1996/03/23作成
1997/10/30更新
1998/01/11更新
ふりがな | とよかわ・えつし |
本名 | 豊川悦司(同じ) |
生年月日 | 1962/03/18 |
出身地 | 大阪府西成区 |
職業 | 俳優 |
学歴 | 関西学院大学文学部美学科(中退) |
家族構成 | 妻・奈々江.さん(ヘアメイクアーティスト、1997/12/24結婚) |
主な作品歴 | ★主要出演テレビドラマリストはこちらをクリックして下さい。
★出演映画作品 |
所属 | アルファエージェンシー |
関連ホームページ | とよかわえつし Etsushi World 豊川悦司 |
豊川さんは大阪の西成の靴職人の父親の家に生まれました。その後東京都葛飾区や千葉県松戸市などに移り住んだこともあるといいます。芝居に興味を持たれたのは、3つ上の姉と、近くに住んでいた母の妹の影響が大きく、小学校2〜3年の頃から雑誌「スクリーン」などを読む機会に恵まれていたといいます。父親も映画好きで小学校1年か幼稚園の時、一緒に映画「アラビアのロレンス」を見に行ったといいます。このころは怪獣映画をよく見ていたといいます。
中高生のころはバスケットボールに熱中し、府立高校1年の時にインターハイにも出場。バスケットボールをやめてから急に背が伸びだしたといいます。このころ学校の芸術鑑賞会で荻野目慶子さんの演劇「奇跡の人」などを見たといいます。
立原正秋さんの作品が好きで、大学進学では、「やるんだったら一番役に立たない学部に入ろう」と思って文学部に入学。住んでいた男子寮の近くで行われていた大学の劇研究部の新入生勧誘の公演をたまたま見て、入部。
大学の劇研究部は、10人ほどの少人数だったため、豊川さんは裏方をやりながら、公演にも出演。夏目漱石の「夢十夜」をアレンジした作品と、太田省吾さん作の「ガラスのサーカス」の計2回の公演に出演され、これが豊川さんにとってはじめての舞台となりました。以後、豊川さんは演劇に興味を持ち、寺山修司さんや鈴木忠志さん、唐十郎さんの作品を読みまくったといいます。
その後大学2年のとき、親には言わずに大学に退学届を提出。「自分がやる芝居の場をいろいろ選べるだろうと」20歳で東京へ上京。大学の劇研の卒業生の下宿に転がり込んで、小劇団の芝居を手当たり次第に観たと言います。
そんな中、渡辺えり子さん主宰の劇団3○○(さんじゅうまる)の「ゲゲゲのゲ」を観て面白かったことから観た翌日に劇団に電話して、劇団の手伝いを経て入団。1983年、吉祥寺バウスシアターで行われた「瞼の女」(渡辺えり子作・演出)での『城みちるの「イルカに乗った少年」』役で初舞台。その後、「ゲゲゲのげ」など多くの舞台に出演したのち、1989年退団。
映像に興味がうつり、劇団退団前に、映画「稲村ジェーン」のオーディションを受けましたが落ちます。ちなみにこのオーディションで合格しデビューしたのは加勢大周さんでした。
その後、渡辺えり子さんの紹介で現在のプロダクション・アルファエージェンシーに移り、映画「君は僕をスキになる」のオーディションに受かり映画デビューを飾ります。以後、多数の映画・テレビドラマに出演。最初に、映画「12人の優しい日本人」(1991)で注目され、翌年映画「きらきらひかる」(1992)、テレビドラマ「NIGHT HEAD」(1992CX)で主役に抜擢されます。その後、ハイビジョンドラマ「青春牡丹灯籠」(1993NHK)で宮沢りえさんの相手役を演じ注目され、以後、「この世の果て」(1994CX)「この愛に生きて」(1995CX)などで一般にも認知されるようになり、とくにテレビドラマ「愛しているといってくれ」(1995TBS)で耳の聞こえない画家役で人気を博し、「トヨエツ」の愛称でファンも多く生まれました。
これらの作品とともにテレビドラマ「世にも奇妙な物語・ルナティックラブ」(1994CX)でコンビを組んだ岩井俊二監督との作品・映画「undo」(1994)「Love Letter」(1995)なども高い評価を受けています。
1997年12月、劇団3○○(さんじゅうまる)の時のヘアメイクアーティストでドラマ「青い鳥」(1997TBS)でも豊川さんのヘアメイクを担当した奈々江さんと結婚されました。
参考文献・武藤起一氏編「シネマでヒーロー」(ちくま文庫刊)
(上記文中のカッコ書きした豊川さんの発言部分もこの文献からの引用です)
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Copyright Furusaki Yasunari 1997