぞれ万葉仮名によって、次のような和歌の断片が記されていた。

波流奈礼波伊万志久珂七之
由米余伊母波夜久伊和太狭泥止利珂波志

これを吉田氏は、

春なれば、今しく悲し
(ゆめ)よ、妹。早くい渡さね。取り交はし

と訓んだ。たしかに万葉の風韻を伝える句である。発掘地点などから、延暦十年(791)前後に投棄されたものであることも確認された。

ここから、著者の心には、大伴家持という万葉末期の大歌人の存在が浮かび上がる。なぜなら、家持は延暦四年、持節征東将軍として陸奥国に果てたとの伝があるからである。

それだけではない。木簡の筆跡は、専門家の鑑定によって、家持が残した太政官符の署名の筆跡と一致したとの確証を得る。しかも、木簡に書かれた語句は、春愁の歌人と呼ばれる彼に、如何にも相応しいものではないか。

蝦夷征討のため陸奥に派遣された老将軍家持は、出羽の秋田城まで足をのばし、ここで歌を詠んだ。その記録は千二百年間土中に埋まっていたあと、奇跡的に我々の前に姿を現したのである。

吉田氏の探索行は、ここで終わらない。というか、ここから始まる。秋田の地名が詠まれたとおぼしい一首の万葉歌を端緒とし、「地名から風穴を開け」る方法で、著者は知られざる家持の後半生を明らかにすべく、旅に出る。それは同時に、万葉の恋愛歌人として名高い笠女郎の足跡を追う旅ともなるのである。

長年の地道な地名・語源研究を基にして、小説的な想像力さえ駆使した本書は、推理小説のような面白さを備えている。従って、これ以上の「ネタばらし」は避けたいと思う。

本書が提起する課題は、家持・笠女郎という二人の歌人のことに限られない。万葉集の編纂の問題、従来作者不詳の口誦歌を集めたものだとされてきた巻十・十一・十二などの作者の問題、などなど、万葉学の根幹に関わる新たな知見と問題提起が、次々と発されている。

なお書きたいことは多いが、あまりに多すぎる。(平成12年10月22日読了)


『千載集 勅撰和歌集はどう編まれたか松野陽一(セミナー[原典を読む]3、平凡社)平成6年6刊

国文学研究資料館が大学院生を対象に開催している講読セミナーの講義録。

千載集は七番目の勅撰和歌集で、平安時代最後の勅撰和歌集でもある。新古今集のひとつ前にあたり、これまであまり目立たなかったが、もちろん新古今とは違った、独自の面白さをもつ歌集である。すぐれた歌人であると同時に、和歌史に通暁していた歌学者でもあった藤原俊成の単独編集であること。それから、源平争乱の時代に生み出されたという歴史的背景、など。

本書は三部に分かれる。まず、伝本の系譜を辿る。次に、勅撰集の政治性(政教性)の問題に触れ、著者が「時事詠」と呼ぶ、時代を反映した歌を読み解く。最後に、この集を読むためのいくつかの視点(稚児愛・歌枕・今様)を提供して終わる。

勅撰集は、歌を一首一首解釈していけば、読んだということになるわけではない。その時代の政治的・文化的背景に深く根差していることは言うまでもないし、また歌の配列にはさまざまな効果が仕組まれている。そうした多面的な書物としての勅撰集を読む上で、ヒントに満ちたガイドブックになっていると思う。(平成12年4月23日読了)


『聖徳太子 未完の大王』遠山美都男(NHKライブラリー)平成9年12月刊

日本史の永遠のアイドル、聖徳太子の本を何冊か読んでみた。そのうちの一冊。太子の誕生から「一族の滅亡」まで、史料を辿りつつ、太子の「虚像のベールを剥ぎ取」ってゆく。

