を言っている普段の僕と、相談を聞く僕との落差が適度に相手に伝わるようで、多分、信用されたのでしょう。
今日は、そういう話の性格上、僕がどんな相談を受けたかなんていう話が出来ません。おそらく相談した本人も忘れてしまっているとは思いますが、だから口外しても良いという事では無いでしょう。
という事で、ここに書く事は相談された僕が、どういうふうに相談のアドヴァイスを考えてきたか、という点について書きます。
まず、大事なのは相手の言い分を100%信じる事だと思います。相談する人は多かれ少なかれ話を現実より多少脚色し勝ちなのは承知していますが、相談したいという事はやはりそれなりにある方向性を持った答えを欲しがっているのだろうと考えます。その時、話に否定的な答えはなるべく言わない、ということが大切で、そのためには相手の話を否定していては答えも自ずから変わってしまいます。
大事な事は、何が正しくて何が悪なのかではなく、これからどうしたいかを話し合う事なのですから。無責任なようですが、これが出来ないと相手も話しにくい状況になるでしょう。
次に重要なのは、一般論ではなく相談に来た人に一番合っている答えを探したいという事でしょうか。ちょっと説明しにくいのですが、性格的に細かい人と、豪快な人(それでも悩みは有るものです)では、答えの断言度を変える事。あまりクヨクヨ考える人には断言口調で、多少ではめげない人にはこういう方針で、など答えのベクトルの強さを変えてあげるとでも言うのでしょうか。案外、これが一番大切かもしれませんね。
次が、本人の再考の余地を残す、ということ。上に書いた事と同じ事ですが、人間同士、どんなに的を得た事を答えても、不愉快に思われる事があります。これについては僕自身何度も悩みましたが、結局決めるのは本人だ、と思う事にしています。犯罪や不道徳な事以外は結局当人の自由ですから。
その代わり、犯罪や不道徳行為については絶対に止めさせる事にしています。そういう事が有ったかどうかもお話しできませんが、そういう姿勢だ、と理解して下さい。これは、善良な人間として、許せる事では有りません。もちろん僕も話しを聞いて黙っていれば共犯ですから、これだけは司直の手に委ねる事になります。いわゆる罪を憎んで人を憎まずと言われますが、僕の考えは少し違います。やはり、罪は罪、人として贖罪を出来ない人間は許す気持ちにはなれないと思います。
こんな風に偉そうな事を書きながら赤面しますが、僕自身、妻や子供、両親、兄弟、友人たちといろいろな人に迷惑をかけながら生きています。僕が相談にのった事で少しでも何かが解決してくれれば、それで多少はですが、迷惑料を払ったものと思います。
最後に、この退屈な文章を最後まで読んでくれた貴方に感謝して終わりたいと思います。
尚、この文中で、もし自分の事を書いていると思われた方が居られたら、深くお詫び致します。
2001年3月3日 アンクル・ハーリー亭主人