クラーク博士契約書

  1876年3月2日、ワシントンにおいてクラークと吉田とは、クラーク
の日本招聘に関する正式の契約書の日本分一通、英文一通に署名したがその
契約条項の主なものは次に挙げるようなものであった。

第一、この任務の期間は一カ年、1876年から翌年の5月20日までとす
  る。
第二、クラークは当該大学の教頭(プレジント)すなわち副校長及び農学、
  化学、数学、英語の教授となる。
第三、クラークは「開拓使の役人が時に発する指示、命令にすべて従い、出
 来るかぎり、それを実行する」と約束する。
第四、クラークは日曜日及び日本の特別の「休日」を除き、毎日少なくとも
 六時間は仕事をする
第五、クラークは直接にも間接にも「いかなる商取引」もしない。
第六、クラークに支給されるものは「7,200円」と住宅とする。しかし、
 住宅の家具調度品はクラークが買い整えること、召使い等を含め、生活費
 を払うこと。
第七、この契約は三ヶ月前の予告で、いずれの側からでも取り消すことがで
 きる。開拓使が取り消しを望めば、クラークには取り消しの翌日から二ヶ
 月分の給料が支払われることになり、クラークの方から辞任すれば、その
 日までの給料が支払われるに止まる。
第八、クラークの旅費はアマーストと日本との間の往復分が支給される。し
 かし、クラークが札幌にいる間に契約を破棄した場合の旅費は、東京か横
 浜までの分が支払われる。また、北海道内の出張旅行の際の費用は、召使
 一人分を含め、開拓使がこれを払う。
第九、「前記クラークが義務を怠り、開拓使当局の指示に従わず、日本政府
 の不満とする行為をなす時は、解雇当日までの報酬を支給するも、帰路の
 費用は前記政府がこれを支給せざるものとする」。

 契約書は右のように非常に詳細に亘っているが、日本政府が外国人専門家
を雇用し始めてから10年近くの間に、相当苦い経験を重ね、それを避ける
ために細心の注意を以て契約条項を作成したものと考えられる。

クラークの職務についての条項は日本文と英文とでは異なっている。日本文
ではクラークは「教頭すなわち副校長及び農学、化学、数学、英語の教授」
とあるが、英文では Assistant Director の次に President という文字が
書き加えられてあり、これに吉田公使が自分の頭文字を書き添え、承認して
いる。クラークは札幌農学校では、自分のことに関して常に学長(プレジデ
ント)という職名を使っていたが、日本人の側では彼のことをいつも「教
頭」とか「副校長」とか言っていた。・・・
しかし幸いにもクラークと開拓使側との人間関係が極めてうまく行き、「学
長」という自覚と「副校長」としての責任との食い違いから問題が起きるよ
うなことは一度もなかったのである。
「クラーク その栄光と挫折」ジョン・エム・マキ著 1978刊 
 北大図書刊行会