たとえば、生誕にまつわる伝説や、一種の超能力伝説は、聖徳太子の名前から説明できる、と遠山氏はいう。厩で生まれたから厩戸皇子という名前がついた、というのは、氏によれば話が逆である。後世の歴史記述者には名前の本当の由来が分からなくなっていたので、厩戸という名前から「厩で生まれた」という物語を作り出したのだ、ということになる。(遠山氏は、太子の名前の由来を、大和国葛上郡の馬屋戸という字と関係があるだろうと指摘している。)また、大勢の人の話を一度に聞き分けることができた、といった伝説は、太子の別名「トヨトミミ(豊聡耳)」から作為されたものであろう、という(このミミは、一種の尊称で、本来「耳」とは関係ない語である)。

こういったことはほんの序の口である。遠山氏の説が説得力をもつのは、たとえば憲法十七条を当時の推古朝の国家構造から検証し、「この時期の大王の直属臣僚の集団規範として歴史的に意味を持っていた」として、後世偽作説に一定の留保をつけたり、あるいは太子の三経講義の虚実や「日出処の天子」という主張の根拠を、当時の外交関係から追究していったり、といった、広いパースペクティブに立った検証の手際にある。

特に圧巻だったのは、第七章、太子ファミリーの養育氏族を中心とした、丹念な分析である。これによって氏は太子一族の所領を明らかにしてゆく。

これら太子一族の所領は、大和・河内を起点に摂津→播磨→備後→讃岐→伊予と分布しています。これらは、当時の国際玄関口であった難波から出発して瀬戸内海を西に向かうルートの沿岸部の要地に設定されているといっていいでしょう。太子がこのようなポイントに所領をもっていたということは、彼が当時の外交ルートの要地を直接掌握することを通じ、朝鮮三国のみならず、中国の隋との直接外交に積極的にコミットしようとしていたことのあらわれであると考えられます。
常に広い視野に立って論じている分、聖徳太子その人は遠景に退いてしまう。しかし、それを不満に思うのは的外れだろう。伝説の霧が氏の手によって少しづつ払われてゆく彼方に遠望されるのは、西暦六世紀末から七世紀初にかけての政治の現場に両足を踏みしめて立っている、太子の姿である。

ところで、私は『日本書紀』より山岸凉子の漫画『日出処の天子』を先に読んで聖徳太子に関心を持った世代(?)であるが、古代史専門の学者がこの名作漫画に触れた文章を本書で初めて読むことができた。これも、嬉しいことであった。(平成12年4月某日読了)。


櫻史(おうし)山田孝雄(講談社学術文庫)平成2年3月刊〈原本は昭和16年刊〉

言わずと知れた、国語学・国文学の泰斗による「日本人と桜の歴史」全書である。

毎年この季節になると書架から取り出して、そぞろ読みするのが習慣になっている。なにしろ文語文で綴られた大著であり、読み通すのは容易でない。何年もかけて、つまみ食いするように読んできて、今年ようやく最後の方まで辿り着いたのである。

「なぜ日本人はかくも桜を好むのか?」

最後の最後に至って、この問いに対する明快な解答が出されていた。そのことだけ、ちょっとメモしておきたいと思って、ここに記す。

よく指摘されるのは、桜の短命なはかなさ、無常観との関連であるが、山田博士はそうした説をはっきりと否定している。散り際のいさぎよさなら、椿や罌粟の方が鮮やかで、 「なぜ桜なのか」の答えになっていない、というのである。

吉野山霞のおくはしらねども見ゆるかぎりは櫻なりけり(八田知紀)
花の雲鐘は上野か浅草か(芭蕉)

博士は、古来日本人が「花の雲」「花の霞」を賞美してきた例をあげて、日本人は桜の「集合的の美」ゆえにこの花を愛した、と言う。桜は薔薇のように一輪だけで見栄えのする 花ではないが、空間的な広がりにおいて捉えるとき、芒洋とした美しさを発揮する。そうした美を日本人は好んだ、というのである。

