前略、教育改革国民会議が発足以来これと言って目新しい政策が無い一方で「最近の少年による事件に関する文部省プロジェクトチーム」の検討のまとめが公開されました。多視点的に検討されていることは評価できるところもありますが、非常に危険な考え方がいまだに行政サイドにある事が垣間見られ、私見を述べ、御相談したいと思います。

 私が指摘したいのは、文部科学省がこれからの教育行政の根幹に、道徳教育の充実をあげ、人間としての基本的な倫理観や規範意識を子供たちに身に付けさせると、いかにも建設的な方針の見えるような一文が有ったことです。しかし、倫理観や規範というものが、個人個人の相対的な価値観から生まれるという事を全く無視しているのではないかと思わざるを得ません。

 現代社会を見てみれば、大の大人でさえ自分の欲望を優先し、異なる考え方を異端視した結果のトラブルは枚挙に暇が無いほどです。大人自身が自己を律する根本を見失っているのではないでしょうか。

 いじめが発生すると、いじめられる子にも家庭の問題があるなどと、教育者が平気で自己の業務上で知った事実を持って責任逃れをするのは、いかがなものでしょう。いじめた側の子供の親には仕事が忙しいなどの言い訳に配慮する一方、いじめられた子供の親は子供の発する信号を受け取れなかった責任まで問われる。

 絶対的な倫理観とは何か、定義を教えていただきたい。何故、このような子供を没個性にするような対策しか検討出来ないのでしょうか。何故、子供一人一人の個性を認める教育が出来ないのでしょうか。

 現在の学校は、倫理観や規範意識の高い生徒ほど辛い場所になっていると、何故認めないのでしょうか。本来、倫理観や規範意識は家庭で育てるものです。実際、そのような子供も大勢います。しかし、それは各家庭で、少しづつ違うものでもあり、そのことを気づかせるための教育であって欲しい、そう思います。

 自由には責任が伴い、自由な行動は自ずから自分がリスクを背負うことであることを理解させていただきたい。自分の自由が他人の自由を侵害するものであってはならない。責任のある自由とはそういうものです。

 自分の将来に向かって、自由な生き方を選んだ人たちをフリーターと呼ぶのを僕はとても好きです。ただ、夢を追うあまり、自分の自由を誤って使って欲しくありません。夢を諦めようということは言いたくないですが、自分の足元が見えないまま進む愚を犯すのはやめてほしいものです。そういう人はただのプータローと呼びたいと思います。

 夢を追うのと共に、価値観の違う人間同士が、お互いの個性(もちろん、犯罪的な行為まで容認しろとは言いませんが)を認める習慣を付けていって欲しいと考える次第です。人間が生きていく上で大切なもの、それは自分以外のものの価値を認めることから始まるように思います。表現はそれぞれ違いますが、地球のいろいろな民族の中で、生活の基本となってきた言葉、それは、自分が痛いと思うことを、他の人にしてはいけない、ということだと思います。

 きわめて平凡な言葉ですが、それだけに真理に近いように思えるのですがいかがでしょうか。

         2001年11月10日 アンクル・ハーリー亭主人

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2001.11.10掲載