季刊かすてら・2002年夏の号

◆目次◆

方法的怠惰
軽挙妄動手帳
奇妙倶楽部
編集後記

『方法的怠惰』

●大喜利・運命の出会い編●

【出題】ダンサーの吉川さんの左手の小指から赤い糸が出ています。どうしたら良いでしょうか。
【回答】リリアン編み。
【回答】紅茶に入れると良い香りがすると聞いた事がある。
【回答】その糸は猛毒です。八百度以上の温度で焼却しましょう。
【回答】万国旗を吊ってみる。
【回答】蜘蛛の巣を張って待つ。
【回答】葱で擦る(何も変化しない)。
【回答】赤い糸は当りですので所定の窓口で引き換えてください。窓口の場所は景品交換所で教えてくれます。

●大喜利・春なのに編●

【出題】二千年ぶりに帰って来て俺ん家だって言われても困るよなあ。それはともかく、秋は人を感傷的にし、春は人を浮き立たせるといいますが、春にだって感傷的になることはあるはずです。暗算の達人、緒方雪子さんが春だと言うのに感傷的になるのはどんな時。
【回答】「雪村いづみ」と「岸恵子」と「越路吹雪」の区別がつかないときドリフの桜田淳子のようにおおげさに悲しむ。
【回答】アパートの三階の緒方さんの部屋の戸がノックされたので開けてみると、髪を七三に分け三つ揃いのスーツを着て、右手に大きな弓を持ち左手にボストンバッグを提げ、矢のたくさん入った筒を背負った男が、「すみません、水を一杯所望したいんですが。実は、狩に行く途中で、道に迷ってしまいまして」と言うので、コップに一杯の水を飲ませてやると、お礼だと言って矢の突き刺さった一羽の朱鷺を緒方さんに手渡して去った。緒方さんには料理方法が判らなかった。
【回答】はにわに当たった時。
【回答】暗算をしたいのに、周囲に数字が見当たらない時。電話帳が一冊あると安心(暗算のお守り)。
【回答】お前が落としたのはこの金の暗算かい。それともこちらの銀の暗算かい。
【回答】米国人が渋谷でサムライを捜しているのを見た時。
【回答】服を脱いでから、湯が存在しない事を発見。

●大喜利・国起し編●

【出題】街を歩く女子高生がみんな俺を見て笑ってるような気がする。それはともかく、表向きは戦火が去った事になっているアフガニスタン、復興しようにも産業がない。そこで新政府首脳が考えた起死回生のアイデアとは。
【回答】お土産に地雷の詰め合わせ。
【回答】カブール・ダカール・ラリー(地雷原を走る)。
【回答】徳川埋蔵金伝説を流す。
【回答】国家解散。アフガニスタンは四月いっぱいで修了します。(日本もいったんちゃらにしたらどうだ)
【回答】地雷原の中にミステリーサークルが!
【回答】イメージキャラクターとして「地雷ちゃん」と「クラスター爆弾君」をデザイン。
【回答】先ずは文通から。

●大喜利・誘拐編●

【出題】とぅるるるるる、がちゃ。
「はい田中です」
「娘は預った。この子の命が惜しかったら…」
さて続きは?
【回答】「子供を三人誘拐して同じ電話をかけろ」
【回答】「日本各地のお土産の三角形のペナント百枚用意しろ」
【回答】「受信料を払え」
【回答】「俺の作った物語を聞いてくれ。昔々ある所に…」がちゃ。

●大喜利・芸術家編●

【出題】「あなたに興味をもって欲しいとき、あなたについて語るより、その人の事について語りかけなさい。その人はあなたに何一つ興味はなくても、自分については関心をもっています」やかましい。エログロ怪奇漫画家の住吉愛子さんは自分の仕事に誇りを持っていますが、時折堕落したのでは、と思う事があります。その理由は何。
【回答】便所の落書きに丁寧な下書きをしてしまう。
【回答】スカトロに躊躇する。
【回答】東浩紀に誉められた時。
【回答】うっかり「フランダースの犬」を見て泣いた。ごめんなさい日野日出志先生。
【回答】二人犯し一人殺すと満足してしまう。

