前略、冬の盛り場の雑踏に揉まれながら考えました。自らの意思で生きている人のいかに少ない事か、と偉そうな事を言う僕自身、どうも自分の意思で生きている気がしないこの頃です。困ったものですね。と言って、困っていても仕方が無いのですが……。

 そこで僕は考えました。生きているということの証明を、実存の証を。(カッコイイ)

 ところが、これが、やっぱり無いですねぇ。有るのはローン残高証明書くらいです。証明書のたぐいは…。関係無いですね。

そりゃ、僕も技術者のはしくれですから自分が設計した製品など、これまでの僕の仕事の成果が形に残っているとは言えるでしょうが、自分の生きてきた証となると、ちょいと違うんですよね。自分の生きかたを製品に反映できているかと言えば、出来ていないように思います。それはもちろん、僕の技術レベルが低いからですけれど。

 上手く言えないのですが、自分が生きてきた、または生きていると思える時とは、自分が何かに、または誰かにでもいいのですが、影響を与えているとはっきり実感が出来た時ではないでしょうか。たとえば僕にはこんな経験が有ります。

偉そうな事を言うようですが、僕は中学の同級生の1人から、お前がいなかったら、今の自分はいなかった、と言われたことが有ります。その理由と言うのが、中学時代にクラス対抗競技大会があって、僕たちのクラスが優勝したとき、優勝旗を受け取る役を、僕が彼に代わってもらった、そんな事が彼の自信につながった、と言うのです。

僕としては、1番活躍した彼が、優勝旗を受け取るのにふさわしいと思って、代わってもらっただけなのですが、彼がそう考えていたとは思いもよりませんでした。その話を、彼から聞いた時に、僕は何とも言えず、良い友人と出会えて良かったと思いました。その後の彼は持ち前の運動能力を生かして大学の教育学部の方に進学して、スポーツインストラクターをしています。最近では、なかなか会う機会が無いのですが、元気に過ごしているようです。

こういった友人や家族とのいろいろな経験が、今までの僕の生きて行く支えになっているのかもしれません。僕の子供たちも、もう立派な大人で、この頃は僕の行動を見て、いろいろと批判を開陳してくれます。もちろん、あまり誉められた事は無く、ほとんどがしっかりせんかい的叱責なのですが、それはそれで理由が無いわけで無く、ごもっともと思われるのが厳しいところです。

子供たちが高校に通っていた頃は、歩く百科事典と言われる知識を駆使して、子供たちの勉強に協力してきましたが、人間的にはあまり尊敬の対象にはなっていないようです。まぁ、それもごもっともな人間の僕は何も反論できません。結構、喜んでますが。

今まで、父親であること自体が家族の中では尊重されていたわけですが、やはり僕も人の子、あやまちを犯すことがたまにはあります。(たまにか?)そんな父を、大人の目で見るようになった我が子達は、ありがたい事に無視したり、嫌ったりせず、きちんと注意してくれるわけで、これはもしかして、とても有り難い事じゃないかと思う様になりました。自分の子供の成長が、今の僕にとっての生きた証、なのかも知れません。

         2003年3月1日 アンクル・ハーリー亭主人

戻る

2003.3.1掲載