前略、今日はブルーグラスミュージックについてお話しましょう。

 皆さんはヒルビリーをご存知でしょうか。アメリカ南部の山岳地帯(アパラチア山脈)が開拓されてゆくと共に自然発生的に生まれた音楽です。ヒルビリーとは農民や牧童の事を示す言葉です。このヒルビリーとロックンロールが合体して、ロカビリー音楽ができ、エルビス・プレスリーなど、世界的な人気者になる歌手が生まれた事は、アメリカ音楽を語る時に欠かせない要素です。

 さて、はなしは戻ります。やがてヒルビリー音楽自体も、洗練されたメロディーと歌詞で、人気はアメリカ全土にラジオを通じて高まりを見せます。そして、カントリー・アンド・ウェスタンと呼ばれるようになり、南部や、西部の地方で歌っていた歌手が全国的な人気を博するようになりました。その中に、カーターファミリーやビル・モンローがいたのです。カーターファミリーは、その独特のギター奏法がカーターファミリーピッキングとして名を残し、ビル・モンローは、彼の率いるバンド、ブルーグラスボーイズから、その音楽が一つの流行になりました。ブルーグラスはケンタッキー州の別名で、牧草のこと。ビル・モンローはそんなところから自分のバンド名を選んだのでした。

 ブルーグラスの特徴は、アクースティックな楽器のみで構成される伴奏と、ボーカルが独特のハイテナーでハーモニーをつけるところにあります。歌詞の多くは、ラブソングですが、セイクレッドソングと呼ぶ宗教歌や、南北戦争の悲劇など身近な日常を歌ったものも少なくありません。

 一般にブルーグラスバンドは、ギター、五弦バンジョー、フィドル、フラットマンドリン、ウッドベースの5人編成になりますが、フィドル、あるいはマンドリン抜きの4人編成の場合も多いようです。ギタリストがリードボーカル、マンドリンがハーモニーというバンドが最も一般的でしょう。

 ブルーグラスボーイズが活躍した1950年代から今に到るまで、ブルーグラスはアメリカ国民の底固い指示で、新しい歌を生み出し続けています。

 私は、1970年代の初頭にバンドを結成しました。その時は私、Uncle HarllyとHandosome Morry Josh(なかなか大胆なステージネームです)の2人きりで、ブルーグラスの父と呼ばれたビル・モンローが兄と2人で活動していた頃の曲をコピーしていました。当初はバンドの名前も無く、高校のギター同好会(まだ部と認められていなかった)の中では異色さが売りでした。相方と(漫才みたいだ)一緒に受験した大学で英語の試験の中にあった関連する単語を選べ、というのが面白かったので、バンド名にしました。「 The Skelton the Structure」です。そして、初めてのレパートリーが「聖者の行進」、「ケンタッキーの青い月」、「Goodbye Maggie」など、なかなか当時としては渋い選曲でした。

 ただ2人で歌うと声量があるわりに、楽器の伴奏が貧弱である、と批判があり、楽器用のメンバーを増やす事にしました。この時は、2人とも大学生でしたが、大学で後輩として先輩のお世話をするより、高校の先輩として、後輩に親切に教えてあげよう、と決意し都合のいい事に高校は自宅と大学の通学経路の途中にあったので、毎日のように通いました。そこで、基本的なギターの弾き方などを指導しながら、メンバーによさそうな獲物、いや人材を選びに選び、Tom君が新しいメンバーになりました。

 ここで、ボーカル・フラットマンドリン=Uncle Harlly

     テナー・5弦バンジョー=Handsome Morry Josh

     ギター・バリトン=Long Tall Tom

と、当時の最強のメンバーでした。

 ここで問題となったのがバンドの名前でした。「スケルトン・ザ・ストラクチャー」という限りなく漫才に近い名前は止めにして、どこから見てもブルーグラスです、と言えるネーミングを考えたものです。結局のところ、アメリカのめぼしい地名をつけた名前や、カントリーっぽい名前のバンドは、アメリカのプロを始め、各大学のバンド名までほとんど使用済みでしたので、なにかでっち上げよう、といつものパターンでつけた名前が「Poor Valley Ramblers」だったのですが、どうせでっち上げるなら「New」を付けて、MCで「皆さん方はご存知ないだろうが、「Poor Valley Ramblers」と言えば、かつて伝説のバンドと言われた究極のブルーグラスバンドで、我々はその後継者である。というはったりだけで「New Poor Valley Ramblers」と決定したのでした。高校の文化祭や、コンサートでお邪魔虫になっていたのがこの頃です。ギターが入ったので、5弦バンジョーもリズム的にまとまり、アップテンポの曲をレパートリーに多く採り入れていきました。

 ただ、コンサートでの客席が我々の演奏する曲のテンポの速さで固まってしまい、もう一つ乗り切れていませんでした。そこで、客席を意識して、ビジュアル系のメンバーを入れる事を私の必死の反対をよそに、2対1の大差で決定しました。ちょうど、高校1年の部員で、ギターのテクを教える代わり、うちのバンドでギターを弾いてね、と甘い言葉で引きずり込んだのです。その男こそ(大げさだが)「Sleepy Eyed John」です。

 その後、フィドルにビジュアル系のフィドル弾きが入って、あまりのカッコよさに口惜しいけれど参加していただきました。最終的にはTom君が、仕事の関係で遠方にいく事になり泣く泣く退団し、4人になって、今でも一応活動休止中、ということになっています。草々。

     2000年6月10日   アンクル・ハーリー亭主人

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2000.6.10掲載