前略、カラオケBOXも過当競争の時代に入ったようです。ほんの数年前には、週末の夜など、空き室待ちが常識でしたが、今は店の前で、お兄さん、お嬢さんが客引きに懸命な姿を見かけます。風営法の対象外なんですかね。昔は客引きと言うと、やや壊れかかったお兄さんがやたらとポッキリポッキリと連呼していたものです。
僕などは、カラオケと共に成長(衰退かな?)してきた世代ですから、とにかくいろいろなカラオケの店のスタイルを経験してきました。今日はこの辺の、昭和から平成へと移り変わってきたカラオケの変遷をつまびらかに申し上げたいと思います。
カラオケ、という言葉自体は、録音技術の発達と共にレコード業界の業界用語として発生したもののようです。歌手の録音のたびオーケストラが伴奏していたらお金も時間も無駄という事で、伴奏部分だけを録音したものを「カラオケ」と呼んでいたんですね。
一方、日本は東京オリンピックに始まる空前の消費文化が始まっていました。TVには歌謡番組があふれ、一般庶民もいわゆる「歌声喫茶」では満足できなくなっていました。さらに、「流し」の存在も自分で唄いたいという要求に答えるものではなかったのです。この当時、銀座や新宿のキャバレーや大きなバー、クラブなどには専属のバンドがいたものです。専属の歌手もいて、ショータイムには歌を聞かせてくれたわけです。
こういう背景があって、唄いたい客がいれば、自然と客を舞台に上げて唄わせてくれる様になります。何を隠そう僕も小学生の頃、父に連れられ、銀座のキャバレーでミルクを飲みながら「黒い花びら」などを唄ったものです。(
唄ってないって)
こういうビジネスチャンスを逃がすようでは日本のビジネスマンとはいえません。日本全国津々浦々のバーなどに、カラオケ装置が備えられるまで、ほんの数年だったでしょう。始めは唄いたい歌の番号を紙に書いて店員に渡すと、エイトトラックのテープマガジンを手動で装置にぶち込み「墨田区の
さん、硝子のジョニー」などと呼ばれて、小指を立ててマイクを握って唄ったものでした。
カラオケで唄う順番をめぐる悲惨な事件がよく起きたものです。やがて、カラオケ料金のダンピング競争が始まり、唄いたくないし聞きたくもない客は離れて行くしで、カラオケ亡国論までおきたようでした。(おきてないって)
とはいえ、やがてカラオケBOX(レーザーディスク内蔵)が勃興し、さらに通信カラオケBOXが発明されるに至って、カラオケBOXは世代を超えた娯楽として、全国を席巻したのです。
なお、最近になって、カラオケの揺り戻しか、ライブハウスで生バンドの伴奏で唄えるという新しい動きがあるようです。特に、かつてグループサウンズといわれたバンドに在籍していた渋めのメンバーが経営する店などが、麻布十番や、錦糸町、高田馬場等、適度にB級スポットに開店し、月に3、4回は本物が出るというのを売り物に、しぶとく繁盛しているようです。
当時のGSの格が、そのまま店の所在地の格に直結しているようで、それはそれで悲しいものを感じるのは僕だけでしょうか。
2002年10月19日 アンクル・ハーリー亭主人