前略、皆さんもご存知の通り、我が国の仏教研究の泰斗と自他ともに認める私ですが(誰が)、まだまだ研究不足であると日頃より反省しております。とはいえ宗教という形で人間の魂の救済について、多少語ってみようかな、と思い本文を掲載する次第です。
仏教の考え方を私なりに端的に言うと「馬鹿は死ななきゃ直らない」ですね。(仏教徒が馬鹿だと言う訳ではありません)つまり、輪廻の業から解脱する事で真の魂の安息を得る、すなわち死こそキュウサイの青汁、いや救済の第一歩だそうで。……なんかオウム真理教(現在名アレフ)だなこれは。
もちろん理想は生きたままの解脱で、古来「釈迦」を初め幾多の叡智が生きながら解脱したというお話も有るわけです。大乗仏教では、それを一般大衆も解脱できるよ、と但しそれは死んでからだよ、と位置づけてきたわけでまことに商魂たくましいと言うか、いろんな人がこの線でお金を集めてきたわけです。葬式仏教および御本尊売買仏教の発生ですね。
最近、曼荼羅や仏画など視覚的な「あの世」などが流行っていますけれども、何のために一生懸命修行したり、お経あげたりして、「あの世」へ行きたがるのだろうか、と僕は悩んでいます。もう一度生まれ変わってあの人と結婚したい、からでは少なくとも無いでしょうね。「お迎え」なんて言い方が有りますが、これは信心すると観音菩薩が迎えに来て極楽に連れて行ってくれる、という仏教的思想が発生源ですね。
また、仏教の教えでいくと解脱や成仏をしないと、人間界 (現世かな)よりキビシーいろんな「XX界」に再生して、とんでもない目に遭うよ、って事らしい(この辺上座部仏教と大乗仏教が混乱してるかな)。でも僕はもともと「あの世」があるのか疑問に思うわけだから、その「XX界」だって疑問だよね。気持ち的には。
万が一僕の修行が足らなくてたとえば「畜生界」なんかに再生しちゃっても、知り合いがいる訳で無し(一杯いたりして)、だれに迷惑かけるでなし、僕一人苦しめばいいんだから、ほっといて欲しい。だいたい何が基準で修行が足りないのかって、僕は全然納得しないもの。死んじゃった後くらい僕の勝手にしたいです。
だいたい「生まれ代わり」って考えが「ずるい」と思うよ。人権軽視だな。僕の人格は昔の誰かさんの人格だって言うんじゃ、私はだれ?って言いたくなります。
この点では昔のキリスト教はとりあえず、過去の人も、今の人も、死んだ人も、生きてる人も「最後の審判」 (ハルマゲドンとちゃうで。)が下るまではみんな待っててね、って神様と契約してあるからいいやね。そんで、「最後の審判」に合格した人だけが死者も生者も一緒に「天国」(銀座の天ぷら屋じゃないよ「てんごく」だよ)へ、その他の方はそれなりに、ってCMだ、こりゃ。でも、今のキリスト教も色々あって困ったもんだけど・・・・。
とにかく僕は僕。誰の生まれ変わりでもなく、死んだら灰になる。「魂」・・・これは好奇心的に言えば死語の世界がどうなっとるのか、経験したいとは思うね(もし有ったらの話ですが)。記録に残せないのが残念だけど。死語の世界用ビデオなんて作ったらビル・ゲイツより金持ちだね。
でも「天国」にしろ「極楽」にしろ色々昔の人が考えて、こんなところですって話や絵があるでしょ。まず、不老不死、無苦常楽、不飢不渇で何の不満も無い。これってアルツハイマーの症状と似たものがあるようですな。昔は死んで極楽。今は生きたまま極楽に行っちゃう。その意味で宗教芸術もスルドイ所があったなあ、と考える今日この頃。
最初に書いた「馬鹿は死ななきゃ直らない。」ってのは、つまり死んだら僕の疑問が氷解するのかなあ、くらいの意味です。そうです「馬鹿」って僕のことです。
でも、信心の嫌いな僕もご先祖の墓参りは出来るだけ行くようにしています。墓前に誓う、という形で自分の日頃の怠惰な生活に喝を入れるわけです。一応浄土真宗のお寺に墓があるので人に宗教について聞かれた時にはそう答える事にしています。もっとも、他人に宗教について質問するような不躾な事は、良識ある人なら絶対にしませんから、万が一聞かれてもなるべく回答を保留する方向に持っていくように心掛けてはいますが。
注)この文は特定の宗派についてでなく、あくまで仏教についての一般的な事象について個人的見解を述べたものです。
2001年6月30日 アンクル・ハーリー亭主人
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