井上内親王
いのうえのひめみこ
- 生没年 717(霊亀3)〜775(宝亀6)
- 系譜など 聖武天皇の皇女。母は県犬養広刀自。同母弟に安積親王、同母妹に不破内親王がいる。白壁王に嫁し、他戸王・酒人女王らを産む。死後、吉野皇后とも称された。
- 略伝 721(養老5)年9.11、5歳の時、伊勢斎王に卜定される。6年後の神亀4年、伊勢下向。
744(天平16)年閏1.13、弟の安積親王が薨じ、喪により伊勢斎宮を退下。帰京後、白壁王の妃となる。
天平19年、無位より二品。
751(天平勝宝3)年、他戸王を出産。
天平勝宝6年、酒人女王を出産。
761(天平宝字5)年10.11、保良宮遷都に伴い、稲十万束を賜わる。
768(神護景雲2)年10.30、大宰府の綿1万屯を賜わる。
神護景雲4年称徳帝崩じ、夫の白壁王が即位(光仁天皇)。同年11.6、皇后となる。
翌宝亀2年、子の他戸親王が立太子。
772(宝亀3)年3.2、巫蠱(ふこ)の罪に連座して皇后を廃される。続紀には事件よりすでに年月経過とあり、一説に769(神護景雲3)年の不破内親王・氷上志計志麻呂母子らの巫蠱事件を指すとするが、これは前年誣告だったことが明らかになっているので成り立たない。『霊安寺御霊大明神略縁起』によれば、井上内親王の罪状はマシワザ(人形)を御井に投げ入れたことであったという。背後には山部親王(のちの桓武天皇)擁立を謀る藤原式家の策略があったか。
同年5.27、井上内親王の大逆罪により、他戸親王は皇太子を廃される。詔に井上内親王の呪詛による大逆は度々発覚とある。『類聚国史』によれば、他戸親王は暴虐甚だしく以前から父帝とは不和であったが、井上内親王が巫蠱の罪で捉えられた時、光仁の旧臣槻本公老が獄を按験し、奸状が多発、よって母子共に廃せられることとなった、という。
773(宝亀4)年10.19、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪詛した罪で、大和国宇智郡の没官の宅に息子の他戸王と共に幽閉される。井上内親王母子が難波内親王を呪詛すべき理由は見当たらず、これまた藤原式家・山部親王らの謀略に陥れられたとしか理解できない。
 井上内親王を祀る御霊神社 奈良県五條市 |
775(宝亀6)年4.27、幽閉先で他戸王(25歳)と共に変死。この後、続紀には異変の記事が続出する。7月から8月にかけて黒鼠の大群・雹・飢饉・野狐・風雨。8.22、伊勢・尾張・美濃で風水害。伊勢斎宮を修理。9.20、霖雨。10.6、地震。翌宝亀7年2.6、流星。4.1、日食。6.4、太白、昼に現れる(国の乱れる凶兆)。6.18、京と畿内で大祓。旱のため黒毛の馬を丹生川上神に奉献。7.19、西大寺西塔に落雷。8.13、大風。8.15、全国で蝗の害。9月、毎夜瓦・石・土くれが内豎所の庁舎や京中の家々の屋根に落下。20日余り続いて止む。10.9、地震。翌宝亀8年2.28、畿内5カ国で疫神を祭る。2.30、日食。3.19、宮中で頻りに怪異、大祓を行う。4月、雹・氷が降る。また太政官・内裏の建物に落雷。5月、霖雨。8月、霖雨。9.18、内大臣藤原良継薨ず(62歳)。11.1、天皇不豫。12月、皇太子病。この年冬、雨が降らず泉川が涸れる。これらが井上内親王の怨霊の仕業と考えられたことは、同年12.28、井上内親王の遺骨を改葬し、墓を御墓と追称する旨の記事から明らかである。
800(延暦19)年、早良親王を崇道天皇と追称、井上内親王を皇后と追称し、御墓を山陵と追称する(類聚国史)。陵墓は奈良県五條市御山町の宇智陵。
関連サイト:まんがで見る五條市史 井上内親王編
上御霊神社(Web-Town京都)
井上内親王(斎宮物語)
御陵古祠(五條のええとこ見つけ隊)
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