前略、以前僕が宗教についてこの手紙で書いたところ、予想を上回る2通ものご意見をいただきました。いただいた僕のほうが、ずぼらなものでなかなかご返事できませんでしたが、あまり間を置いても申し訳ないので、愚考を述べさせていただきます。

 まず、無神論についてです。以前、人に宗教について聞かれたら、無宗教とは言わない方が良い、と書きました。この辺で誤解を生んだかと思うのですが、人間、無宗教に徹する事が、果たして出来るのだろうかということです。

宗教というものは、お経を上げたり、教会に行ったり、神に祈りをささげたり、修行をしたりというような積極的に信心行為をする事ばかりではないと思うのです。人間、ちょっとした事で、神頼みをしたり、占いに頼ったりします。結婚式はなるべく大安の日に行い、葬式は友引を避ける事になっています。

現代の日本で、宗教を全く無視して生活する事は出来ません。いや、俺は絶対にそんな事は無視するぞ、とおっしゃる方もいるとは思います。へそ曲がりのようですが、無視するぞと言う事自体、その存在を認めている事にほかなりません。まあ、屁理屈をこねましたが、無神論者の主張は、大方その点に集約されるかと思っています。

もちろん、筋金入りの無神論者も全く居ないわけではありません。この際、そういう人は無視させていただきます。無視論者なんちゃって。

日本という国の宗教的特色は多神教であるところの神道と、同じく仏教が、さらに混交しているところにあります。そのために、一見信仰的な生活をしている自分自身を自覚出来にくくしていますが、実際にはいろいろな局面で、個人個人が自分のスタイルで信仰生活を送っているようです。ただし、あまりあからさまな信仰的行動を常態化している人は少数派で、一般の人たちは、生活の節目節目でのみ、信仰的行動を見せているようです。

よく言われる事ですが、日本人は生まれたときは神社にお参りに行き、結婚式はキリスト教式、死んだら仏教式に葬式を行います。これが、外国人、特に一神教徒たちには非常に評判が悪いようですね。そうまで言わないにしても、理解しがたい、位には思っている事と思います。

僕が思うに、人間の宗教観は歴史と大きく関連しているように思います。すなわち、多神教ほど、歴史が古く、新しい宗教ほど信仰対象が限られてきているという考えです。日本では、国造り神話などに多くの神々が登場しています。

もっと歴史の古い、中国、インド、ギリシャ、ローマ、北欧の神話なども、全て多数の神々の物語になっているようです。人々の生活基盤が、それだけ脆弱だったしるしと考えています。困ったときの神頼みなどと日本人は今でも言っていますが、古代の民は、それに近い日常であったのではないかと思量します。

やがて、人々は集落を作り、狩猟や農耕技術が発達してくると、その信仰対象は、自らの力では制御できない、太陽や火、海、などになり、やがてもっと形而上的な存在(たとえば創造主といった)が、信仰対象になって行ったのではないでしょうか。

まあ、人間というものは、いつでも無い物ねだりをする存在ですね。

         2002年12月21日 アンクル・ハーリー亭主人

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2002.12.21掲載