高丘連河内
たかおかのむらじこうち(かふち)
- 生没年 未詳
- 系譜など もとの氏(うじ)名は楽浪(ささなみ)。百済系渡来人沙門詠の子。比良麻呂の父。
- 略伝 和銅五年(712)七月、播磨国大目従八位上の地位にあり、正倉造営の功により褒賞される。養老五年(721)一月、首皇子の侍講に任命され、退朝の後、東宮に侍す。この時正六位下。同月、学問に優れた人物として褒賞される。神亀一年(724)五月、高丘連を賜姓される。天平三年(731)一月、外従五位下。同年九月、右京亮。天平十三年(741)九月、藤原仲麻呂・智努王らと共に、恭仁京における庶民の宅地班給・左右京の設定に従事。天平十四年(742)八月、聖武天皇の紫香楽村行幸に際し、智努王と共に造離宮司に任じられる。翌年、恭仁京で歌を詠む(万6/1038・1039)。天平十七年(745)一月、外従五上。天平十八年(746)一月、元正上皇の御在所での肆宴に臨席、応詔歌を詠むが、記録に残らず。天平十八年(746)九月、伯耆守。天平勝宝三年(751)一月、従五位上。天平勝宝六年(754)一月、正五位下。この頃大学頭を務める。
関連サイト:高丘河内の歌(やまとうた)
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