前略、4歳上の兄上にとって、僕はどんな存在なのでしょうか。小さい頃は、4歳も違うと遊び仲間も違い、あまり一緒に外では遊ばなかったようですね。たまに遊びに入れてくれても、僕はいわゆる「おまめ」で、ルール的に優遇措置が図られたのを憶えています。たとえばかくれんぼで最初に見つかっても次の鬼にはならなくて良い、といったように。今考えると、この制度はなかなか良く出来た制度だと思います。プレイステーションなどのゲームに是非採り入れてもらいたいものです。

 冗談はさておき、僕にとって兄上は、なかなか頼もしい存在でありました。僕が小学校に入学した時には、兄上はすでに5年生である。しかも、成績抜群、スポーツ万能、学級委員を毎年勤めて、先生方の間で知名度抜群であった。おかげで、僕は学校内、どこに行ってもN君の弟、ということで注目されてしまう。自分としては恥ずかしいやら嬉しいやら複雑な気持ちでした。ただ、兄よりかなり評価が悪く、成績人並み、スポーツ人並み、図書委員専門であったので、N家の栄光は落下の一途をたどったのでした。

 とはいえ、同じ親から産まれ、同じように育ったのだから、それほど素質に差が有る訳ではない、やがて兄上が高校受験の勉強をはじめた頃から、算数ではなく、数学という面白そうな世界を僕は知りました。その時僕は5年生、ようやく頭角を現そうか、というところだったのかもしれません。実際その後、算数の授業でそろばんなどをやったが、そろばん塾にいった事も無い僕が、暗算で一番に答えを出してしまう事がひんぱんにあったことが、文部省で話題になったそうです。(うそだけど)

 当時は学習塾へ行くより、そろばん、習字、ピアノ、バレエなどの教室に通うのが普通で、子女の勉学に熱心な親は家庭教師を招くのが主流だったようでした。兄上にも小学生から中学にかけて家庭教師がついていました。僕もついでに勉強を見てもらっていたが、理解が悪い僕には先生も苦慮していたらしいですね。学校の勉強は一切家ではやらなかったし、習字やそろばん等、全ての塾を拒否して、家で本を読むか、近所の子供のガキ大将として、駆け回っているのが常でした。

 その頃、兄上は都立高校を受験し、9科目の平均点が軽く95点を越えて入学したそうです。入学試験の成績が1番だから、入学者代表で入学式に壇上で「入学の言葉」なんて物を読んだそうですね。

 あまり成績の良い兄は持ちたくない物で、その後、僕が小学校でかなり頑張って好成績をとっても、あの兄の弟だもの、ということで少しも誉めてもらえなかったのです。結局、今考えるとそれほど兄上の成績がよくて、僕がよくグレなかったと自分を誉めてやりたいと思います。おかげで今、自分の娘の努力をしっかり受け止められる父親になれたのかもしれないけれど。それでも、当時は親になる予定も無かったのでずいぶん悲しい思いでした(訳でもないか)。ただ、兄とは違う中学を選択して進学したことを除けば。

 それほど優秀だった兄上の運命がある日、がたっと変わったのは、就職の時健康診断で呼吸器系に病気が見つかったからであったそうですね。(厚生省指定の難病であったが、90%以上は自然と治癒してしまうらしい)時の運が兄には無かったと言う事だったのか。しかし兄は、大学教授の紹介で長野県の某食品会社の経理担当として、1人で赴任していきました。長い時間が経った後、当時の心境を兄上に聞いたことが有りましたが、ショックではあったが将来を悲観したわけではない、と答えてくれた。いかにも優等生的ではあるが、当時の家庭の事情を考えての苦渋の選択であっただろう。

 しかし、兄上はそんな事態にも嘆くことなく、遊びに行った僕を零下何度に下がる独身寮の部屋に泊めるとき、自分だけしっかり電気毛布を使い、弟は凍死を覚悟で冷えたせんべい布団に寝かせるのだった。やはり、多少は性格がゆがんだのかもしれない。子供たち、すなわち僕の姪や甥達が素直に育ったのは僕の性質がきっと受け継がれたのだろう。

 ただ、兄上にはこれだけは言っておきたい。もういい年なんだから野球やテニスなんぞは止めて年相応に盆栽でも世話をしているように。また、通勤にバイクを使い、白いマフラーなびかせて「中年ジェット」だって、そういう前世紀の(20世紀は前世紀だわなぁ)ギャグをわざわざメールで送らんで欲しい。僕は思わず喜んで娘たちに転送してしまうでないか。草々。

         2001年5月12日 アンクル・ハーリー亭主人

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2001.5.12掲載