前略、初めて本格的に煙草を吸ったのは16歳、高校1年の夏でした。親父の煙草を1本失敬して(表現が古いね)自分の部屋の縁側に座って、空を見上げアチーなあと思いながら吸いました。
ところが運悪く、そこへ親父が通りかかって現行犯逮捕されました。あわてて、火を消して勉強するふりをしていたら、親父が煙草とライターと灰皿を持ってきて、「寝煙草は止めろよ」と三船敏郎風に一言を残して去っていきました。
その時の煙草が「ハイライト」当時1箱80円でした。当時1番売れていたものです。もっとも親父の煙草は私の兄がパチンコで取ってきたのを20箱1500円と不当に安く手に入れていたものです。兄にそういうと、「両替にするより割がいい」と、さすが経理の勉強をしている人間は違うと思いました。
それから、しばらくして「セブンスター」が発売になりました。確か、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に突入して割腹自殺した年です。「ハイライト」があまりに強いので、私は早速「セブンスター」に変更しました。1箱100円です。もっとも兄も「セブンスター」に替えたので、親父用の「ハイライト」と自分用の「セブンスター」をパチンコで取ってきます。私は1箱50円という破格の値段で、分けてもらいました。
それからしばらくして、ある事情で第1回目の禁煙をしました。「セブンスター」の特徴であるチャコールフィルターの生産が間に合わず、煙草屋から「セブンスター」が消えてしまったのです。私は免許取りたての腕で夜間に「セブンスター」が入っている自動販売機を求めて、毎夜オイルショックで暗くなった町を車でさまよっては、1個、また1個と集めて回ったものです。やがて、1ヶ月ほどどうしても手に入らない時が来て、否応なく禁煙生活を送ったものです。
その後、 1人5個までと制限された「セブンスター」を目的にパチンコをおぼえ、私の禁煙生活が終わりを告げました。しかし、禁煙は楽ではないが、不可能ではないというある確信がそれからの私の考え方に芽生えたのは否定できない事です。
学生時代が終わり、私は東京の小平市にある電機メーカーに就職し、設計の仕事に就きました。当時は自席で煙草を吸い放題、製図台の横の灰皿は1日の終わりにはいつも吸い殻があふれるようでした。唯一、煙草を吸わない時は、設計した装置の試作機を組み立てる時だけでした。そんな生活を2年送り、横浜にある現在の会社に異動しましたが、煙草についてはほとんど同じ状況でした。40m四方の部屋は煙草の煙で、ちょっと遠くがかすんで見えるほどでした。10年ほど前、同じ敷地の別の場所に、現在私がいるインテリジェントビルが出来、設計の人間はほとんど新しい建物に引っ越しました。そこでは、喫煙場所が制限され、エレベータがあるホールに、12人ほどが座れるスペースがあり、喫煙はそこでする事になったのです。
その様にして、私が禁煙生活に入るシチュエイションはどんどん整備され、それでも5年ほど未練たらしく煙草を吸い続けましたが、風邪で高熱を出しやすい体質もあり、人間ドックでも、喫煙年数×20≧500になると肺ガンになる確率が5倍に増えると脅かされ、ついに禁煙に到った訳です。
禁煙してから、あと1週間で丸7年になるのですが、私が頑固な性格のためか、おそらくこのまま死ぬまで煙草を吸うことは無いと思います。そう言えば、私の父も兄も、今の私の歳と同じぐらいで禁煙しています。ヘンなところが似た親子ではあります。
2002年4月20日 アンクル・ハーリー亭主人
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