季刊かすてら・2003年春の号

◆目次◆

軽挙妄動手帳
奇妙倶楽部
編集後記

『軽挙妄動手帳』

●不定形俳句●

『奇妙倶楽部』

●世界虚事大百科事典●

美醜税

 西アフリカの小国ピャナウジ共和国に特有の税制。フランスの植民地だったピャナウジは1968年に独立、国連に加盟した。主要な民族であるベユ族は容姿の美醜を非常に重要視する民族で、男女を問わず要望が美しければそれだけで将来は約束され、醜ければたとえ親が資産家や権力者であってもたちまち没落した。誰もが醜い者とは関ろうとはしないのである。ベユ族の美醜感覚は独特で他の部族には良く判らないが、非常に厳格な基準があるらしく、個人の趣味の問題ではなく部族共通の規範である。彼らに取ってはそれが一種の倫理なのである。ベユ族はアフリカでは珍しく一夫一婦制だが、醜い者は結婚もままならず、仕方なく醜い者同士が結婚する傾向がある。そのためその特徴が強化され、醜い血筋は益々醜く、美しい血筋は益々美しくなった。しかし彼らは血統を問題にしているのではない。遺伝的な偶然で突然変異的に醜い血筋の中に美しい者が生まれれば分け隔てなく賞賛される事でそれは判る。美しい血筋に醜い者が生まれても同様である。
 独立後、近代化を目指そうとする政府は、このような差別は民主主義にふさわしくないと考え、何とか美醜の差による格差をなくそうと苦心した。そこで作られたのが美醜税である。美しい者から徴税し、醜い者の福祉に利用する税制である。これによって醜い者も高い教育を受けられるようになったが、差別はなくならず、むしろ以前よりもひどくなった。相変わらず結婚は醜い者同士でしかできず、就職もままならなかった。そのため優秀な知能や技術を持った醜い者は国外に流出した。近代化は思うように進まず、特別な鉱物資源も持たないピャナウジは自給自足的な経済から脱却できなかった。政府は頭を抱えたが有効な対策は発案されなかった。
 これに揺さぶりを掛けたのは一人の少女だった。ナクホヘという名のその少女はベユ族の基準では最低クラスの醜さだったが、欧米の基準では美女であり、特に手足の長い体型が美しかった。16歳の時に取材中のフランス人ルポライターの目に止まり、引き抜かれてモデルとなり、成功して雑誌の表紙を飾るようになった。ベユ族の社会が自分たちの価値基準に疑問を持ち始めたのはこの時が最初であるといえた。現在、少しずつではあるが差別は解消される方向に進んでいる。皮肉な事に近代化が進まなかったがゆえに、開発から取り残され豊かな自然が残っているピャナウジは、砂漠化の進む周辺諸国よりも健全な国土を保持している。

IMW

 正称は Industrial Masochist of the World で、世界異常性欲マゾヒスト同盟あるいは世界マゾヒスト会議と訳される。1955年にサンノゼで結成された急進的なマゾヒスト団体。1954年にカリフォルニア州のサンノゼ郊外、俗に言うシリコンバレーで異常性欲を理由にアパートへの入居を拒否された四人の男女を中心にして、E.V.リチャードソンらのマゾヒストや無政府主義者を結集して結成されたIMW は「異常性欲者と通常性欲者に、共通するものは皆無である」(IMW 規約)と闘争推進の立場に立ち、穏健なアメリカ異常性欲者総同盟に対抗した。63年アメリカがベトナム戦争に直接介入してからは、強い反戦的立場をとった。組織人員は、全期間にわたって振るわず、最盛時でも70人を超えなかった。結成から今日まで、保守的なアメリカ市民から弾圧を受け続けているが、それを喜ぶので弾圧者を困惑させている。

