俺はバラの花束を抱えて某劇場の楽屋口に立っていた。深紅のバラはこれからこの花束を受け取ることになる人のイメージを想起させる。別に俺がその人のファンというわけでは無いが、依頼人に頼まれれば、地獄に落ちてケルベロスの首でもとってきて見せなければ、この街で私立探偵はやっていけない。
話の発端は今朝のことだ。時間通りに事務所に出てみると、ドアの前に赤いバラの花束と白い封筒が置いてあったわけだ。怪しい物かどうか、たっぷり20分もかけて問題がなさそうなのを確かめてから、封筒の方を開けてみた。封筒の中身はそのまま横に立ちそうな厚みの福沢諭吉の札とはがき大の二つ折りのカードが1枚、そして依頼事項が書いてある、1枚の便せんが入っていた。
カードはユニセフのシールで封がしてあり、宛名と「C」という手書きの文字が表に書いてあった。便せんの方には俺が今夜するべき事が書いてあり、その指示に従って、俺は興味深げの若い女性達に混じって、目標が出てくるのを待っている、という訳だ。便せんには楽屋口の簡単な図面が添えてあり、俺が立つべき場所まで指示されていた。それで無ければこの、おそらく楽屋から車で出てきた目標の車が一時停止するこの場所は、とっくに放棄して他の女性に譲っている。
女性達の視線で、体中が穴だらけになってしまったと思い出す頃、ディープブルーのBMWが楽屋口に横付けになり、何人かが乗り込むのが見えた。
俺は、危うく女の子達に車の前に押し倒されそうになるのをこらえながら、バラの花束を交通取締り警官のように車の前に突き出した。車が俺の目の前に横付けされ、後部ドアのウィンドウガラスが下りると、期待に反して人相の悪い中年の男が花束を受け取った。男の向こう側に確かに目標が乗っているのを見て、カードの方も男に渡すと、あっという間に車は走り出し、すでに暗くなってきた夜の中に消えて行った。
たぶん俺は1分ほどぼんやりと立っていたんだろう。人相の良くない男達に囲まれるのに気づかないでいたのだから。ただ、人相の良くない人間も2種類いる。裏の社会で生活する人間と、それを取り締まる人間だ。幸か不幸か、俺を取り囲んだのは後の方だった。警察は、今をときめく人気女優に花束とカードを渡した事がどうも気に入らなかったらしい。任意同行、という形で俺は自由を奪われ、連行された。
てっきり渋谷警察署に連れて行かれるものと思っていたが、ついたところは住宅街にあるマンションの一室だった。そこが臨時の取調室になるらしい。4人の刑事に囲まれて初めて俺は、どうもありきたりではない事件に首を突っ込んだ事を思い知らされた。
この連中が逮捕状でも持っていてくれれば、多少は事件の概要もわかると言うものだが、幸か不幸か逮捕するほどの容疑が俺には無いということか。俺は、様子がわかるまで黙り込む事に決めた。どうやら俺はケルベロスより手ごわい相手とやりあわなければならないようだ。
だいたい、この話を書き始めてから誰も一言もしゃべっていない。一言も会話の入らない小説に挑戦してみようか…。
と言っているうちに時間になりました。さらに番組は続く(かな?)。
2002年10月26日 アンクル・ハーリー亭主人