「季刊カステラ・1999年冬の号」別冊付録

『彼が目覚める時』3

彼が目覚める時 第十三回

 彼はエジプトは豊かになりすぎたと感じていたが、その豊かさゆえに人々の戦争への動機は希薄であり、なかなか戦争を起こすことができず、彼はいらだった。彼はエジプトの力を弱めることにした。そのためには、国内に対立するいくつかの勢力を作り出し、お互いに争わせれば良かった。この作業には、彼はもうすっかり慣れていた。宗教を利用すればよいのである。
 エジプトの支配者は神でなければならない。その支配権も神聖でなければならないが、これを認め、支持するのは神官であった。したがって、ファラオになるためには、神官勢力の支持が必要であった。この時代のファラオたちはテーベの市神アメンをあつく信仰した。国家の繁栄も戦いの勝利も、すべてはアメン神のなせるわざで、ファラオはその使徒にすぎなかったのである。かくして戦利品はまずアメン神殿にささげられた。ファラオたちの卑屈な態度は、アメン神の神官勢力を増長させる結果となった。彼らは広大な神殿領と莫大な富をたくわえ、ついには政治にも口を挟むようになった。神官の勢力はますます強大になり、王室の影は薄くなった。
 エジプトにアジアから美しい王妃がやって来た。その名をネフェルティティという。アケナテン王(アメンヘテプ四世)はこの美女を溺愛した。王妃を彼が呼び寄せたというわけではなかったが、もちろん彼は美しい王妃をエジプトの力を弱めるために利用した。アジア出身の王妃ネフェルティティは神官勢力の権力の増大を非常に嫌った。王妃のために病身で平和主義者の王は、強大なアメン神の神官勢力に対して、武力戦争ならぬ宗教戦争を敢然と挑んだ。武力を伴わない闘争状態というのは、これまでにも何度かあった。そしてそれは、彼にとっては常に武力戦争の前段階にすぎなかった。この時も例外ではなかった。
 アケナテン王は、アメン神を最高神とする多神教にかえて、へリオポリスの太陽神アテンを絶対とする一神教への宗教改革を強行した。さらに、既成宗教と因習のはびこるテーベの町を捨て、はるか北方、テーベとカイロのほぼ中間に位置する場所に新都を建設しアケタテン(アテンの地平線)と名付けた。何者にも干渉されない新天地での生活に王妃は満足した。新都建設を境に王は政治に対する興味を失ってしまった。もともと病弱なこの王は、王妃の機嫌が良ければそれで良かったのである。王の変わり様はまるで「何かの憑き物が落ちた」かの様だった。
 このころのアジアでも、彼は活発に活動していた。シリア、パレスチナの諸侯は反乱を起こし、強国ヒッタイトやアッシリアも勢力を拡大しつつあった。このような情勢を知っても、アケナテン王は軍備も積極的な外交政策も行わず、ただひたすらにアテン神に平和を祈った。王の政策が世界情勢に合わないのは明らかだった。すぐさま憤懣の声があがりはじめ、全国で施政を糾弾する不平分子が立ちあがった。もちろん、これにはアメン神官団の後押しがあった。
 やがてアケナテン王は家臣に裏切られ、あれ程愛した王妃とも別居をして、失意のうちに病死した。新都もわずか一〇年ほど栄えただけで廃墟と化した。アメン神官の勢力に逆らえずテーベに戻ったアケナテン王の婿養子ツタンカーメン王は、一〇歳で即位し、一八歳でこの世を去っている。
 彼の思惑通り、数代にわたる消極政策のためエジプトは外地の大半を失っていた。これに危機感を感じたツタンカーメン王の妃アンケセナメンは、王の死後ヒッタイトの王子を婿に迎えて友好関係を結び、その力を背景に旧勢力を抑えて王室を立て直そうと計画した。ところが、めざす王子はエジプトへ向かう旅の途中で何者かに暗殺されてしまった。この時アンケセナメンは、エジプトの力を抑えアジア諸国と対立させようとする、人知を越えた力が働いているのを感じ取っていた。