国立社会保障人口問題研究所理論研究室

 国の少子化対策の研究の一環として、純粋に理論的な人口増加方法を研究する機関。1996年に人口問題研究所と社会保障研究所を統合し、国立社会保障人口問題研究所が設立されると同時にその下部機関として発足した。社会や倫理などの要因をいったん除外して、理論的に最も効率良い人口増加方法を研究する事を目的としている。初代室長は医学博士の石坂桃子。倫理上の問題から、実際に人間を使って実験をする事はできないので、主に小型の豚と犬を利用して実験データが集められている。また、全国の畜産試験場とも協力体制が整っている。もちろん、各種医療機関からもデータを集めている。
 研究では、平均的な体格の日本人女性の出産年齢は18歳からが好ましいとされている。最初の出産が早いほど一生の間に産む事が可能な子供の数が多くなるように思われがちだが、医療データを見ると早すぎる出産はその後の母体の成熟に良くない影響があるようである。また、出産後すぐに次の子供を受胎するのも母体を疲弊させ、結果として生涯に産む事ができる子供の数が少なくなりがちである。もちろん、こういった問題は個人差が大きく、容易に一般化できるものではないが、全体として多くの子供を得られる方法を研究室では模索している。
 出産年齢の上限は48歳で、それ以上の年齢では現代の高度な医療体制の下でも健康な出産にやや不安が出始める。また、18歳から35歳までは2年に1度の間隔での出産が最も効率が良いが、36歳以上では4年以上の間隔を開ける事が望ましい。従って一人の女性が安全にかつ多数の子供を得る最も効率が良い方法は、18歳から36歳までの18年間は2年に1度の間隔で、36歳から48歳までの12年間は4年に1度の間隔で子供を産み、生涯に12人の子供を得るものである。出産後は次の出産に備えて充分な食事と適度な運動を行う事が望ましい。
 研究の初期においては、受胎を目的として性交する男女の比率は、女性が男性の2倍から3倍程度いるのが最も効率が良いと考えられていた。男性の射精可能な期間は女性が出産に適する期間よりもずっと長く、妊娠出産と違って短期間に繰り返しても健康を損なう事がない。また、女性が妊娠してから出産し、次の受胎のために性交するまで、36歳以下なら2年、それ以上の年齢なら4年の間の性交は必要がない。そのため一人の男性が複数の女性に受精させる事が効率が良いと考えられたのである。現在ではこの考え方は改められ、男性が一晩に射精可能な回数には限りがあるので、一人の女性が複数の男性と受精するまで性交を繰り返した方が受精率が高くなると考えられている。従って、性交する男女の比率は1対1で良いと言われている。
 一人の女性が12人の子供を養育するのは困難なので、母親は授乳以外の育児や養育をせず、18歳以下と48歳以上の女性、幼児期を過ぎた全ての男性が協力し合って育児を行い、出産適齢の女性は健康な身体を作り妊娠に供える事に専念する事が望ましい。
 こういった研究は季刊の『室報』に詳しく述べられている他、非刊行の物を含む『資料』にまとめられている。

酒田りん 1727‐1809(享保12‐文化6)

 江戸中期の数学者、売春婦。通称算太夫、号は方陣亭という。山形の庄内平野に生まれ、山形で数学を学ぶ。貧しい農家の娘であったため、身体を売って学費を稼いだと弟子たちは伝えているが、自叙伝『梅花算太夫』(1802)によるとこれは順序が逆で、たまたま数学者に体を売った事が数学に興味を持つきっかけであったらしい。さらに数学を学ぶために江戸へ出る。姓を持たない農民の娘であったりんが、出身地の名を取って酒田を名乗るようになるのもこの頃である。その頃有名であった宮地定和の弟子になろうとしたが、宮地は女の弟子は取らず、また当時江戸で夜鷹と呼ばれた街娼を軽蔑していたため成功しなかった。酒田は宮地の著書『方陣算法』(1761)を訂正した『改方陣算法』(1762)を出版した。この出版により、宮地の弟子の赤井真英によるきびしい攻撃を受けた。酒田は自分の塾を梅花流と名づけ、宮地の関流と対抗した。その結果、関流と梅花流とで20年もの間、互いに相手を非難する数学書を送って論戦した。
 酒田は、数学者というよりは数学教育者といった方が良く、多くの弟子を養成し弟子から慕われた。著書は多く、数学ばかりでなく広い分野にわたっている。塾の経営が軌道に乗ってからも、生涯売春を辞めようとはしなかった。また酒田は男女を問わず全ての弟子と必ず一度は性交した。老齢となり、客が取れなくなってからも弟子たちとは関係を続け、それは八十二歳で死ぬまで続けられた。いくらなんでも晩年は女性としての魅力があったはずはないが、弟子たちは酒田を尊敬し、また愛すべき老人として親しみを感じていたので拒まなかったようである。そのため彼女の弟子たちは全員が梅毒をわずらっており、梅花流の名はそこから来ている。

