略伝 737(天平9)年、従五位下。天平10年4.22、大養徳守兼式部少輔。同年12.4、親族を誹謗した廉で大宰少弐に左遷される。
天平12年8.29、大宰少弐藤原広嗣より朝廷に上表文が届く。天地の災異は悪政の故と指摘し、僧正玄ム(げんぼう)・右衛士督下道真備を除くことを主張。朝廷はこの言動を謀反とし、広嗣逮捕(召喚)の勅を出すが、広嗣はこれに従わず直ちに挙兵。
『松浦廟宮先祖次第并本縁起』(『本朝文集』に所収)から広嗣の上表文の詳しい内容が窺い知れる。
- 天平11年11月27日、太白(金星)が昼現われたのを兇兆とし、地震などの災異を陳べて賊人による君位奪取の兆候とする。
- 玄ム(げんぼう)は正道に反し紫の袈裟を着、僧であるにも関わらず財を積み、香華で身を飾り女色に愛著する。「遂に今、金身丈六の仏眼に涙を流さしめ、下賎の女子を矯しめて偽りて弥勒と称す」
- 金光明経にある通り、天子は諸天の護持を必要とするが、賢臣良将を用いる代わりに悪人に親近している。疫病流行などはこの故である。
- 新羅・蝦夷・隼人らの侵略の危険性を説き、軍備縮小政策(前年五月の諸国兵士の停止)を批判。
- 玄ム(げんぼう)は天皇皇后を騙し秘かに宝位を狙っている。諸国兵士の停止も実は「大唐の相師」を帝位に即かせんがためである。また下道真備は玄ム(げんぼう)と契って国を転覆させようと企んでいる。この両者を除かなければならぬ。
藤原広嗣の乱の経過(天平12年)
- 9月3日、朝廷に広嗣挙兵の報が届き、鎮定のための将軍を任命。広嗣は、自らの率いる大隅・薩摩・筑前・豊後諸国の兵5千、弟綱手(式家四男、官職は不明)率いる筑後・肥前の兵5千、多胡麻呂(伝不詳)率いる軍勢(肥後国兵士か。弘仁4年の時点では4千名)の三軍に分け登美・板櫃・京都の三鎮を目指して進撃。注:「鎮」とは中央政権直轄の軍事組織で、本来は外敵侵入に備え配備したもの。その兵営を鎮所と言う。
- 朝廷は大野東人を大将軍、紀飯麻呂を副将軍とし、東海・東山・山陰・山陽・南海の兵1万7000名を徴集して征討を命ずる。注:前年5月、三関国・陸奥・出羽・越後・長門・大宰府管内諸国を除いた諸国の軍団の兵士は暫く停止する旨の太政官符が出されており、当時兵士のほとんどは帰農を終えていた。これらを再召集したと考えられるので、兵士が揃うまでにはかなりの時日を要したはずである。
- 大将軍東人、長門より9月24日付報告、「京都郡鎮長・板櫃鎮長を殺獲。大長三田塩籠は逃走。豊前国の登美・板櫃(いずれも現北九州市小倉北区)・京都(現大分県京都郡)の三鎮の営兵1千7百余人を捕虜とする(登美・板櫃はすでに占領か)。(以下過去に遡っての報告)21日、長門国の郡司額田部広麻呂をして精兵40人を率いて関門海峡を渡らせる。佐伯常人・安倍虫麻呂らの官軍は23日に渡海し、板櫃の営に陣取る。東人は後続の兵を率いて海峡を渡る予定。間諜の報告、広嗣は遠珂郡(筑前国遠賀郡。板櫃まで20キロ程の距離)の郡家に陣取り、弩などを準備し、狼煙を挙げて国内の兵を徴発」。注:報告の到着は29日頃か。三鎮の兵を捕虜にしたなどの戦果を上げた主体は不明。21日派遣の精兵及び22日派遣の官軍か。または宇佐宮の兵など豊前国の在地兵力か。
- 大野東人25日付報告、豊前国の大領・少領らの来帰が相次ぐ。
- 9月29日、聖武天皇、大宰府管内の諸国に対し勅を発する。
- 広嗣の生来の凶悪な性格。
- 親族に対する誹謗。
- 広嗣に与した謀反人により勅符の送人が殺害されるなどの妨害があったため、改めてこの勅符を諸国の百姓に配布する。
- 謀反人に対する改悛の奨め。広嗣を斬殺すれば白丁には五位以上を賜う。
- 大軍が引き続き筑紫へ進入する。この状況をよく弁えよ。
- 広嗣の弟は流罪。宿奈麻呂、伊豆。田麻呂、隠岐。
- 10月5日、板櫃河を挟んで朝廷軍(常人・虫麻呂率いる4千に帰順した兵らを加えた6千)と叛乱軍(広嗣自ら率いる1万)が交戦、叛乱軍の隼人の一部が帰順するなど朝廷軍が有利に展開。
- 東人より10月9日付報告、広嗣は自ら1万の兵を率い板櫃河に至る(10月5日頃)。渡河しようとする広嗣軍に対し勅使常人・虫麻呂らは弩を放ち、反乱軍は後退。征討軍の隼人、賊軍の隼人に対し帰順を呼びかける。広嗣は「朝命を拒まず、ただ朝庭乱す二人を請はくのみ」と玄ム(げんぼう)・真備の引き渡しを要求。常人らは、勅符を賜うために大宰典以上を召喚したのに、広嗣がそれに従わず挙兵したことを詰る。広嗣は返答する能わず。反乱軍より隼人ら降伏20数名。降服した隼人贈於(曽)君多理志佐が広嗣の進軍計画を暴露。三方から関門海峡へ集結との計画だったが、綱手・多胡古麻呂の率いる軍はいまだ(遠賀郡の軍営に)至っていない。
- 以後戦闘があったとの記録なし。おそらくこの後東人率いる大軍が筑紫に進入し、広嗣は戦を回避し逃亡。程なくして耽羅島(済州島。当時は新羅領)への亡命を謀る。
- 11月1日、広嗣・綱手、松浦郡で処刑される。注:天皇が「法により処決せよ」との詔を出したのは2日後(下記)であり、天皇の許可を待たず斬刑に処したのは不審。大野東人はおそらく2日か3日には処刑執行の報を受け、さらに3日に軍曹を郡家に派遣、5日までに首級を確認し京へ奏上。天皇のもとに報が入るのは9日か10日頃。なお『尊卑分脉』の註には、合戦に敗北した広嗣は自ら刀で首を斬り、その首は空に昇って赤い鏡となりこれを見た者は悉く死んだとある。
- 11月3日、東人より10月29日付奏上、先月23日肥前国松浦郡値嘉島長野村(不詳。五島列島)にて広嗣捕獲。天皇、法により処決せよ、奏聞はその後でよいとの詔を出す。注:「法により処決」とは謀反による斬刑を指す。
『尊卑分脉』の註には、広嗣は七能を備えた異常人で、竜駒を得て京と鎮西の間を朝夕往反した、また真備はその師であったとある(陰陽道を真備から教授されたか)。続紀の真備薨伝には「広嗣の逆魂やまず」とあり、この後も長く朝廷は広嗣の怨霊に苦しむことになる。
万葉には「藤原朝臣広嗣、桜花を娘子に贈る歌一首」(08/1456)があり、娘子から歌を和されている。
関連サイト:藤原広嗣の歌(やまとうた)
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