前略、私の誕生日は今から87年前に森永ミルクキャラメルが発売になった日でもあります。思えば日本の菓子文化の発達を象徴するような日でも有ります。そして、その日に私が生まれたのは、特に日本の菓子文化とは関係ありません。ただ、あの日は非常に暑い日だったことをおぼえています。(うそですが)

 私は、生まれてから幾年間かの記憶が無いのですが、別に記憶障害とか、アルツハイマーだった訳では無い事は自信を持って言えます。どちらかと言うと記憶能力が無かったようです。その後の順調なご成長と共に断片的な記憶があるのですが、これはその頃父が写した幾冊かのアルバムを見ておぼえた事でしょう。

 かつて、西部ライオンズの投手だったMクンと幼稚園の運動会でリレーのアンカー勝負をした事も、写真で見ただけで、私はおぼえていません。Mクンは負けたので憶えているかもしれません。それから、HT銀行の五反田支店長になったとたんに銀行が破綻してリストラされてしまったTクンと一緒に、舞扇をかざして日本舞踊を踊っている写真には、家で母親から特訓を受けた想い出が有ります。(Tクンは現在、片道2時間かけて、再就職先の某信託銀行へ通勤している)

 S君(この間鎌倉に同行した人)が怪我をして入院した事を先生が話してくれた日の事は何故か憶えています。もっとも、彼は何かというと病院に行っていたので、それがいつ頃の何回目の入院かは憶えていません。

 幼稚園の卒園式で、送辞(卒園生に贈る言葉)を勧進帳(字が読めないので、何も書いていない紙を持って、母から口写しで教えられた通りしゃべった)もどきでやったのは憶えています。翌年、今度は卒園生代表でまた同じ事をさせられたからだろう、と思います。

 この頃の私は、神童、とか、天才、などの言葉が似合っていたようです。ア、ハハハ。

 その後、十で神童、十五で天才、二十歳過ぎれば唯の人。などと、みんなに尊敬されました。(尊敬されないか)まあ、これは私が非常に謙虚な人柄で、他人を思いやって普通のレベルまで降りていった、という説もあります。(私の説です)

 私の幼い頃はまだ、国民のほとんどが貧乏で、小佐野賢二や笹川良一などといった大変小器用に世の中を渡り歩いた方々だけにお金が集中していたようです。まあ、人の生き方は自由ですから、悪名を後世に残すような生き方もまた、ご立派ご立派と言わざるを得ません。

 出来れば、私も後世に悪名が残すくらいの財産を持ってみたい、とは思いません、と言い切れないものが有ります。ただ、私は、5円玉を見て、お雛様の刀の鍔かな、なんて言っていたくらいお金に無頓着でしたので、(紙幣しか信用しなかったという説もある)未だに清貧、清廉、謙譲、な生活を貫いております。

 話しが逸れてしまいましたが、そういう訳で、幼い頃の私は、もう既に今の私のような人品骨柄卑しからぬ、怪人物になる素養だけはあったようです。栴檀は双葉より芳し、と昔の中国の人が言いましたが、きっと私のような人物を想定していたのでしょう。

 私が卒園してから3年目に、幼稚園は廃業してしまいましたが、それが私をして、過去を言いたい放題言える原因ではあります。草々

   2000年7月29日   アンクル・ハーリー亭主人

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2000.7.29掲載