彼が目覚める時 第十四回

 彼は倦むことなく戦争を繰り返した。何となれば彼自身が戦争そのものだったからである。繰り返すことにより彼は、より効率良く、より大きな戦争を、より大規模な殺戮と破壊を、より大きな悲惨を作り出す、コツと勘をつかんでいった。
 具体的には、それは軍隊の組織であり、戦略的理論であり、戦術的戦闘技術であった。それは、人間が繰り返すことである技術を身に付けていくことと本質的には同じだった。ばらばらに動いていてい立てや耳や足や手が、やがて調和のとれた動きをするようになる。彼に起こったのもそれと同じことだった。
 この時期、彼はまだ「知性」を持たなかったから、自分で新たな兵器や戦術を開発することはできなかった。しかし、社会的な流れとして、そういった技術開発や軍備拡張が奨励される雰囲気を作り出すことができた。より強力な軍隊を作り出そうとする契機、それは他者への侵略の欲望と、他者から侵略されることの恐怖であった。
 そのような社会的要請からは無縁に、個人が独自の興味や問題意識から、新たな技術や理論、思想を産み出すことがあった。それらは彼の「意図」からはまったく独立に作り出された。したがって、それは平和を産み出すものとして機能することがあり、彼にとっては危険なものだった。彼はそれを取り込み、戦争に役立てようと努力した。彼にとって、宗教とは常にそのようなものだった。
 彼と個々の人間は相互に相手の環境のようなものだった。いや、人間が、自分の身体を構成する細胞を自分の「環境」と呼んだりはしないから、「条件づけるもの」とでも呼んだらよいだろうか。人間はふだん、自分が自分の身体を制御していように思っていることが多いが、病気をした時など、自分(意識)が一方的に身体を制御しているわけではないことを知る。また、恋をした時などは、感情すら自分の思う通りにならないことを知るだろう。
 彼と人間の関係もそれとよく似ていた。

 エジプトは、数代にわたる消極政策がたたって、外地の大半を失っていた。そこで彼は紀元前一三〇五年頃、新たに第一九王朝を開いた。この王朝が理想としたのは、かつての繁栄を取り戻すことである。セティ一世、セムセス二世、メルネプターの諸王は失地回復につとめた。王たちはたびたび西アジアに出兵したが、ここで南下するヒッタイトの勢力と衝突した。

