前略、ご無礼を承知の上このような手紙を差し上げることにした事に付いては、先週に引き続いて私の宗教観を行動により確認しようと考えた次第であることをご理解下さい。

 私は、若い頃から「神は存在する?」とでも言おうか、自分の一生の結果が、自分自身でどうしようも無い、たとえて言えば「運命」のようなものと感じていました。このような「神は存在するか」といった命題に、もちろん答えるものは無いと思いますが。

 自分の今までの生きてきた過程を、全て運命に振り回されたとは、決して思いませんし、精一杯の努力をしてきたかと聞かれれば、黙ってうつむき首を横に振るより他にありません。しかし、努力を欠かなければもっと違う自分がいただろうか、と考えてみるとその通りとも言えないのではないかと、傲慢な考えかも知れないですが思う事があります。

 神は敬うもので、頼むものではない、と教えてくれた本がありました。神を敬えば、自ずから身を慎み、努力を怠ることを知らず、と言った人もいます(私ですが)。

 形而上の神の存在が、人々の心を捉えるのはなぜか。私は、それは人が宗教に無知だからと思うのです。形而下の生活に疲れ、絶望した人は何かの救いを求める。神の前に手を合わせひたすら現状からの救いを求める。

 余人は神の像というと、十字架に磔になったイエスの姿を思い浮かべるでしょうが、イエスは言者であって、神そのものではない。神の言葉を預かり人々に伝えるために神の子としてこの世界にやってきた、言ってみればキリスト教世界では最強の預言者である。

 旧約聖書によれば、神は自分の姿に似せて、人を創られたそうである。ところがモーゼに神が啓示した10戒によると、神の姿の像は作ってはいけない、とある。一体どっちなのだ。神は自分の容貌に自信が無かったのだろうか。思うに、現代に私というあまりにも美しい相貌を持った人間(もしかしたら神なのかな?)を出現させるため、あえてモーゼに不細工な像の製造販売を禁じたに違いない。

 一般の人はあまりに宗教に無知だという事に対して「違うやい!」と反論する人はいないだろう。反論する人はあっち行っててね。何故、人は宗教に無知か。それは小学校のおべんきょに宗教の時間が無いことに起因する、と私は言いたい。

 小学生のカリキュラムとして、哲学はどうも、とおっしゃりたい方はあっちに行っててね。

 道徳の時間が小、中学校にはある。まさに、この時間こそ哲学の時間であるべきだ。道徳は中国古代にはじまる、思想であり、宗教である。

 ところが残念なことに戦後教育の中で形作られた道徳とは、思想性を失った、単なるしつけの時間になってしまった。パスカルの言葉を引用するまでもなく、人間は唯一、考える動物である。しかし、考えるという行為をしない人間があまりにも多い。言葉を変えて言えば想像力の無い人間が多すぎる。私はそうではないと人は言うだろう。私は静かに否定する。「あなたは自らと他者を比較しているだけだ」と。

 人が自らを他者からのしがらみから抜けようとするには、現代では非常な努力が必要であり、失うものも多いだろう。それでも敢えて我が道を行く人こそ真の哲学者と言える。某大学の文学部、哲学科の諸君に言いたい。もっとしっかり勉強せいよ。

         2001年7月7日 アンクル・ハーリー亭主人

 P.S.相当な誤解を受けるのを覚悟で敢えて拙文を掲載する。意見(文句)のある人は投稿してね。もう少し補足したい事も有るし。

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2001.7.7掲載