前略、長い人生の途中で立ち止まるときも必要なのかなと思うこの頃です。人生は疲れるものと覚悟してはいるものの、その疲れの原因が、全く身に覚えの無い理不尽な事である場合も有るわけで、その理不尽な事までを寛容に笑って過ごせるほど、人生は長くも気楽でも有りません。
マラソンの選手じゃ有るまいし、人より先にゴールをしてもメダルが貰えるわけじゃないならば、立ち止まって模様眺めに出るのも生きる選択肢ではないでしょうか。しばらくの間、道端に座り込んで、急いで追い越して行く人たちを見てみたいことが有ります。他人が見たら、逃避に見えるのでしょうが、それでもあえてそうしたい気持ちになります。
もちろん、それをしても、何の意味も無いのかもしれませんし、かえって不幸を背負い込むかもしれないのですが、一度立ち止まりたいと考え始めると、その思いはガン細胞のように心の中で大きくなってきます。マラソン選手のように、一度止まったら、再び走り始めるのにはより大きなエネルギーが必要だとも思います。そんないろいろなリスクを全て承知で、やっていられない、と思うのです。
立ち止まりたいと思う原因は、理不尽な世の中に対する心の抵抗です。何も自分だけが我慢して理不尽な思いをしている事は無い、自分も理不尽に行動すれば良い、そう思えればこの気持ちも相当楽になるでしょうが、それが出来ればそれはそれで心の抵抗感は大きいものになるでしょう。結局、そういう訳です。つまらない、つまらないと生きている自分が悪いのかもしれませんが、やっぱり理不尽な思いをするのは悔しい。
他人に迷惑を掛けずに生きなさいと、母からはいつも言われていますが、迷惑を掛けられっぱなしというのも悔しい。絶対に許さない、と思うことがこの頃よく有ります。それほどに傍若無人な人々が跋扈する世の中になってしまいました。
心のどこかで、自分も同じようにやりたい事をやれば良い、という声が聞こえます。でも、それを言ってはおしまいだ、と思うのです。金も力も無い僕が、こうして生きているのは自分が正しいという気持ちに支えられているからだと思うのです。自分で、それを放棄したら、おそらく僕はそのまま駄目になってしまうでしょう。
と、まあ少し深刻に悩んでみたりすることもありますが、平常の僕は、元気です。おそらく、僕をいらだたせる内外の擾乱原因は、春の花粉症のようにある時間が流れれば小さくなっていきます。その辺はガンと違って良性の腫瘍のようなものかもしれません。
しかし、それは決して消える事は無く、また時間が経過するとともに、心の中で大きくなる時が来るのでしょう。その事自体は、僕は仕方のない事だと思っています。自分の考え方を変えるのは、自分が思っている以上に難しい事だと、解ってしまったからです。
バカは死ななきゃ治らない、というのはまるで自分のことを言っているような気がします。そうだったら、きっと治るまでまだだいぶ時間がかかりそうだぞ、と思う事にしました。バカはバカなりに生きていこうじゃないか、何も人に迷惑をかけるわけじゃなし、自分がバカであることを自覚しつつ、神経の先を丸く鈍らせながら、笑われても、意地悪されても、最後まで生きたやつの勝ちです。こんな世の中に、どうしてなってしまったのでしょうか、ねぇ。
2003年4月12日 アンクル・ハーリー亭主人