●大喜利・必要条件編●

【出題】(  )内を埋めて次の文章を完成させなさい。
猿は木から落ちても猿だが、(  )のない(  )はただの(  )である。
【回答】猿は木から落ちても猿だが、仕事のないライターはただのプータローである。
【回答】猿は木から落ちても猿だが、実家のないキャンプはただのホームレスである。
【回答】猿は木から落ちても猿だが、怪しさのない秘密結社はただのサークルである。
【回答】猿は木から落ちても猿だが、危険のない冒険はただの旅行である。
【回答】猿は木から落ちても猿だが、不安定さのないウィンドウズはただの偶然である。
【回答】猿は木から落ちても猿だが、議席のない政治家はただの嘘吐きである(そちらの方が害がない)。
【回答】猿は木から落ちても猿だが、目覚める事のない悪夢はただの現実である。
【回答】猿は木から落ちても猿だが、当選者のない宝くじはただの詐欺である。

●大喜利・見分け方編●

【出題】家のおじいちゃんが何時の間にか他人に……でも他の家族は気づいてない。それはそれとして。あなたが知っている「こういう人にはこういう特徴がある」というのを教えてください。
【回答】ロケンローラーは洗車をしない。
【回答】大阪人は判りやすい小ネタを数打ちゃ当ると連発する。
【回答】お調子者は大喜利をする。
【回答】美人局アナは筒を持たせる。

●大喜利・電話線編●

【出題】ファックスの粋な使い方を教えてください。
【回答】トイレットペーパーがない時に白紙を送ってもらう。
【回答】電話でもチャットでもセックスができるなら、ファックスでできないはずはない。とりあえず下着を脱いでコピー機にまたがってみる。
【回答】漫画喫茶、インターネットカフェに対抗してファクシミリカフェ。
【回答】無視する。
【回答】仮想敵としてみる。
【回答】入学試験でファックす持ち込み可とする。
【回答】ジャッキー・チェンなら武器にするんじゃねえかなあ。紙を打ち出しながらこう……。

●大喜利・呼びかけ編●

【出題】時折新聞広告に「母死んだ。すぐかえれ。兄」などという、広告が掲載されますが、あなたが見たのはどんな個人広告ですか。
【回答】もうおまえには頼まない。
【回答】子供が生まれる。みんなから500$もらう。
【回答】スペインでは雨は主に荒野に降る。
【回答】お酒とくすりと仕事と恋愛をやめたら解決しました。
【回答】改札口でうさぎ飛びをしていること。
【回答】お父さんタワシが生まれた。みつこ

●大喜利・スウィート・メモリー編●

【出題】いますぐ会いたい。どうしていいのか分からん。今から行くけど会いたくないなら電気消しててくれ。それはともかく、次の文章は小畑賢一君(七歳)のある日の日記です。
「今日、とびうおに、はいりました。」
翌日の日記を書いてください。あ、電気消えてる。
【回答】朝顔のつるに巻かれる棒になる。
【回答】そうです。新たです。不退転です。日々精進です。
【回答】まるでもうお前は赤犬。
【回答】厳寒の八甲田山で死の行進を続ける苦難。
【回答】パジャマを着た鎌倉大仏が歩いているのを人気のない白昼の住宅街で見かけたのです。
【回答】顔に訂正印。
【回答】士農工商をはっきりさせる。

●大喜利・ケンタッキー編●

【出題】まだ生きるの? それはともかく三丁目のカーネル・サンダース人形は三ヶ月に一度程度の頻度で一週間ほど姿を消しますが、何をしているか教えてください。
【回答】ハウスマヌカン。
【回答】尻文字で源氏物語を朗読。

