1997/12/21作成
ふりがな | いたみ・じゅうぞう |
本名 | 池内岳彦(戸籍名・池内義弘) |
前名 | 伊丹一三 |
生年月日 | 1933/05/15 |
没年月日 | 1997/12/20 64歳 |
出身地 | 京都市右京区 |
職業 | 映画監督・俳優ほか |
家族構成 | 妻・K.K.さん(1960年結婚、のち離婚) 宮本信子さん(女優、1969年結婚) 父・伊丹万作さん(映画監督・脚本家) 義弟・大江健三郎さん(小説家)。 |
主な作品歴 | ★出演テレビドラマ作品 ★出演映画作品 「嫌い嫌い嫌い」「男は騙される」「銀座のどら猫」「おとうと」「偽大学生」(以上、1960)、「黒い十人の女」(1961)、「北京の55日」(1963)、「ロード・ジム」(1965)、「男の顔は履歴書」(1966)、「日本春歌考」(1967)、「妹」(1974)、「吾輩は猫である」(1975)、「細雪」「家族ゲーム」(以上、1983。キネマ旬報賞助演男優賞受賞) ★監督映画作品 「お葬式」(1984、藤本賞、毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞、山路ふみ子賞、日本アカデミー賞監督賞・脚本賞、キネマ旬報賞日本映画作品賞・監督賞受賞)、「タンポポ」(1985)、「マルサの女」(1987、毎日映画コンクール脚本賞、ゴールデンアロー賞映画賞、日本アカデミー賞監督賞・脚本賞受賞)、「マルサの女2」(1988)、「あげまん」(1990)、「ミンボーの女」(1992、ゴールデンアロー賞映画賞受賞)、「大病人」(1993)、「静かな生活」(1995)、「スーパーの女」(1996) ★著書 「ヨーロッパ退屈日記」(1965)「女たちよ!」「日本世間噺大系」「自分たちよ!」「『マルサの女』日記」「フランス料理と私と」 |
東宝の著名映画監督だった伊丹万作さんの子として生まれ、幼少期は、父親の映画製作の関係から撮影所のある京都・東京で生活。1946年中学1年のとき、父が死去。
高校時代は母の郷里の松山で送り、最初に入学した高校で後に作家となる大江健三郎さんと同級となり、文芸部誌などにともに投稿したりしていました。(のち1960年、大江健三郎さんは、伊丹十三さんの妹と結婚されました)
高校卒業後、伊丹さんは大学受験に失敗し、上京して新東宝編集部を経て商業デザイナーとなりのち舞台芸術学院に学びました。
1960年1月には大映東京に入社。永田雅一社長から「伊丹一三」という芸名を受けて映画「嫌い嫌い嫌い」(枝川弘監督)で主役デビューをかざりました。以後、脇役の貴重な存在として活躍。1961年に大映退社。1963年「北京の55日」、1965年「ロード・ジム」と外国映画にも出演し注目されたほか、1962年からは雑誌「洋酒天国」「婦人画報」などにエッセイも発表し活躍の場を広げていきました。
1965年にはNHK「あしたの家族」、MBS「源氏物語」に出演。テレビドラマデビューを果たしました。
その後は、芸名を伊丹十三に改名、役者としても充実した存在感を示し、1983年には映画「家族ゲーム」「細雪」でキネマ旬報賞助演男優賞を受賞されました。
その一方で、持ち前の多芸多才ぶりを発揮し、前述のエッセイとともに翻訳なども手がけるなど文筆活動でも異才を発揮。また、1970年代には日本テレビ「2時です、こんにちは」「遠くへ行きたい」(NTV)などテレビワイドショー・ルポ番組に出演。司会者・レポーターとしても活躍。テレビマンユニオンの制作スタッフに参加。ドキュメンタリー手法のノウハウをこの時期に修得されたようです。
1984年には、自作脚本で、映画「お葬式」を監督・プロデュース。数々の映画賞を独占、注目されました。その後は主に映画の監督・プロデュースを主体に活躍。「マルサの女」で多くの映画賞を受賞されるなど、父親である名監督・伊丹万作さんゆずりの才能を発揮されました。これらの監督・プロデュース業に、第8回山路ふみ子賞(1984年)、日本映画プロデューサー協会賞特別賞(1993年)が送られました。
こうした中で、1989年のプロデュース作品「スウィート・ホーム」をめぐる監督とのビデオ化をめぐる係争をはじめ、1992年、民事介入暴力をとりあげた監督作品「ミンボーの女」をめぐって暴漢に襲われ重傷を負ったり、翌年の復帰作「大病人」でも反発勢力から公開劇場の上映スクリーンを切り裂かれるなど次々とトラブルに見舞われもしました。
1997年12月、心労などからか、自ら主宰する伊丹プロダクションの事務所が入居しているマンションから飛び降り、死去されました。64歳でした。
無断転載はご遠慮ください。リンクはご自由に。
掲載内容については各自の責任において利用してください。当方では責任を負いません。
Copyright Furusaki Yasunari 1997