穂積朝臣老
ほづみのあそみおゆ
- 生没年 ?〜749(天平勝宝1)
- 系譜など 未詳。穂積氏は『新撰姓氏録』左京神別上によれば石上氏と同祖で、饒速日命の五世孫伊香色雄命の後。『古事記』も饒速日命の子宇摩志麻遅命を物部連・穂積臣・采女臣の祖とする。本拠地は大和国山辺郡穂積郷(奈良県天理市前栽付近)という。
- 略伝 万葉集巻三に「志賀に幸しし時石上卿の作る歌」と並んで「穂積朝臣老の歌」(03/0288)があり、志賀の大津で詠んだ歌と思われるが、いつの行幸か確かではない。排列からすると和銅年間以前の作。
703(大宝3)年1.3、山陽道巡察使。この時正八位上。709(和銅2)年1.9、従五位下に昇叙される。710(和銅3)年1.1、元日朝賀の際、左将軍大伴旅人のもと、副将軍として騎兵を陳列、隼人・蝦夷らを率いて行進する。713(和銅6)年4.23、従五位上。717(養老1)1.4、正五位下。718(養老2)年1.5、正五位上。同年9.19、藤原武智麻呂が式部卿に就任した際、式部大輔に任じられる。722(養老6)年1.20、「指斥乗輿」(天皇を名指しで非難したこと)の罪で斬刑の判決を受けるが、首皇子の奏上により死一等を降され、佐渡に配流される。この頃の作と思われるものに、万葉巻十三の歌があり、左注に「或書に云はく、穂積朝臣老の佐渡に配されし時作る歌なりと」とある(13/3240・3241)。
740(天平12)年6.15、恩赦により入京を赦される。744(天平16)年2.2、難波遷都の際、恭仁京留守官。この時大蔵大輔正五位上。746(天平18)年1月、左大臣橘諸兄らと共に元正上皇の中宮西院に雪掃いに奉仕し、肆宴に参席。749(天平勝宝1)年8月、卒す。
関連サイト:穂積老の歌(やまとうた)
表紙へ