石上乙麻呂
いそのかみのおとまろ
- 生没年 ?〜750(天平勝宝2)
- 系譜など 左大臣麻呂の第三子。宅嗣の父。
- 略伝 神亀元年(724)二月、聖武天皇即位の後、従五位下に叙せられる。天平四年(732)一月、従五位上。同年九月、丹波守。天平八年(736)一月、正五位下。以後急速に昇進し、天平九年(737)九月正五位上、天平十年(738)一月には従四位下に昇り、左大弁の要職に任じられた。ところが天平十一年(739)三月、故藤原宇合の室久米連若売と姦通した罪により、土佐に配流される(宇合の死去は天平九年、すでに服喪期間は過ぎているため、おそらく宇合の生前か服喪中に姦通していたことが、後になって発覚したのであろう)。なお若売は式家雄田麻呂(百川)の母。この配流事件について詠まれた歌が万葉集巻六にあり(06/1019〜1023)、うち二首は乙麻呂自身の作。また『懐風藻』所収の「五言、秋夜閨情、一首」他詩四編は土佐での詠。翌天平十二年(740)六月、大赦があり、久米若売は流刑地下総より入京を赦されるが、乙麻呂はこの時赦免されず。天平十三年(741)九月、恭仁遷都に伴う大赦があり、この時すべての流人が免罪され、乙麻呂もまもなく土佐より帰京したと思われる。
天平十五年(743)五月、従四位上。翌年九月、西海道巡察使に任命される。天平十八年(746)一月、大唐使の任命があり(正倉院文書)、この時大使を拝命(懐風藻)。しかし計画はその後中止された。同年四月、常陸守に任じられ、同月正四位下に昇進。同年九月、右大弁。天平二十年(748)二月、従三位。同年三月、多治比広足・石川年足・藤原八束らと共に参議に就任。同年四月、元正上皇が崩じ、御装束司を務める。翌天平勝宝元年七月、聖武天皇が譲位し、阿倍内親王が即位する(孝謙天皇)と、中納言に昇進したが、翌天平勝宝二年(750)九月一日、薨じた。時に中納言従三位兼中務卿。懐風藻に「地望精華・人材穎秀・雍客間雅、甚だ風儀に善し」と、その才能と風采を賞讃されている。同書によれば土佐謫居の時漢詩集『銜悲藻』二巻を著したというが、現存しない。
関連サイト:石上の乙麻呂の歌(やまとうた)
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