私の暗い高校時代は、入学試験のあの日から始まったのかも知れない。前日から雪は降っていたが、当日は傘をさしていった記憶が無いから、そこそそこの天気だったのかもしれないが、私の記憶に残っている心象風景はひたすら重苦しい曇り空である。
都立高校1本にしぼって受験した私は、周りには自信たっぷりの演技をしていたが、試験当日は不安のため試験会場に入る前に気分が悪くなり、医務室に連れて行かれてしばらく横になっていた。他の受験生たちが寒い校庭で受験のガイダンスを受けていた時に、私は一人(正確に言えば、隣のベッドに女生徒がいたようだが)で暖まり、それと共に開き直りの心境になって、受験会場に案内してもらった。驚いた事に他の受験生がまだ入室していない教室に私1人だけが案内されたのだった。たまたま受験番号がそうだったのか、私が風邪気味で気分が悪くなったと申告したせいか、座った席はストーブの真ん前だったので後から続々と入ってくる他の受験生達から好奇の視線を浴びてひどく暑かったことを思い出す。
案ずることも無く試験の方は3教科とも満足の行く出来で、高校浪人だけはしないで済みそうだと安心する一方、どの高校に入学できるかの心配をしなくてはならなかった。当時の都立普通科高校の入試は、「学校群」制度(高校間格差をなくすため、2,3校を1つの学校群としてまとめ、受験者は学校を選べない)をとっていたため、合格発表をみるまで自分がいったいどの高校に入るのかわからなかったからだ。もっとも、この制度は、学校間格差を無くした代わりに、「学校群格差」を生み出し、さらには難関大学を目指している一部秀才たちの都立高離れを助長した。この結果、都立高校生の大学入試における偏差値は地滑り的に低下し、ますます都立高離れが進んだのは言うまでもない。現在、その制度そのものが無くなったようだが………。
余談はさておき、合格発表を見に行き、自分がR高校に入学することを知った。この時点で私の気持ちは、いわゆるガッツポーズ的気分である。その日で一番ハイになっている瞬間だった。やがて、一緒に受験した友人たちの振り当てられた高校が判明してくると、是非同じ高校に行きたかったと思っていた親友は、別の高校になった。あまり、一緒でない方が良かった人間が同じ高校だった。と、私の気持ちは次第に下り坂に向かうのだった。
それでも、それくらいでへこたれるような私ではなかったが、是非、御一緒したかった女子生徒のFがS高校だと聞いた時、気持ちは一気に暗転した。この時ほど、学校群制度を呪ったことは無い。Fが私のR高校ではなかったとしても、まだK高校であればこれほどショックは無かっただろう。よりによってS高校には、Fをめぐって私と交際先陣争いをしているTが「当選」していた。この事態に私はおおいに慌て、Tに正々堂々とやるように、と申し入れることにした。(結局、2人ともFに振られたのだが)Tも小学校から9年間親友でいた私の懇願を気持ち良く聞き入れたが、私の気持ちを明るくするほどの力は無かった。結局、それから3年間、私はTにも、Fにも会う事は無かった。
学校群制度が1人の前途有望な少年の控えめな夢を砕き、跡形も無く崩してしまったのである。私の高校生活の3年間は、闇夜の国を行くようであった。
2000年6月17日 アンクル・ハーリー亭主人