言われてみれば当たり前のような話であるが…。

青丹よし奈良の都はさく花のにほふが如く今盛りなり(小野老 万葉集)
うらうらとのどけき春の心よりにほひ出でたる山櫻花(賀茂真淵)

そもそも「にほふ」とは、色彩が染み出すようにして、外界の事物と照応し合うさまを言う言葉であった。桜はその美しさで空間を占有し尽くし、見る人の心をさえも同じ美しさに染めあげてしまう。それが「花のにほふ」の意味するところであった。

春の光に照り映えて、爛漫と咲き誇る桜。平城京の昔から、日本人はそのような桜をこそ愛してきた。それこそ「日本人の魂にやどる櫻の本體」であると博士は言う。

ここからは私の勝手な感想というか拡大解釈になるが、日本人は桜を好んだと言っても、決して鑑賞や愛玩の対象にしてきたとは思えない。むしろ桜のもとに我が身を投げだし、花の霊に身を委ねることを好んできた。花の雲の中で、西も東もわからなくなり、己を失う甘美さに酔ってきたのである。そんなことを許してくれるのは、桜だけだった。

もろともに我をも具して散りね花…(西行

桜の花を言うとき、「散る別れ」への哀惜や、命短しといった人生的な感慨ばかりを強調する態度を、博士は「感傷的」と斥けている。私もそう思う。「散るなら散ってしまえ、桜よ。ただし私も一緒にこの世の外へ連れて行ってくれ」。桜に心を失っていた西行の言葉は、感傷とは無縁である。

この花には、内省や感傷は似合わない。耽美、あるいは忘我が似つかわしい。毎年、花の下で我を忘れ、飲んだくれてばかりいる私は、博士の説に深く頷くばかりだったのである。(平成12年4月現在、未読了)


横浜市の根岸森林公園にて


木丹木母集(もくたんもくぼしゆう)保田與重郎(新学社「保田與重郎文庫」)平成12年1月刊

保田與重郎の唯一の歌集である。このたび新学社の「保田與重郎文庫」に入り、初めて通読する機会を得た。

保田の和歌の創作は、歌集の後記に自ら記すごとく「大方は人に求められるままに、色紙短冊の類にしたゝめたもの」で、「それは秘かなものだから、活字に印行して世に示す如きことを、私は長らく非常にためらつてきた」と言う。

しかしそれは、文芸批評家の余技というものでもない。彼は常に歌作に寄り添いつづけた。この集には昭和初年から昭和四十五年までの作が収められているのである。

保田は何よりも詩を、歌を重んじた批評家であった。和歌を中心とする古典論に拠って、現代を批評すること。それが保田のとった主要な方法であり、また信念であった。この点について、保田が自らの立場を注釈する文章がある。

古い時代に材を求めるやうなことも、主として、現代の問題を、現代から將來にかけての希望(原文は傍点)の下に展きたいと思ふからである。つまり現代の暗黒面を自然主義的に描き出す代りに、現代の光明をその一番可能な側面で展開したいと考へる。(「わが最近の文學的立場」)

また彼はこうも言う「私は利巧さうな悲觀論者になるよりも、無智な樂天家になりたい」。同時代を「光明」の側面から展開しようとする時、我々の「無比な歴史と血統」、古典和歌がその光源となったのである。保田が論じた家持・和泉式部・後鳥羽院、いずれもそのような光源体であった。

ふたたび歌集の後記から引用しよう。

歌に對する私の思ひは、古の人の心をしたひ、なつかしみ、古心にたちかへりたいと願ふものである。方今のものごとのことわりを云ひ、時務を語るために歌を作るのではない。永劫のなげきに貫かれた歌の世界といふものが、わが今生にもあることを知つたからである。現在の流轉の論理を表現するために、私は歌を醜くしたり、傷つけるやうなことをしない。さういふ世俗は私と無縁のものである。私は遠い祖先から代々つたへられてきた歌を大切に思ひ、それをいとしいものに感じる。私にとつては、わが歌はさういふ世界と觀念のしらべでありたいのである。

