前略、人間が社会生活を送っていれば必ず出会うのが、いわゆる嫌な奴。虫が好かない、息が合わない、くらいなら可愛いもので、顔を見ただけでその日1日憂鬱になる、などすごく気に入らない人間はいるものだ。
なるべくそういう人間には近づきたくないのが人情だが、何故か一緒の職場になったり、関係の深い仕事をやるはめになる。まあ、当たらず触らずでいようと思ってもそういう時に決まって話し掛けられたりする。おそらくこちらの気持ちも伝わっているはずで、向こうだって気分が悪いのはお互い様なのに、お互いが被害者を装って周りの人間に有る事無い事しゃべっているらしい。
そういう状況で泰然自若としていられるのはよほどの大物か無神経な人間で、いずれにしろめったにいない。大概の人は不愉快さを噛み締めながらその日を送っているのだろう。我慢強い人は多少不愉快な目にあっても我慢できるのか、どこかで発散しているのか、大人物の素質があると思うのだけれど、嫌なのは職権で威張り散らす奴ですね。
自分がどれほどの物か知らないけれど、そうゆう奴に限って何かを聞いてもまともには教えてもらえない。詰まらん小言の一つや二つ、それは聞いてもこっちは馬の耳に念仏、とにかく初期の目的を達すれば良いのだから我慢し易い。
一方、何か有るとすぐ電話をしてきて見当違いの苦情を聞かせた上、詫びもしないで電話を切ったりする奴。少し考えれば解かりそうなものだけど、考えようという気持ちが初めからないのだから喧嘩にもならない。呆れ返るだけである。この、呆れ返る心境になれるまでがかなり辛いものがあって、自分が何か悪い事をしたようなそんな気にさせられる事も有って、正直いい加減にしてほしいと思う事頻りであった。
絶対自分が正しいと思い込んでいるのか、多少は罪悪感を感じながら、尚強気で来ているのか、この世はどうも声がでかい奴の方が有利に出来ているようで、人間社会は、僕のような気の弱い、人前で大きな声を出した事など生まれて此の方全くなしという人間にはまことに住みにくい仕掛けになっているようだ。現状のこれがまともな人間社会というものならば……。
いかんせん、そうゆうしがらみを意識していない人間と意識している人間で、どちらが幸せかといえば、文句なく前者で、言いたい放題、やりたい放題、後先を考えずに物事を強引に人のせいにした恬として恥じない。困ったものである。
そうゆう私も、たいして威張れたものでなく、なるべくなら前者を志向してはいるのだが(私が偉いという訳ではないぞ)産まれついた性分で、押しがもう一つ弱いのが悩みの種ではある。氏より育ちとは言うものの、氏も無く、育ちも日陰で育ったひょうたんのようで、何を今更突っ張ってみても手後れのようである。
こうなったらひたすら自己完結型幸せを志向して、ちまちまと日々を送り、自己満足でもなんでもかまわず生きるのが自分の運命なのだろう。
こんな事を書いてはいるが、実は深謀遠慮が有って、大きな野望を突然抱くかもしれず、ただの引かれ者の小唄ならぬ、世に隠れたミュージシャンとして知る人ぞ知る存在になるような気がしているのも案外本気なのかもしれない。草々
2001年4月7日 アンクル・ハーリー亭主人