後藤田晃編・四国風俗資料

 四国文化大学文化人類学研究室の後藤田晃(1939-)教授が学生、大学院生を動員して四国内の風俗の一部を調査した資料。1998年に一巻が完成。四巻を数えている。後藤田はアラスカのトリンギット・インディアンの研究で知られるが、この資料では最初に、四国内の学校、公園、遊戯施設などに設置されたすべり台について、授業の一環として学生に詳細な調査をさせている。位置、数量、大きさ、形態の変化など膨大な資料が得られた。翌年には雲梯(うんてい)について調査させている。ぶら下がって遊ぶ遊戯器具である。翌年はブランコかジャングルジムかと学生たちは予想したが、実施されたのは物干し竿の移動販売の調査であった。これらの調査にどのような関連があるのかと大学院生の一人が聞くと後藤田は「関連はない」と応えた。目的を尋ねると後藤田は返答しなかった。物干し竿の移動販売に関しては製造、入荷、販売、住民の反応、売買におけるトラブルなどが二年間に渡って詳細に調査された。定年後、後藤田が語った所では調査の目的は調査に当る学生たちの反応を見る事で調査対象にはなかった。調査されていたのは学生たちだったのである。

一切是無書(いっさいこれなきのしょ)

 江戸前期の哲学書。著者は出羽国秋田郡夜地村中越成松与次右衛門、後に出家して陰仁(いんにん)。1684年(貞享1)に著された。上・中・下3巻および付録とから成る。元々儒者であった著者が仏教における空の概念を独自に解釈した物。驚いた事に存在論に近い哲学概念を西洋哲学とは全く独立に導き出している。両の掌を打ち合わせた時、手は確かにあるが、音は「ある」のか「鳴る」だけなのか。人が走ると言う時、人間の体や二本の足は確かにあるが、「走り」という物はどこにあるのか。といった事に始まり、白地に黒い絵柄をじっと見たあと素早く黒無地の紙や布を見ると、そこにないはずの絵柄が白く浮かび上がる、現代の言葉でいう残像現象にも強い興味を持っていた。また、影絵にも惹かれ、光源と物と影の関係に、何か存在における普遍的な物を感じていたらしい。晩年、出家した著者は強い厭世観、ニヒリズムに取り憑かれ、鬱状態となって自殺したと伝えられる。原本は散逸、数種の写本がある。刊本としては、小向武夫校訂本、小磯吉次編本がある。

◆編集後記◆

 ここに掲載した文章は、パソコン通信ASAHIネットにおいて私が書き散らした文章、主に会議室(電子フォーラム)「滑稽堂本舗」と「創作空間・天樹の森」の2003年1月〜3月までを編集したものです。私の脳味噌を刺激し続けてくれた「滑稽堂本舗」および「創作空間・天樹の森」参加者の皆様に感謝いたします。

◆次号予告◆

2003年 7月上旬発行予定。
別に楽しみにせんでもよい。

季刊カステラ・2003年冬の号
季刊カステラ・2003年夏の号
『カブレ者』目次