『きりきり舞い』

「物思う下水道」のためのメモ

●脳味噌を描く下水道(考える下水道)
「下水道が全体として知性を持つと言う事?」
 最初はそういうのを考えていた。流水コンピュータみたいな。
「うわあ。処理速度遅そう」
 うん。この線で知性と呼ぶ様な物は到底無理だろうと思って諦めた。今考えているのは神経細胞が微生物として単体で生きている様な物が、沢山集まって知性体を構成する、という様な物。下水道は栄養豊富だから余剰エネルギーで思考を始める。
「菌類みたいな物かしらね。下水道の環境で独自に進化したのね。移動する事はできるの? 粘菌なんかはアメーバ状に成って移動したりするけど」
 いや。移動能力は今の所考えていない。下水管の内面に張り付いている。乾燥にも弱くて濡れていない所には繁殖できない。積み重なって立体的に繁殖する事もない。清掃時に剥ぎ取られちゃうからだ。下水管の内側を広がって繁殖する。繁殖活動をするのは主に外縁部分だから栄養やエネルギーを個体間で送り合う事もできる筈だな。網の目の様に張り巡らされた都市の下水道網を思考しながらじわじわ広がっていく。
「感覚器官は?」
 当然の事ながら視力はない。
「真っ暗闇だもんね」
 聴覚と言うか振動は感じる事ができる。湿度も感じる事ができる。重力も感じる事ができる。最も豊かな感覚は分子的な物だろうな。
「人間で言うと匂いや味。運動能力はないの?」
 ないんじゃないかなあ。生活形態が植物的だから。下水道を流れる汚水から栄養を摂っているから餌を探す必要もないし。
「それじゃあ人間とお話できないじゃないの」
 いや。脳に直接接続する。基本的に神経細胞と同じだから繋がる事ができる。顔の上を増殖しながら這い進んで眼球の脇から眼窩に入り込み脳まで広がっていく。
「うひゃあ。動き回る人には侵入できないわね」
 うん。かといって死んじゃった人とも会話はできない。脳は酸欠に弱いから呼吸が止まると最初に壊れ始める。
「弱って動けなくなった人ね」
 そう。下水を流れて来て引っ掛かった衰弱した人。
「下水道知性体の中で模擬されて生き返るかも知れないわね」
 あっ。そうだ。本体は滅んでも情報空間上の仮想人格として蘇るかも知れない。
「逆に、人間の脳内に下水道知性体の一部を送り込む事も」
 脳侵略。SFではよくある着想だけど面白いな。死に掛かっている人を脳侵略してもつまらんけど、事情があって下水道に逃げて来て眠り込んじゃった人とか。最初の一人さえ乗っ取ってしまえば、後はそいつに次の獲物を運び込ませる事ができる。
「ハインラインの『人形つかい』。下水道知性体は何を考えているの」
 それを一緒に考えて欲しいんだ。人間と接触するまで下水道知性体は言葉という物を持たなかった。言葉のような象徴記号を使わず、具体的な心象を組み合わせた素朴な推論しかできなかった。抽象概念も殆どなかっただろうな。
「その時代、高い知能を何に使っていたの。無駄に遊ばせていた訳ではないでしょう」
 おそらくは、芸術。
「音楽とか美術とか?」
 奴らの主な感覚は分子刺激だから、それを変化させて楽しむ物かなあ。
「匂いの音楽みたいな物ね。彼らは私たちが歌を歌う様に匂いを再現する事ができるのね」
 匂いその物じゃなくて、神経信号としてだろうけど。
「下水道知性体の空間認識はどんな物かしら」
 基本的には平面だ。下水管の内面、それも汚水に濡れた下の方だけで天井は認識していない。濡れていない場所は存在しないのと同じなんだ。その幅で帯状に延びていき随時他の下水管と連結して網の目を構成しているのが彼らの世界だ。その地域の全ての下水管が集まる最終処分場は水が浄化されてしまうので生息できない。その手前までが生息限界。重力を感じ取れるから上下という感覚はあるが高さという広がりは殆ど抽象的な物としか考えられない。下水管の湾曲も感じ取れないから、重力の方が岸に近付くに連れて斜めに成っていく様に感じている。
「人間が大地を平らだと思っていたのと似ているわね。彼らの時間認識はどうかしら」
 感覚的には人間と同じ様な時間感覚があるのじゃないかな。彼らには振動を感じ取る能力があるから。振動というのは周期的な変化の事で必ず時間的広がりを伴う。視覚的な空間認識なら、止まった映像というのもあり得るが、止まった振動というのはナンセンスだ。止まった音というのがナンセンスなのと同じ様に。したがって、彼らにはある程度感覚的直感的に時間的広がりを感じ取る能力があるだろう。丁度我々が、時計を見なくても、もう随分経ったとか、まだ少ししか経っていないと判る様に。只、彼らには体内時計はない可能性が高い。真っ暗な下水道では日周期は意味を持たないし、地下だから一年の温度変化も僅かだろう。記憶や歴史的時間に関する認識は人間とは随分違っていそうだ。彼らは人間と違って増殖する事に依って記憶容量を理論的には無限に増やす事ができる。文字などの記憶に依って歴史を残す人間とは随分その意識が異なるのじゃないだろうか。


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