バビロニアがハンムラビ王の下で着々と軍事力を整えていた頃、彼は将来大帝国になったバビロニアと戦争をさせるため、はるか西に新たな国を創り出そうとしていた。彼はアナトリア高原にあった一〇あまりの小国を統合し、ヒッタイト王国を誕生させる。彼がこの場所を選んだのは、ひとえに鉄を産出し、鍛鉄の技術があったからに他ならない。バビロニアのよく統率され戦略に長けた軍隊に対し、粗野な新興国が互角に戦うには敵の持っていない新技術が不可欠であった。彼は鉄器と隣国ミタンニで開発された戦車という新兵器で、ヒッタイトにバビロニアと戦争をさせようと考えたのである。
しかし、バビロニアとヒッタイトの軍事力が最強となる時期をうまく同調させる事ができなかったため、戦争はヒッタイトが一方的にバビロニアを蹂躪する結果となり、彼の期待した拮抗する兵力のぶつかり合いは生じなかった。彼は、その憂さを晴らすように、ヒッタイトの王朝に血で血を洗う激しい権力闘争を起こした。
彼がヒッタイト王朝の権力闘争を収束させ、秩序を回復させたのは半世紀もたってからだった。今度はヒッタイトをエジプトと戦わせようと考えたのである。彼は豪放な武将スッピルリウマをヒッタイト王に即位させると、先ずは東の隣国ミタンニを攻略した。スッピルリウマ王の最初のミタンニへの出兵は、ミタンニ王ドゥスラッタの猛反撃にあって失敗に終わった。彼としてはこの戦争をもう少し長引かせたい気持ちもあったが、エジプトの軍事力を考えると、あまりヒッタイトを疲弊させるわけには行かなかった。
彼はミタンニ国内に内紛を起こし、ドゥスラッタの失脚を策謀する一派にヒッタイトと手を握らせておいて、今度はヒッタイト軍にユーフラテス川を渡って山岳地帯を突破させると、一挙に首都ワスガンニをついた。不意をつかれた都はあっという間に陥落してしまい、ドゥスラッタもまた、内通した味方の手にかかって暗殺された。こうして、ヒッタイトとエジプトはシリアを挟んで対峙することになった。
スッピルリウマ王亡き後、その子アルヌワンダ二世が王位を継いだが、そのころ流行していた疫病のため、わずか二年後に没した。そこで、スッピルリウマの次男ムルシリ二世が即位する。これを機に、彼はヒッタイト周辺諸国を「整理」し、意識をエジプトとヒッタイトに集中することにした。父王と兄王が相次いで他界すると、その混乱を狙って周りの敵国が一斉に攻撃をしかけてきたが、ムルシリ王はこれに反撃を加え次々に征討していった。休むことなくムルシリ王は背面の脅威であった西南方のルウィ族の強国アルツァワを滅ぼして四つの小国に分割した。こうして、周囲の憂いを解消したヒッタイトはシリアの派遣をめぐってエジプトとしのぎを削る事になる。
ムルシリ王の跡を継いだムワタリ王はことに戦車戦にすぐれ、カデシュの戦いではエジプト第一九王朝、ラムセス二世率いる戦車兵団に壊滅的打撃を与えている。ここでようやく、彼はある程度満足し、状況を収束させることにした。ひとつには、カデシュの戦いで見せた、ラムセス二世の能力が不気味であったためもあったが、主な理由は彼の興味が東方に勃興したアッシリアに移りつつあったためでもある。
ムワタリ王の跡を継いだウルヒ・テスプ王は武将としては全く無能で、このため叔父のハットゥシリ三世に王位を奪われた。そして、ハットゥシリ三世の治世になると、エジプトとの間に友好条約が結ばれ、王の末娘がラムセス二世の王妃となる。ハットゥシリ三世の子トゥトハリヤ四世の治世は、平穏にすぎ、アルヌワンダ三世をへて、紀元前一三世紀末のスッピルリウマ二世の時代を最後に、ヒッタイト王国は突如として歴史から姿を消してしまう。
ヒッタイトは彼がバビロニアとエジプトの敵として作り出した国であり、その役目を終えたために、消えてなくなったのであった。
『彼が目覚める時』4 了