日本全国郷土玩具の旅:大阪府篇.2

----大阪府篇(2)ー1----

----OSAKA----


■住吉と堺の組み猿■
 住吉人形の中でも有名な猿を組み合わせた土人形です。住吉みやげに作られていましたが、やがて堺でも作られるようになりました。
右端の「喜々猿」は、住吉大社の社務所で授与されていたもので、いまは2匹の猿が重なったものが出されています。

勝間凧
 住吉みやげに昭和初期まで作られていた凧です。版画に手彩色した凧で、絵や形にユニークなものが多くありました。また、形も多く、骨組みなどもわからないものもあり、多くの種類があったそうです。
 掲載してある(右)は、「かぶら凧」で赤かぶの前でとうがらしを食べている鼠。(左)は、破れ笠に徳利と通帳を持った豆狸の凧です。
 勝間凧は、勝間村で江戸末期から昭和初期まで作られていました。勝間村は住吉大社の北方1キロほどの所にあり、現在は住吉区玉出の地名に変わっています。
 最近は、大阪の木村薫氏により調査研究され、復元も試みられているとのことです。




堺の土人形(廃絶)■
 港町の堺は住吉大社の氏地として深い結びつきをもっていました。明治のはじめ、鉄道が開通するまでは海上からの参詣者はこの港から大社へ向いました。
 明治の初期頃まではその人達でこの地は賑わい、京都の伏見人形にまねて「堺の土人形」が作られました。明治に入り、鉄道の開通とともに「堺港」は衰退して、土人形の売れ行きは悪化し、明治14年には製造が中止されました。
 その後、この型が住吉の北尾へ持ち込まれ「住吉人形(前回掲載)」が作られるようになります。そのようなわけで、住吉と堺の土人形には、共通した型や混同したものが見られます。
 いったん廃絶したこの人形は、40年ほど後、大正の中頃と推定されますが、「湊焼窯元」の津塩政太郎氏が茶器を焼くかたわら「土鈴」や「人形」などの堺の土人形を作るようになります。
また、陶器店を開いていた金田新平氏が、港まちらしく「南蛮雛」など、土人形を作っていました。この人は、廃絶した住吉人形の復元を多く試みて再現したり、住吉神社の干支の玩具も作りました。
しかし、津塩、金田の両氏とも昭和50年頃の亡くなられ、堺の土人形は廃絶しました。

堺の土人形の歴史について(畑野栄三氏の資料による)
 言い伝えや鷲見東一氏の研究によりますと、笹治某が伏見から人形職人を雇って土人形を作ったのが、文化文政の頃(1804〜30)で、これが堺の土人形の始まりとされていす。
 その後、笹治は製造技法を覚えて、自ら新しい型を起こして、堺の風土にふさわしい魚類をモチーフにした土人形を作り、江戸末期にはとても繁盛したようです。
 ところが、最近の近世遺跡の発掘調査で、堺市内の各所からたくさんの土人形が出土しました。 これらの調査資料をもとに、郷土玩具研究家の奥村寛純氏は、「出土人形の多くは、他の出土品や地層などの状況から、恐らく江戸中期の18世紀もしくは17世紀後半にも遡れるとされ、鷲見氏などの所説とはかなり年代のずれがある」と云われています。
 今後の研究にまたねばなりませんが、堺の土人形の歴史は、かなり古くにその存在が確認されることと考えられ、創始は天文年間(1736〜41)といわれる堺の湊焼きとのつながりも推察されます。




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(1998.8.24掲載)