現代社会が抱える諸問題の原因は、その起源を考えると、それほど新しいものではない。たとえば、集団間の対立や、貧困、飢餓、いずれも人類が発生したと、ほとんど同時に発生した問題といえよう。民族間の紛争、宗教戦争、階級闘争、いずれもその端緒は数千年前に発生している。いや、もっと以前、数百万年前かもしれない。(誰もみていないから、勝手な事が言える)
かの有名なハムラビ法典でも、紛争の解決手段は復讐と同等だと言っているようだ。矛盾をはらんではいるが。
ところで、現代社会に絶対善、とか絶対悪などが存在するものであろうか。平和が善で、戦争は悪、という位置付けにしろ、実は相対的なものに過ぎない。もっと端的に言うと、平和という概念は建前に過ぎない。世界に紛争が無くなり、絶対的平和がやって来るという時代は、少なくとも地球に人類がいる限り有り得ないだろう。
少なくとも、現在のアメリカが、世界の平和を望んでいないのは確実であり、国家経済維持のためにも是非、戦争を起こす気持ちでいる事は隠しようもない。
隠しようもないが、核使用はあるかもしれない。(冗談じゃない)
盗人にも三分の理ということわざが有るが、国会議員の中にも税金泥棒がいる世の中で、誰がアメリカの首に縄を掛ける資格があろうか。法を執行する人間たちは平安末期の検非違使化している。
世界の警察官を自認しているはずのアメリカ合衆国が、国連の分担金の支払いを滞らせているのは周知の事実であり、それなのに国連軍を組織して、兵器の消費拡大を目指している様だし、一方では軍事援助と称して、某国の税金の負担を強いている。
もちろん、平和憲法を持ってしても、相手がその気になったら防衛という名の戦争をおっぱじめる必要があるのだが、そこまで考えるほど日本の文民統制は腰が座っていないのは明白である。防衛というからには、相手の攻撃を受けてから攻撃するという手順を踏むのであろうが、ボクシングではあるまいしカウンター攻撃などは前世紀の遺物だろう。
どうも、日本人は武士道精神を引きずっているようなところがあり、先に手を出すのは卑怯だ、とか、過剰防衛だ、などと戦争という名の喧嘩のやり方がわかっていないところがあるようだ。
第一、戦争を放棄する、などと憲法に明文化してあってさえお隣の国などは重箱の隅を突っつくがごとくに日本人が帝国主義化していないか、チェックを入れてくれている。まことにご苦労様ではあるが、要は、戦争放棄など本当に出来るとは誰も思っていないということだ。
自衛隊にしても、本気で防衛をする気があるならそれなりの正面装備を持つのが世界の常識であり、多国籍軍に派遣される部隊がいかに貧弱な装備で参加していても、戦争に参加している事に何ら変わりがない、ということを政府は明確にするべきであろう。
そして、戦争に参加する限り、最前線だろうが補給部隊だろうが安全な軍隊などは存在しないということも、中曽根元主計士官ならよく知っているだろうに。
2003年3月8日 アンクル・ハーリー亭主人