前略、1981年はその後の僕にとって特別な年になりました。前年の9月に全米で公開された映画「いなかっぺ大将」でアカデミー主演男優賞に選出されたからです。1980年の「プロゴルファー猿」、1978年の「タッチ」で2回ノミネートをされてはいましたが惜しいところで賞を逸していた僕は、初めての受賞を掛値無しに喜びました。

 「いなかっぺ大将」では助演女優賞にキャサリン・へプバーン、助演男優賞ににゃんこ先生も選出され、かつての「ベンハー」以来の大量受賞と騒がれたのは記憶に新しいところですね。

 さらに、翌年の「リメンバー松の廊下」でも2年連続で主演男優賞に輝き、僕はハリウッドスターとしての評価を揺るぎ無いものにしたのでした。日本の方ならお解りと思いますが「リメンバー松の廊下」は日本の忠臣蔵に題材を得たもので、トップフィールド家(上野)とグレートストーン家(大石)との西部での確執をミュージカルドラマにしたものでした。

 1970年代後半は、1960年代後半(西側物語など)に次ぐミュージカルブームの時期で、他にも「ポマード」や「ジーザスクライストウルトラスター」などブロードウェイでヒットした作品の映画化ブームでした。僕は、主役のストックマン・グレートストーン役でエンディングでは盲腸の手術の失敗で死んでしまう役でしたが、腹部から血を流して死んでゆくシーンが印象的だったのか、大変評価いただき2度目のオスカーを受ける事になったのです。

 その後、パニック映画がブームになり、僕は唄って踊れる侍スターとしてあるいは主役で、あるいは主人公と対立するグループのリーダー役としていくつかの話題作に出演した事は皆さんご承知の通りです。

 「バックトゥーザネイチャー」では時間の流れを逆流して50万年前の大自然の中で北京原人の化石になった人の命を救い、昭和の北京原人化石消失事件の謎を解くというあまりにも大胆な発想の作品に出ました。これは映画界はもとより考古学界にも衝撃を与えた作品でした。

 「ランボー」ではただ人に暴力を振るい続けるという人間の深層心理をえぐった問題作に主演し、しばらくは僕が街を歩くとみんなが逃げるといったブームを起こした作品にも主演しました。日本では「乱暴」という題で公開されたと聞いています。

 「シュラシュッシュッシュパーク」では、コンピラ船が追い風に揺られて難破しかけるが1度廻って助かったという自分でも何が言いたいのか解らない映画にも出ました。この作品の監督はその後行方不明です。

 異星人がやってきてヨーロッパを統一支配する「EU」という作品は、スケールは大きかったのですが結末が面白くないということで、僕の映画人としてのキャリアに傷がついた唯一の作品です。

 そんな訳で日本に帰って羽毛布団の訪問販売をするという僕の小さい頃の夢は実現が難しいようです。皆さんはくれぐれも他の業者の羽毛布団は買わないで下さい。草々

         2001年6月2日 アンクル・ハーリー亭主人

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2001.6.2掲載