大原真人門部
おおはらのまひとかどべ
- 生没年 ?〜745(天平17)
- 系譜など もとの名は門部王。父母等は未詳。『新撰姓氏録』によれば敏達天皇の孫である百済王の後裔。『皇胤紹運録』は長親王の孫とするが、これは疑わしい(高安王参照)。同じく紹運録によれば、川内王の子、高安王・桜井王の弟。なお、和銅六年(713)に無位より従四位下に叙された同名の王がいて、略歴の一部は判別し難い。大原真人氏については今城の略伝参照。
- 略伝 和銅三年(710)一月、無位より従五位下。養老元年(717)一月、従五位上。養老三年七月、伊勢守に伊賀・志摩按察使を兼ねる。養老五年一月、正五位下。神亀元年(724)二月、正五位上。神亀五年(728)五月、従四位下。この頃、「風流侍従」として長田王・佐為王・桜井王ら十余人と共に聖武天皇に仕える(『藤氏家伝』武智麻呂伝)。天平六年(734)二月、朱雀門で歌垣が催された際、長田王・栗栖王らと共に頭をつとめる。天平九年一月、橘少卿(佐為)らを家に招き宴(万葉6/1013・1014)。この時弾正尹。同年十二月、右京大夫。天平十一年四月、高安王と共に大原真人を賜姓される。天平十四(742)四月、従四位上。天平十七年(745)四月二十三日、卒。大蔵卿従四位上。
万葉には五首(3/310・326・371、4/536、6/1013)。歌からは養老末年頃出雲守として赴任していたことが知られる。
関連サイト:門部王の歌(やまとうた)
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