●大喜利・ビッグ・ボール編●

【出題】非常に自己中心的なのにも関わらず、一般に肯定される目的があります。それが「健康の為」です。くそ食らえだ。自動販売機の中に、そのメーカーの社員が入っている事は昨日のニュースでもやっていましたが、では、都市でよく見かける丸い大きなタンクの中には何が入っているのでしょうか。
【回答】メランコリー。
【回答】ソープランド。
【回答】エレベータの「閉」ボタン。
【回答】貧しい国から騙されてさらわれて来た娘がとりあえず連れて来られる。
「ここはジャパンよ、ここからがジャパンになるのよ」
「そうここがジャパンなの……ジャパンは暗いわね」
【回答】ストーカー。

●大喜利・保存活動編●

【出題】「もう随分前、この学校に入ってすぐだったけど、あたしね、尻尾をとられてしまったの。引き千切られたの。尻尾の代わりに羽根が生えてきた今でも、無くなった筈の尻尾が疼くことがある」それはともかく。自分は牛食ってるくせに「犬食うな」だの「鯨食うな」などと理不尽な事を言う輩が跡を絶ちませんが、日本人の根こそぎ漁業もひどい物なのであまり堂々と反論する気にもなりません。ところで、最近捕獲禁止運動が始まった意外な物とは。
【回答】ブーブークッション。
【回答】アーサー王伝説の「ーサ」の部分
【回答】のりしろ。
【回答】会社名が、「有限会社」+「社長のフルネーム」+「商店」。
【回答】世界一不安定で世界一売れたOS。

『軽挙妄動手帳』

●不定形俳句●

『奇妙倶楽部』

●世界虚事大百科事典●

キリスト教太極派

 復活を果たしたイエス・キリストがシルクロードを渡り、中国で太極思想、および太極拳を産み出したと信ずるキリスト教の一派。中国可南省に1,500人ほどの信者がいる(2001年)。彼らに寄れば、イエスは復活の後に昇天したのではなく、現在の中国山西省に渡って教えを広め、その地で昇天を果たしたという。太極思想における、太極から陰と陽が生まれる、という思想は父と子の交わりとしての精霊、すなわち三位一体の思想に対応すると主張される。太極拳こそがキリストの愛の身体的表現であると信じ、一般的な聖体(聖別されたパンと葡萄酒がキリストの肉と血であるという思想)を否定する。彼らの教会では太極拳を行う事がミサであり、日曜日には大勢の信者が集まって太極拳を行う姿が見られる。
 太極拳各派はこれに猛反発しており、特に現在の太極拳の源流といわれる陳家太極拳の一部では反発が強く、ある道場が太極派教会と揉め事を起した事もあったが、道場の者が右の頬を叩くと教会の者は左の頬を差し出すので喧嘩沙汰にはならなかった。

聴山渓(ちょうざんけい)[温泉]

 北海道中央部、上川支庁管内花王町の南部にある温泉。石北本線留守庵手足(ルアスンテタリ)駅より留守庵手足川およびその支流ポンアスンテタリ川沿いにさかのぼって21km、美本山岳山麓の標高1030m付近にある。明治末に源泉が発見され、泉質は重曹泉、泉温46℃。アカエゾマツの純林に包まれた閑静な温泉郷に町営旅館が1軒だけある。呼び物は湯車琴(ゆぐるまごと)という一種の楽器で、露天風呂から溢れ出て下にある川へと流れ落ちる湯筋が木の板を叩いて音を出す。木の板は水車に取り付けられていて回転し、長さの異なる板が次々に移動して来て異なる音程の音を出しメロディを奏でる。水車は三台あり、交互に音を出したり、同時に鳴って和声を響かせたりする。それぞれに大きさが異なるので、回転するごとに音の組合わせがずれ、同じメロディや和音が続く事はなく聞く者を飽きさせない。また、涌き出す湯の量によって音の強さが変化し、水車を回す川の水量によって曲のテンポが変化する。日本に数少ない聞く温泉である。

