前略、音楽活動に限らず、若い時に順調に伸びてきたグループは、いつか解散する宿命にあると思います。このことは、どんなにメンバーの気持ちが合っていても、いつか各人のプライベート面の違いや、一人一人の考える音楽的方向性が違ってくるだけに、どうしようもない事なのかもしれません。まして、プロの集団は自分の生活と夢をつかむために、あえて仲間と距離を置くことも辞さない、そんな人間こそが本当の意味のプロフェッショナルなのでしょう。

 僕たちN.P.V.R.もアマチュアバンドではありましたが、同好の仲間たちにはそれなりの評価をいただき、社会に出てからも仕事をしながら少ない時間をやりくりして、演奏活動を続けていました。(仕事の都合上メンバーが減りましたが)ただ、全員が集まっての練習をする機会が減っていくに従い、メンバー各自の演奏スタイルの微妙な違いが感じられるようになり、あえてそこを修正しないままにしていた事で、我々のいらだちをかえって掻き立ててしまいました。今思えば、その時にはっきりさせておけば良かったと思います。なまじ、友情の方を優先して練習をしないで雑談をする時間の方が長いくらいになりました。そして、1980年頃に、僕は演奏活動を他の音楽仲間と始めるようになっていきました。もちろん友人として今でも気のおけない仲間である事には変わりはありませんが。

 僕は、オールディーズミュージックの方面、それも1960〜70年代のポップス中心に演奏をするグループ「River City Jam」のギター弾き兼歌い手として、オールディーズの生演奏を良くやらせてもらいました。私は、主にデル・シャノンや、ジョニー・ティロットソンのレパートリーをカバーする他、「アンチェインド・メロディー」や「ミスター・ロンリー」などのバラード、パット・ブーンのラブソングなどを好んで歌っていました。

 その頃は、僕の声がいわゆる甘い声だって言われて人気が出掛かったので、嫌な奴だったなあ、と今は思います。幸い、忠告してくれる友人がいて、大切な友達を失う前に悔い改めたので、事無きを得ました。

 そんな頃、オールディーズブームもやや下火となり、結局ライブをやめました。そしてその頃の僕は、会社員としても、やっと駆け出しから一人前の技術者として、仕事も自分の判断で進められるようになっていましたので、音楽活動の方から身を退く良い潮時だったのかも知れません。その後はもっぱら会社や労働組合のイベントなどでカラオケを披露するくらいです。

 天狗になりかけた頃忠告をくれた友人は、僕の幼なじみで生真面目な男ですから、形の無い人気などで好い気になっていた僕の事を本当に心配してくれ、僕らしくない、という表現で暗に浮ついた僕を戒めてくれたのです。

 良薬は口に苦し、と言いますが、彼の忠告もとても厳しいものだっただけに、はじめは素直になれなかった僕でした。しかし、持つべき物は友達とも言う訳で、結局彼の意見の方が正しい事は火を見るよりも明らかでした。(この辺ことわざが多いな)僕は良い友人に恵まれているな、と今も思っています。

 ただ、残念なのは、僕が友人のために何もしてあげられない事で、大変心苦しいところです。彼とは大学時代にはずいぶんいろいろな問題について議論をしたものですが、その頃から、僕より大人だと思わせるものが有りました。

 今度、ゆっくり温泉でも入りに行こうと約束して、その日が来るのを楽しみに待っています。草々。

  2001年3月10日 アンクル・ハーリー亭主人

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2001.3.10掲載