彼が目覚める時 第十五回

 彼の「エジプトから北上する力の流れ」と「ヒッタイトから南下する力の流れ」はシリアの都市カデシュでちょうど均衡していた。彼はこの地点に着々と「両国の間の緊張」をたくわえて行った。
 エジプトの西アジア進出のためには、カデシュは戦略上の要地である。エジプトは何度かこの地を支配下に置こうと遠征を行っていたが、南下するヒッタイトと衝突し、なかなか満足な結果は得られなかった。ラムセス二世はその治世の第五年、四個師団を率いてエジプトを出発した。ラムセス二世率いるエジプト軍は兵二万、馬牽きの戦車二五〇〇。待ち受けるヒッタイト軍の兵およそ一万七千、騎馬一万、戦車三五〇〇。一見するとヒッタイト軍の方が有利のようだが、エジプトの戦車が二人乗りに対してヒッタイトの戦車は三人乗りであり、戦場となるオロンテス河畔の都市カデシュの地形は複雑で、より小型であるエジプトの戦車の方がその機動性において有利であった。また、ヒッタイト軍は支配下にある小国の兵を多数糾合した連合軍であり、命令系統などに問題も多かった。つまり実際には戦力としてはエジプト軍の方がかなり優勢だったのである。にもかかわらず、勇猛を誇るヒッタイト王ムワタリは、戦争経験の少ないラムセス二世を侮っていた。このままでは、エジプト軍の一方的な勝利で終わってしまう。彼は、より激烈な戦闘を求めた。
 ヒッタイト王ムワタリは、ここで何か策略を用いようという気になった。正面からぶつかり合っても決して負ける相手ではないのだが、進軍してくる敵を待ち受けるのに何だか飽きてきたのだった。将校達も所在なげにしており、このままでは士気が低下するかも知れなかった。
 カデシュの南の山地に野営するラムセス二世の前に、二人のベドウィン族の男がやってきた。この二人は、自分達の族長がエジプト王に仕えたいと考え、自分達を派遣したのだ、と言った。ラムセス二世は、ヒッタイト王がどこにいるか知っているか、と尋ねた。彼らの答は、エジプト王の到来を知ったヒッタイト王ムワタリはカデシュに向けて南下中で、現在ヒッタイト軍はアレッポ付近にある、というものだった。アレッポはカデシュから一五〇キロメートル以上北にある。
 ラムセス二世は敵よりも早くカデシュに陣を張ろうと先を急いだ。敵はまだ遠くにあると思った兵士達は油断し、隊列は前後に長く伸びた。
 この二人のベドウィン族は、ヒッタイト王ムワタリがラムセス二世に偽の情報を流すために送ったスパイだった。ヒッタイト軍はすでにカデシュに到着し、砦の周囲に戦車と歩兵を潜ませて、いつでも戦える体制で待ち伏せをしていたのである。
 進軍するエジプト軍第二師団の側面に、突然ヒッタイトの戦車部隊が出現した。不意を突かれた第二師団は中央を撃破されて戦意を喪失し、先を行くラムセス二世の第一師団に追いすがった。戦車で出撃したラムセス二世を、ヒッタイトの三人乗りの戦車二五〇〇台が取り囲んだ。
 ラムセス二世は、父であるアメン神に祈った。すると奇跡が起こった。ラムセス二世には、敵が何を考え次にどのように動くかが「まるで我がことのように」わかるのだった。ラムセス二世は兵士に適格な指示を出して敵の隊形を崩し、自らも敵のなかへと切り込んで戦車兵を次々に打ち倒した。ラムセス二世の放った矢は、まるで吸い込まれるように敵兵を貫いた。二〇〇年前トトメス三世にあらわれた、彼の心に同調する力がラムセス二世に宿ったのだった。
 ラムセス二世は、自分はこの戦いに勝利した、と記録しているが、実際には奮戦の末、やっと危地を脱することはできたものの、この戦いでエジプト軍は甚大な損害を受けて、南に退いていた。
 この戦いで、彼の興味を引いたことが二つある。一つは計略である。この時代においても、戦争で策略を用いるというのは普通にあったことだが、これほど劇的に戦局を左右した例は無かった。以後彼は諜報と計略に多大な関心を示すようになる。
 興味を示す、というのはあまりにも彼を擬人化した言い方である。正確に言えば、彼には「興味」と言うような知的な指向性はまだ無い。彼という存在は多くの人と物で構成される一種の循環系だが、一度効果的な循環の筋道が生じると、また同じ道を流れようとする傾向があった。それはちょうど、河川が氾濫などにより、より直線的な水の経路ができると、だんだんそちらの経路が太くなっていき、元の経路は枯れていくのにも似ていた。彼の「興味」とはそのようなものであった。
 もう一つの興味は、ラムセス二世に宿った力である。こちらは言ってみれば「負の興味」であった。ラムセス二世はそれまでそのような力を示したことは無かった。戦場で突然、彼の動きが見えるようになったのである。人間は突然ある「ひらめき」を得て、このような能力を開花させることがある、と彼は知った。彼にとってこれは危険なことだった。
 集団であれば、彼にはある程度その行動を制御することができた。というよりも人間の集団が彼の肉体そのものだったのである。ヒッタイト王ムワタリに、策を講じようという気にさせたのも、彼がムワタリという個人を直接操ったのではない。彼はヒッタイト軍全体に、戦闘の前に何か計略を用いるべきではないか、という気分を作りだしただけである。ムワタリ自信は気付いていないが、ムワタリはその雰囲気に影響されて計略を実行することにしたのであった。しかし、個人はいつも必ず、ムワタリのように行動するとは限らなかった。多くの人間は自分の属する集団の中で、それと自覚せずにその集団の動きに影響されて行動している。しかし、ごくまれに、独自の強烈な興味や問題意識を持った個人が現れる。こういう個人は彼にも思いどおりに制御することが困難だった。
 それは、人間が自分の手足は自由に動かすことができても、細胞の一つ一つまでは制御できないのに似ていた。ラムセス二世のように、ある個人が突然のひらめきでそれまでに無かった能力を発揮するのは、彼には予測不可能なことであり、危険なことであると思われた。人間でいえば、細胞が癌化する脅威、といったところである。
 しかし、ラムセス二世の見せた能力は一時的なものであったらしく、その後ラムセス二世は何度かアジア遠征を行ったが、この時のような超人的な力を見せることは無く、勇敢ではあるが戦術的には突出したところの無い指揮官であった。ヒッタイト、エジプトの両国は遠征を繰り返したため双方疲弊し、やがてムワタリの後王位に付いたヒッタイトのハットゥシリ三世とラムセス二世の間に和平条約が結ばれた。
 ラムセス二世の治世は六七年間の長きにおよんだが、後半生は平穏であった。それは、何者かがラムセス二世をおそれ、その周囲から戦争を注意深く取り除いたかのようであった。

          『彼が目覚める時』3 了

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