折節の記


―海を渡る鹿―

 私が以前から気になって仕方なかった万葉集の歌のひとつに、次の歌がありました。巻7の巻末に収められ、「羇旅作」と題された歌です。

名児の海を朝榜ぎ来れば海中(わたなか)に鹿子(かこ)ぞ鳴くなるあはれその鹿子(作者不詳)

【原文】名兒乃海乎 朝榜来者 海中尓 鹿子曽鳴成 〓怜其水手
 注:〓は<立心偏に可>の字

 現代語訳するまでもないと思うのですが、「朝、名児(なご)の海に船を漕いでいたら、海のただなかで鹿が鳴いている、ああ何といとおしい鹿の子よ」といったところでしょうか。この歌を初めて読んだとき(学生の頃ですが)、鹿がなぜ海を泳いでいるのか、不思議でならなかったのです。海の真ん中で悲しげに鳴く鹿のイメージが、私の記憶の底にこびりついたように離れなくなりました。
 その後、注釈書などを読むと、この「鹿子」は「水手(かこ)」の借字であり、水夫が友船に向かって呼びかけている情景を詠んだもの、という解釈のあることを知りました。肩透かしを食ったような落胆を感じたものでしたが、別の注釈書にあたってみると、鹿が海を渡る古い説話が紹介されており、「かこ」は文字通り「鹿子」と解してよい、としていて、私の中の「海を渡る鹿」のイメージはたちまち甦りました。
 その説話というのは、摂津国風土記逸文に見える「刀我野(とがの)の牡鹿」のエピソードです。少し長くなりますが、要約したうえ引用してみます。

 昔、摂津の国の刀我野(とがの。いまの神戸市兵庫区)というところに、牡鹿(おじか)がいた。嫡妻(むかいめ)の雌鹿は同じ野に住んでいたが、側妻(そばめ)の雌鹿は淡路の野島(いまの北淡町野島)に住んでいた。牡鹿はしばしば野島に行って側妻と愛し合っていた。ある朝、牡鹿は嫡妻の雌鹿に言った、「ゆうべ、こんな夢をみた。背中に雪が積もる夢と、ススキが生えた夢だ。いったい何のしるしだろう?」。嫡妻の雌鹿は、夫がまた側妻のところへ行ってしまうことを憎み、偽って夢占いをして、「背中にススキが生えたのは、矢に射られるしるし。雪が積もるのは、塩を塗られるしるしです。海を渡ると、船人に射られますから、どうぞ行かないで下さい」と訴えた。しかし牡鹿は恋しさに耐えきれず、また野島へと泳いで行った。海の真ん中で、船に遇い、ついに射殺(いころ)されてしまった。刀我野を夢野と呼ぶようになったのは、こういう訳である。

 似たような話が日本書紀の仁徳天皇紀に載っています。そこには鹿が海を渡る話は出て来ないのですが、菟餓野(とがの)の鹿の声を聞いた仁徳天皇が「可怜(あはれ)とおもほす情(みこころ)を起こしたまふ」とあり、やはり「あはれその鹿子」の歌を思わせるところがあります。この歌は、当時広く知られていた「刀我野の鹿」の説話を下敷きにしたものだったようなのです。
 鹿の鳴き声は、胸に染み透るような悲しげな響きです。国文学者の伊藤博さんはこれに「カーヒョウー」という擬音をあてていました。

 さて、鹿が泳いでいた「名児の海」とはどこの海なのでしょう。
 同じ万葉集巻7に「住吉(すみのえ)の名児の浜辺」を詠んだ歌があることなどから、住吉あたりの海とするのが通説になっています。越中にも奈呉(なご)の海と呼ばれた海があったのですが、摂津の伝説に関係ある歌であることからも、住吉付近の海と考えて間違いはないでしょう。注釈書や地名辞典で「名児の海」の説明を探すと、どれも「住吉の海岸のどこか。詳細不明」というようなことが書いてあります。
 しかし「鹿子」の歌について、私に依然として不審が残るのは、神戸の西端から淡路島へ泳ぎ渡るならともかく、鹿は大阪湾を泳いでどこへ行こうとしていたのだろうか、ということです。淡路島はあまりにも遠く、大阪湾の波はあまりに高いのではないか。

住吉神社
住吉神社 大阪府住吉区住吉

 「鹿子」の歌以外で、住吉の「名児の海」を詠んだらしい歌を以下に並べてみましょう。すべて巻7に収められたものです。

住の江の名児の浜辺に馬立てて玉拾(ひり)ひしく常忘らえず
名児の海の朝明のなごり今日もかも磯の浦廻に乱れてあるらむ
舟泊てて杭振り立てて廬りせむ名児江の浜辺過ぎかてぬかも

 2番目の歌の「磯の浦廻(うらみ)」は海岸の曲がって入り込んだところ、要するに湾や入江などの浜辺を指すと言ってよいでしょう。すなわち「名児の海」は入江をなしている海であったことになります。とすれば、3首目に詠まれた「名児江」は、「名児の海」と同一の海を指していると考えてよいのではないでしょうか。
 当時の住吉には陸地に深く入り込んだ入江(ラグーン)がありました。『難波京の風景』(文英堂)の図版にならって大雑把な概念図を描くと、次のようになります。

住吉地図
古代住吉概念図

 「名児江」の「江」という語は、「海や湖などの入りこんだところ、『いりえ』をいう。深く水をたたえていて、船などの入りうるところをいう」(白川静『字訓』)。つまり港などに利用できるような入り海を言ったわけです。住吉の津があったラグーンこそ、この「名児江」「名児の海」にほかならないのではないでしょうか。
 ナゴという名は、素直に考えればナゴヤカ・ナゴムなどのナゴと同根で、<ナゴの海>は波穏やかな湾や入江に付けられた名として相応しいものです。家持が越中で詠んだ「奈呉(なご)の海」「奈呉の江」は、そのような内海でした。
 そこで「あはれその鹿子」の歌に戻ったとき、私は初めてこの歌を納得することが出来た気がしたのです。この歌に詠まれた鹿は、何も大阪湾を泳いでいたわけではなく、波穏やかな入江を泳ぎ渡って対岸へ行こうとしていたのだ、と。
 歌の作者たる旅人は、住吉津か朴津(えなつ)の湊へ向かって名児の入江を榜ぎ進んでいたのでしょうか。海の真ん中で鹿の鳴く声を聞いた彼(または彼女)は、兎我野の鹿の説話を思い出して鹿の行く末を案じ、「あはれ」の情に自らの旅中の不安を重ね合わせたのかもしれません。


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©水垣 久 最終更新日:平成13-08-27