IMI

 正称は Imperial Mummys Industries Ltd.。イギリス最大、世界でも有数の総合木乃伊(みいら)メーカー。生前の本人の希望や遺族の依頼に基づいて死体を木乃伊化して長期保存可能にする事を本業とする。木乃伊化の目的の多くは遺族が遺体を手元に置いて故人を偲ぶためだが、希に古代エジプト人同様復活を信じて肉体を保存しようとする者もあるという。本社ロンドン。1926年12月、ドイツのイーゲー・ミルラ社の設立に対抗して、イギリスの四大葬儀会社ブリティッシュ棺、ブランナー墓石社、葬式インダストリーズ社、ユナイテッド葬儀社が共同出資して誕生した。その後、イギリス連邦全体の総合木乃伊会社として発展し、剥製、真空乾燥木乃伊、プラスティネーション木乃伊などの画期的新製品を開発した。
 剥製はいったん死体全体の型を取って複製を作り、その後に死体の皮を剥いで防腐処理をし、複製の上に被せる技術。1933年、それまで石膏などの硬質素材で作られていた複製を綿やゴムなどの軟質素材に替える事で皮膚の弾力を再現し、木乃伊に自由な姿勢を取らせる事を可能にした。これにより、女性木乃伊へのペニスの挿入が可能となった。また、1939年には伸縮チューブと水圧ポンプを内蔵する事で男性のペニスを勃起させる事も可能となった。パートナーを失った夫婦や恋人に喜ばれる一方、スコットランドのある娼館でこの種の木乃伊が人件費も生活費もかからない娼婦や男娼として利用されていて問題となった。
 真空乾燥は食品の乾燥などと同様真空(減圧)下で乾燥する方法。乾燥度が高く、紙のように軽い木乃伊を作る事ができる。壊れやすいのが欠点で、表面に樹脂を塗って補強するのが一般的である。
 1950年代に入り、ICI、ブリティッシュ・ケミカル(BC)などの化学工業会社が木乃伊部門に進出してきたこと、EC の成立によりヨーロッパ大陸市場から締め出されたこと、アメリカ企業の進出が活発化してきたことなどにより、IMI の成長力は落ちた。60年代には積極的な設備投資により、設備のスクラップ・アンド・ビルドと大型化を進めたが、イギリスの EC 加盟の遅れにより売上げの増大が思ったほどではなかったため、目立った成果をあげることができなかった。さらに、73年、79年の2度にわたるオイル・ショックにより、主力製品である化学処理製品の需要が低迷しているのに加え、1970年代後半に積極的な生産能力増強投資を進めてきたため、78年に利権をもつ真空乾燥木乃伊の生産が開始されたものの、苦しい立場に立たされていた。そこで、81年には BC 木乃伊社(BC の子会社)との間で互いの不採算部門を交換することで合意、剥製部門を BC の凍結乾燥(フリーズドライ)部門と交換することになった。
 このような厳しい経営状況を打開したのがプラスティネーション木乃伊である。プラスティネーションはドイツ・ハイデルベルク大学、グンター・フォン・ハーゲンス博士が1977年に開発した技術で、人体組織の水分を抜き取り、代わりにシリコンなどの樹脂を浸透し固める死体保存技術である。死者の姿が生前そのままに保存され、空気中に放置しても半永久的に変質せず、腐敗する事も悪臭を発する事もない。剥製と異なり、内臓や筋肉などの組織も完全に保存されるので、オプションで理科教材の人体模型のように身体の一部を取り外して内蔵や脳などを見る事かできるように加工したりする事ができた。また、しまって置くのに便利なように、身体をいくつかの部分に切断し、必要に応じて組み立てられるようにもできた。プラスティネーション木乃伊の欠点は、硬質化してしまうために姿勢が変えられない事であったが、IMI の技術陣は主要な間接部分に球体間接を埋め込み、軟質の高分子素材で覆う事によってこれを可能にした。また、性器とその周辺のみを別な技術で処理して組合わせ、性交も可能にしている。
 1996年、ロボット技術を組合わせ、動く木乃伊、喋る木乃伊を開発した。更に歩く木乃伊を作ろうと日本の本田技研に共同研究を打診しているが、本田はこれを拒否し続けている。
 世界40ヵ国以上に製造拠点をもち、輸出を含めた国外売上高が全体の約80%を占める。売上高9億ポンド(20001年12月期)。

