前略、次女が17歳になりました。親の欲目でしょうか、全身が輝いているようなまぶしさを感じています。そろそろボーイフレンドでも出来ないのかなと、表向きは言っていますが、内心はボーイフレンドなんてものは、出来ない方が良いなあと思います。

 でも、先日妻が聞いたところによると、ある生徒から告白されたらしい。その時はタイプじゃないので「ごめんなさい」、をしたそうです。よしよし、理想を高く持って父のような良い男を捕まえるのだぞ。

 思えば長女が彼氏と付き合い出してもう2年を越えている。今の次女の歳で、彼氏と付き合い始めたわけだ。それを考えるといずれは次女にも彼氏が出来て、松井がサヨナラホームランを打った時に父と抱き合って喜ぶ、なんて事をしてくれなくなるのだろうな。松井がホームランを打たなくても良いが、抱き合って喜ぶのは続けたいな。

 などと思っているうちに自分の17歳の頃はどうだったかなと思ってしまいました。間違いなく高校生でした。たしか大阪で万国博覧会があった年です。芸術は爆発だの人が、太陽の塔なんてものを作って、それのてっぺんに人が登って大騒ぎをしました。

 その万博には修学旅行で行ったのでした。「月の石」なんてものがアメリカ館に展示してあり、それを見た人の間で、ただの石ころ説と、さすがに月の石説の真っ二つに意見が割れたのでした。(僕は見ていないので傍観者)

 1969年の5月から1970年の5月までが僕の17歳時代で、ちょうど同棲時代が流行していた頃です。東京大学の入学試験が中止になったり、三島由紀夫が切腹したり、日米安全保障条約の継続かどうかで学生運動は過激になって行くばかりでした。新宿西口でフォーク集会が発生し、ここは通路で広場ではないから集会は駄目だよ、と機動隊のお兄さんたちに排除されたりしていました。その頃はまだホームレスも東京都庁舎も無い、新宿駅でした。

 僕の私生活はというと、高校で受験勉強する傍ら、女の子と映画を見て日比谷公園を散歩したり、映画を見てソニービルで遊んだり、デートというと映画しか知らない、素朴な少年そのものでした。でも、映画は洋画しか見ないこだわりの少年でもありました。(この辺は次女に遺伝したようです)「ウエストサイド物語」「小さな恋のメロディー」「卒業」「俺たちに明日はない」「冬のライオン」などなど、今よりずっと映画が安くて、高校生の小遣いでも月に1度か2度は見られました。(他にお金の使い道を知らなかった事もあります)

 いよいよお金の無い時のデートは浅草の花やしきでした。当時は乗り物に乗らなければ入場無料、ただひたすらローラーコースターが控えめな音を立てて行き過ぎるのを見ながら、映画や小説の話をしていたものです。僕はそうやってデートをした女の子みんなに振られたんですけれどね。

 僕の女の子との交際は清く正しいものでしたが(何が?)、ステディーなガールフレンドと付き合っている友人もいて、当時はすごくうらやましいと思っていました。僕の高校は男3対女1の割合なので、どうしても需給の関係上、他の学校の女友達を作ったりする必要がありました。とはいえ、そんな安直にガールフレンドが出来る訳も無く、既に彼女がいる奴にお願いして紹介してもらったり、合コンなどを企画してもらう、という情けない状況でした。

 そんな事が今思い出すと、すごくちっぽけに思えて、何をやっていたんだ俺は、と妻の顔をうかがいながら思うのでした。

   2000年9月30日   アンクル・ハーリー亭主人

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2000.9.30掲載