2月16日館山市立博物館訪問記

2月16日(土)
館山市立博物館
企画展「鏡ヶ浦をめぐる歴史」
を見に行きました。

展示会情報

企画展:「鏡ヶ浦をめぐる歴史」
期   間:2月9日(土)〜3月24日(日)まで
開館時間:午前9時から午後5時
入館料:一般・高校生150円(80円)、小・中学生80円(50円)、
()内は、20人以上の団体料金
本館・分館の2館共通入館料
企画展の特別料金はありません。

博物館正面から
常設展示は、内容は、あ、印象に残っていない。(悪いという意味ではなく、 見始めたら展示解説がはじまったので)
企画展のほうは印象としては、昔の絵図や写真、実物を使いよくまとまっていたと思います。展示が盛りだくさんで、少し場所が狭かったかな。

当日、博物館に入ったのは12時半過ぎだったのですが、企画展を見終わり、常設展示を見ていたとき、たまたま1時半から展示解説があるという放送が入り、それに参加してきました。
解説してくれたのは、岡田さんという主幹補の方でした。
体系的には記述出来ませんが、とったメモをもとに再現します。

江戸時代、大正時代(1〜2メートル隆起)の地震の隆起によって平野が形作られたとのこと。
各時代の歴史をみるには、当時の地形を把握することが重要であることです。
昔の小字図をみてみるとその変遷をくわしく説明して貰いました。
縄文時代は館山平野の大部分は、海の中だったこと。
この時代は、大部分が海で今の高台の方に人がすんでいたようで、
ただ、沖ノ島には縄文前半の土器が出土しているとの事。

つぎに、湊の歴史の話になり、 奈良時代には、淡水門(・・・)という湊の記述があり、
それは今の子安神社(私は地元の人間でないのでどこだかわからない)あたりらしい。
平安時代には、柏崎にも湊がと読み取れる記述があるそうです。
江戸時代には、「高の島」の湊が中心だったそうです。
また、船形にも里見時代に記録があるそうで、
古代から明治時代初期(後述)まで、
館山(房総半島)は海上交通の要衝(東京湾の入口)であったということです。
現在の半島の袋小路的状況は、
鉄道・道路の普及によって海上交通の終焉を迎えてからのことでした。

さて、ちょっと前に書いた、「海上交通の要衝」のところを示す一例として、
洲崎神社の海上信仰を例に挙げて展示されていました。(商業的一例は次の行)
洲崎神社は、航海の神として信仰されていて、東京湾全体に商業港(品川・横須賀)を中心に
広く信仰されていたとの事です。
例えば、三浦半島の城ヶ島には、洲御前神社や、品川、横須賀にも関係神社があるそうです。
また、洲崎神社と安房の口神社に対の神体石があるとのことです。

中世においては、北条氏(得宗家)とのつながりのあるお寺が多いらしい。
小網寺は神奈川金沢の称名寺とのつながりが出土陶器などから確認できるとの事です。
ちょっと時代的にあわないとお思いでしょうが、里見家の話があり公園南側の八遺臣の墓の話が出て、
あれは実は江戸初期のお墓ではなく、出土品から見ると室町時代の有力者の墓であることがわかっているそうです。
というのは、五輪塔などの下には陶磁器の器が出土しており、骨壷として使われる前には、
葬られた有力者の愛用品として使われている高級なものらしく、それは室町時代にさかのぼるそうで
時代的に里見時代末期とは一致しないとの事です。
八犬伝ファンの方には、怒られそうですね。

今度は古墳時代の話になり、この地域には前方後円墳などは少なく横穴募が主体との事です。
大寺山洞穴遺跡では、5正規前半頃海上交通を支配した大和朝廷に服属していた豪族の墓らしいこと、
北下台洞穴遺跡にも、6世紀の有力者の墓だそうです。

今度はまた奈良時代の話になり、先ほどの淡水門の周辺は、平久里川河口に開けたもので、
この湊を利用できる場所に、国府(推定)や安房国分寺が建てられていたとの事です。
ちなみに、地質的には国府も国分寺も同時期に形成された同一砂丘地形上にあるとの事です。

最後に幕末の話になり、江戸末期の海防の話で、たくさんの砲台などがあり、
これは館山内のの領主ではなく、十万石以上の藩が海防を担っていたそうです。
また、太平洋戦争時の砲台や木更津の飛行場、滑走路や格納庫の話などもでて、
解説に参加しておられた方々のなかに、実際にその場に働いていた方もいて、
実体験を話されていたりしてとても参考になる展示解説でした。

で、私は別用(帰らねば!)がありましたので、15時20分には展示室を出たのですが、
どうも延長戦があったようでいつまでも話の花が咲いていたようです。(笑)


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