街は変わる。人が年齢を重ねていくように、街も時の流れとは無縁ではいられない。俺の住む街は人間で言えばコギャルのような街だ。1日中やかましく言葉が行き交っている。真っ青な壁のビルディングの横に黄色い吊り看板がぶら下がって、どちらが目立つか趣味の悪い競争をしている。
朝は早くからオフィス街に向かう人の群が駅に吸い込まれ、耳障りなブレーキ音と共に停車した電車に乗り込んで行く。通勤の人間が一段落しても、街はすぐ人間の生活を生臭く開始するように、さまざまな人たちを吐き出しはじめる。
俺は毎日そんな街を、駅前の自転車置き場の屋根で眺めている。毎日ここに来るのには理由がある。俺は生まれて1週間目に、ここに捨てられた。まだ、ほんの赤ん坊だった俺にはその記憶は無いけれど、俺を育ててくれた野良猫ママがその1部始終を見ていて、後で教えてくれたんだ。
俺が朝の食事を済ましてからこの自転車置き場に来るのは、俺を捨てた人間が、またやって来るという確信があるからだ。その人間を見つけて、どうこうしようというんじゃない。ただ、顔を見てやりたいだけだ。もっとも、俺を捨てた人間の顔なんか、とうに忘れてしまった。だから、俺にとっては、どいつでも良いってもんだが。
野良猫ママは、「人間なんて勝手なものさ、可愛いうちだけ可愛がって、面倒になったら捨てっちまう。野良でいるほうが幸せってもんだよ。」と、よく言っていたけれど、一昨年の冬に風邪をこじらせて死んじまった。
駅前の駐車場で、止めたばかりのエンジンの熱で体を温めているのを見たのが最後だった。おおかた車の持ち主が帰ってきて、気持ちよく寝ているママを放り出したんだろう。しばらくしてママを見にきたら、車もママも居なくなっていた。その夜は兄弟たち(ママの本当の子供たち)と、一晩中ママを探してみたけれど、それっきりさ。
その後、何度か同じ車を見たが、ママのにおいは薄れるばかりだった。とにかく、ママがあの車のボンネットの上に居た事は間違いが無い。でも、それはあの夜のたった一回だけだったって事さ。
ママが死んだんだとあきらめるのには一ヶ月はかかったけれど、俺にはどうしようもない。そして、ママの本当の子供達もそれぞれ自分の場所を見つけて暮らしている。
それからいろいろな事があったけれども、俺は駐輪場の屋根から街を見ている。
ママを殺した街を。俺を捨てた街を。
なお、本文はフィクションであり、特定のモデルはありません。あるように思った方は気のせいです。
2002年9月14日 アンクル・ハーリー亭主人