高校時代の僕は、いわゆるオールディーズミュージック、1950〜60年代のポップスを中心に演奏をするグループのギター弾き兼歌い手として、当時数寄屋橋のそばにあったジャズ喫茶に良く出させてもらいました。私は、主にデル・シャノンや、ジョニー・ティロットソンのレパートリーをカバーする他、「アンチェインド・メロディー」や「ミスター・ロンリー」などのバラード、パット・ブーンのラブソングなどを好んで歌っていました。
しかし、1960年代の末になるとディスコの隆盛と共にオールディーズブームは下火となり、お客の入りが悪化し、結局店を閉めることになりました。それでも、お客というのは現金なもので、僕たちが活動を止める1週間前頃からお客が大挙して押しかけ、2階へ上がるための階段にも客を座らせ、ステージも前半分はお客で埋まる、というような最後でした。
そんなとき、ある人から芸能プロダクション入りの誘いをうけたのです。その人は小学校時代の友達の父親で、当時はかなり売れっ子のタレントをかかえていたプロダクションの専務でした。その友達がバンドを組んでデビューするところだったのですが、良いギタリストがいないということで、友達の推薦も有って、演奏を聞いてくれる事になったのでした。
その人は僕が最後の出演をする2日前に店に現れ、僕たちの演奏を聞いてくれたそうです。連日の満員で疲れていた僕は、歌の方はかなり手を抜いていましたが、ギターは気合を入れて弾いていました。といってもリズムを刻むだけでしたが。
ところがその話は僕の高校の成績が劇的に下がるというアクシデントのため、また、元々先方のほうの気に入らなかったのか、立ち消えになり、僕は学校に戻って受験勉強に明け暮れるようになりました。それが、高校2年生の時の話です。
高校3年生になり、どうにか国立理科系進学コースのクラスにもぐりこんだ僕は、また懲りもせずあまり勉強もせず、なにか面白いことがないかなと日々を暮らしていました。そんな頃、同じクラスに、Hという男がいて、この男、なにやら楽器ケースらしき大荷物を持ってきているのです。気になった僕は、Hにその楽器を見せてもらいました。それはバンジョーでした。僕のブルーグラスとの初めての出会いでした。
バンジョーという楽器そのものは、フォークソングやカントリー&ウエスタンなどで知っていましたが、その楽器を使ったブルーグラスという音楽のジャンルは初めて聞く言葉でした。Hの方も、一人ではどうしようもなかったのでしょうか、バンドを組まないかと誘ってきました。とにかくブルーグラスというのはどんな音楽なのか、レコードを聞かせてもらい、それが僕の心の琴線に触れるものがあったのです。
結局、高校では二人だけのバンドで、ブルーグラスらしい曲はあまり手がけられず、バンドの正式発足は、僕たちが大学生になってからになりましたが、Hと二人でバンドを作るために同じ大学を受験するという打ち込み様でした。
それからバンドを結成するまでにはいろいろ紆余曲折があるのですがその話はまたの機会にお話することにしましょう。
2002年7月27日 アンクル・ハーリー亭主人