長くなったが、保田にとって歌作りがいかなるものか、この一文に語り尽されているのである。

ただひとこと付け加えるなら、それは保田の批評観と一体のものであり、歌においても保田與重郎はやはり批評家保田與重郎であった、ということだ。

春ははや月なき空も花やぎて窓べにかをるくれなゐの梅
さみだれの貴船の川のかちわたりよりそひし子をわれは忘れぬ
山かげに立ちのぼりゆくゆふ烟わが日の本のくらしなりけり

私にことに感銘深かったのは、「景仰歌 三首」と題された作であった。

國のため、いのち(さき)くと願ひたる、畏き人や。國のために、死にたまひたり。
わがこゝろなほもすべなしをさな貌まなかひに(た)つをいかにかもせむ
夜半すぎて雨はひさめにふりしきりみ祖の神のすさび泣くがに

左注には「右三首、昭和四十五年十一月某日」とあるのみだが、三島由紀夫割腹の直後の詠である。この歌集は翌昭和四十六年八月に出版された。(平成12年2月6日読了)


『万葉集と六朝詩 悲哀と耽美の起源吉田とよ子(勉誠出版 遊学叢書)平成11年7月刊

『文選』『玉台新詠』などの六朝詩が万葉集に与えた影響はすでに多く指摘されているところだが、著者は六朝詩からの影響のうちに、日本文学に滔々と流れる「洗練された美」と「澄明な悲哀」という二つの流れの原点を見ようとしている。

政治的には暗黒の時代であった六朝時代は、それゆえにこそ美への憧憬と生の悲哀にみちた詩文学を産んだ、と著者は指摘する。事実、六朝詩の傑作の作者は、その多くが政治的な敗者であった。万葉歌人たちが共感し、範とした書物は、『詩経』のような聖典でなく、儒家的伝統とは切れた、芸術至上主義的な「美しさと哀しみ」の詞華集なのであった。

著者は、『文選』に「悲哀の大湖」を、『玉台新詠』に「耽美の大湖」を見る。そして、かの国の詩人・文学者と万葉歌人とを対照して、上代文学の抒情の変遷を明快に説き明かしてゆく。

  聖徳太子と昭明太子
  額田王と鮑照
  人麻呂と潘岳
  赤人と謝霊運
  憶良と陶淵明
  旅人と阮籍
  家持と庾信

六朝文学は万葉歌人たちに「何を、いかに詠むか」という主題上・技法上のインスピレーションを与えた。のみならず、そこには時と場所を越えた、詩人同士の深い共感があった。

しかしまた、彼我の作品の対比は、両者の差異を浮き彫りにせざるを得ず、日本文学の個性を改めて我々に思い知らせてくれる。たとえば著者は、人麻呂の挽歌は潘岳らに学びながら、かの国の詩には見られない情感の深さがある、という。われらが詩人は「悲憤」したり「慟哭」したりする代りに、「あはれ」と嘆息した。

また、家持と庾信は共に巧緻な絵画的世界の創造を追求したが、家持の歌に見られる美と悲愁は宗教的な次元にまで達している、と著者はいう。むろん、そうした背景には仏教の深い影響がみとめられるのである。

叙述の細部を見れば、憶良の「宴を罷る歌」の解釈など、疑問に思える点も少なくないが、この書物全体の意図を妨げる程ではないだろう。

万葉集と漢文学についての比較文学的研究は、とっつきにくい印象の本が多い。本書は非常にわかりやすく、しかも上代文学の簡明な見取り図を提供している点、貴重と思えた。

引用される六朝詩は、著者自身の流麗な口語訳を付され、この点も本書を親しみやすいものとしている。(平成12年1月27日読了)


