前略、この頃、このような事を考えています。考えるきっかけになったのは、友人が、作家・吉村昭の作品「遠い記憶」の中に「死はいつ訪れるかわからないが、漠とした記憶を記憶のままにしておきたくない気持ちがある。この世に生きていた間の事柄は、出来るかぎりはっきりとさせ、死を迎えたい。」と、あるのを教えてくれたことからでした。

 私も、記憶の奥底を探り“遠い記憶”を呼び起こしながら、死を迎える時までに自分の生きてきた道程を残したい、はっきりとしたい、そう痛切に思うに到った訳です。

 物心の付いた頃から書き出すのが良いのかも知れないですが、いずれ順不同になるのは火を見るより明らかなので思い付くまま書き出す事にします。

 ご存知の通り、生まれも育ちも東京都墨田区、隅田川の東岸にある町です。私をとりあげた助産婦さんは自分も大きなお腹だったそうで、私は小学校でその助産婦さんの産んだ女の子と同じクラスになりました。私が生まれた日はボクシングで白井義男が世界タイトルに挑戦し、みごとチャンピオンになった日の数日前で、浅草の三社祭の当日でもありました。もちろん私はそのことを覚えてはいませんが。

 当時は自宅で出産する事が珍しい訳でもなく、その時の家は今も健在で、もうすぐ築55年を迎えようとしています。そのうち重要文化財に指定されるような話は有りません。

 さて、前置きが長くなりました。私の“遠い記憶”を書くことにします。

 記憶の中にある光景から、写真などで後天的に記憶した事象を削除して行くと、どうやら私の遠い記憶が浮かび上がります。

 家の前の道をどんどん歩いていったら何処に着くのだろうか、いつもそんな事を空想していたように思います。兄とは4歳違いましたから、小さな頃はだれも遊び相手になってくれず、1人で家の中でアインシュタインの論文を読んでいた、ということはありません。

 ただ、本を読むのは好きで、字が読めないにもかかわらず、よく本を開いて猫の背中に乗せて遊んでいました。そのときの仕返しなのか、私が長ずるに及んで、新聞を読んでいると猫が来て、新聞の上に寝て、人の邪魔をする事がよくあります。

 正義感の強い人間だったと、私は自分で思います。言葉を換えて言えば馬鹿正直、という事ですが。その割に、熱しにくく冷め易く、孤独が好きでした。(ハードボイルドだなぁ)弱いものをいじめる人間は、私からもれなく懲らしめのパンチを受けています。何度か上級生から体育館の裏手に呼び出された事がありますが、最後はあまりの実力差に逃げてしまったものです。(私が)

 真剣に恋をしたのもこの頃です。失恋したときはもっと真剣でした。もう生きるのが嫌になって真剣に死を考えました。死ななかったのは、僕が死ぬことで成績が1番上がる奴がいるのが許せなかったからです。つくづく最下位でなくて良かったと思います。

 何度か恋をして、相手に振られたり、僕が振られたりしましたが、それが中学生の頃です。二十歳前後に、それらの女性たちのうち何人かと再開しました。大人の付き合いをしてみた女性もいます。でも、お互いの子供の頃を知っていることで相手に依存しがちだったのか、結局別れる事になりました。Cさん、3百円借りたままですが、どうしましょう。

         2002年11月9日 アンクル・ハーリー亭主人

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2002.11.9掲載