『西行の風景』桑子敏雄(NHKブックス/日本放送出版協会)平成11年4月刊

昨今、様々な分野で注目されている西行だが、この著者は空間論・身体論を追究している哲学者。と言っても難解な本ではなく、むしろ論旨は大変具体的で明快である。著者自ら言うとおり「目と足で哲学」した成果なのだろう。

著者は、人間を内面から捉えるかわりに、その身体が置かれた空間から考察してゆく。戦乱の世に出家して、中世日本という風土の中を隈なく旅した西行。彼が身を置いた空間には、どのような風景があらわれたのか。その追究の果てに、思いがけぬ新鮮な西行像が出現する。

「和歌即真言」と考え、歌道修行と仏道修行を一致させた西行。

「日本語というローカルな言語、日本というローカルな空間意識」のもとで、仏教というグローバルな思想を空間化し、普遍的な真理への到達をめざした西行。

自歌合を伊勢神宮に奉納するという一大プロジェクトによって、本地垂迹思想を「実行」し、神仏の融合を祈願した西行。

西行の和歌の解釈も、たとえばこのようになる。

 神路山            大日如来が垂迹した神路山に
  月さやかなる         月がさやかに照らし
   ちかひありて         民を救おうという誓いがあって
 天の下をば          天照大神はこの世界全体を
  てらすなりけり        照らしているのだ

グローバリズムとローカリズム、これは今もなお悩ましい問題であるが、昔の日本人がそれをどのように真剣に受け止め、解決しようとしたか。「宗教にいい加減」という日本人像が、古人に対してどんなに礼を失した言い方か。そんなことも考えさせられた。

和歌を単なる情緒・感性の表現でなく、日本人の思想の表現としてとらえようと考えている私にとっては、非常に示唆に富む本だった。(平成12年1月19日読了)


『万葉集形成の研究』 中西進(中西進万葉論集成6)平成七年9月刊

要旨

1. 万葉集がほぼ現形に近い形をなした時期は宝亀年間、文屋智努・邑知兄弟と家持がその主な担い手であった。これは巻一・二などの資料が主として大伴系と長皇子系の2系統より成ることから導き出される。

2. 末4巻は単純に家持の歌日記と言えるものでなく、池主・広縄など越中時代の家持の下僚や帰京後の歌友今城の筆録になる資料と家持自身のノートとを、やはり宝亀年間に家持自身が合体して編集したものである。

3. しかし宝亀年間に編集された万葉集は未だ草稿に過ぎず、これに口承古歌を併せて大部の万葉集を編纂したのは菅原道真である。

4. 古今後撰の時代に到っても万葉集は未だ統一されず、例えば巻七・八・九・十の4巻は「万葉集」ではなかった。万葉集が現在見られるような20巻の形に整えられたのは梨壺の五人が古点を付した10世紀半ば頃のことである。

コメント

昭和41年から42年にかけて発表された論文を主体として、著者積年の万葉形成研究を集成した書。平成7年に至って初めて一巻に纏められ公刊された。

題詞の分類から万葉集の編纂原理を導き出し、綿密な論理と大胆な推測を巡らして、その編纂者と形成(成立ではない)の過程を究明する。極めて単純な前提から出発して複雑極まる万葉形成の様相を簡潔に描き出す手際に、驚嘆せざるを得ない。

同じく万葉の「内部徴証」から出発した伊藤博の『萬葉集の構造と成立』が差し出した結論とは大幅に食い違っている点にも驚かされる。特に、巻十六までの歌に天平17年以後の作がないのは、それが天平18年頃纏められたからでなく、18年以後に記録を始めた末4巻の成立の後になって家持の手で編纂されたからだ、という「逆転の発想」。

(1)天平18年以前における16巻編集
(2)末4巻イコール家持歌日記
(3)平城朝における万葉20巻の成立

この三つの「ほぼ通説」がきわめて疑わしいことを提議している点、万葉形成論史上画期的な著作と呼ぶに足る。



公開日:平成18年10月5日
最終更新日:平成18年10月5日