井沢藍子 1948‐

 イスラム信者(モスリム)・井沢誠の妻。旧姓三田。井沢誠の最初の妻直美の死の直後婚約し、埼玉女子短期大学入学後結婚した。結婚当時誠は58歳、藍子18歳であったと伝えられている。井沢誠は生涯に10人を超える妻を迎えたが、藍子は実質的に最愛の妻の座にあった。弁舌に巧みで入学後半年で短大生の半数をイスラムに入信させた。1968年にはイスラムの立場からベトナム戦争、日米安保、産学協同体制などに反対して学生運動に加わり、全共闘イスラム派を名乗った。同年九月、夫の妻たちを学内に招き入れ、短大をバリケード封鎖した。短大内は若い女性イスラム信者(ムスリマ)の隔離施設となり、男性の目のがないため彼女たちはベールを脱ぎ捨て、夏場は常に全裸で暮したという。周囲の説得に対し、女たちは頑強に抵抗したが、イスラムの断食月に警官隊に踏み込まれて鎮圧された。これ以降藍子は運動に関与しなくなった。井沢誠は彼女の膝の上で息を引き取り、彼女の部屋に埋葬された。全裸ですごす開放感が忘れられず、夫の死後は再婚せずに、他の妻や同窓生とともに信仰を捨ててストリッパーとなり、その金を元手に沖縄県慶良間列島の一島にヌーディスト・ビーチを作り、現在もその地で一糸まとわずに半農半漁の生活をおくっている。

セクシーシャドー

 女性器や乳房のまわりに塗って陰影をつけ立体的に見せるために使われてきた化粧品。現代ではボディカラーとも呼ばれ、陰影だけでなくより色彩を強調するようになっている。女性器の化粧はすでに前3500年ころから古代エジプトやクレタ島で行われており、孔雀(くじやく)石を砕いた緑色の粉末や、硫化アンチモンなどから作った黒いコールで性器の縁や陰毛を彩った。これらは激しい性行為や虫から性器を保護し、性病を予防したり、更には魔よけなどの呪術的目的ももっていた。また、催淫剤を混入することも多かった。古代ギリシア、ローマにもこの風習はうけつがれた。しかし中世から近世にかけてはほとんどみられず、油脂に顔料を配合したセクシーシャドーが作られるようになったのは19世紀後半になってからのフランスで、主としてストリップの舞台用であった。
 日本でも江戸時代中期ごろから遊女が大陰唇に紅をさしていたが、これが遊郭から一般に流行していった。これとは別に山形県には「べっちょ紅」という独自の化粧品がある。俳人小林一茶は妻が床に鏡を置いてその上にしゃがみ込んで性器に化粧を施している姿を非常に品がなく醜悪で百年の恋も覚めると日記に記している。
 セクシーシャドーが日本に紹介されたのは第1次大戦前後、一般に知られるようになったのは1935年ころである。当時は主として夜の化粧用で、日常的に使用されるようになったのは第2次大戦後である。55年ころから種類、色ともに豊富になり、陰毛に塗るマスカラ、乳房を大きく見せるために塗るバストシャドーなどと併用されるようになった。あまり人前で話題にするような物ではなく、店頭でも使用方法について直接的な表現を避けるため、日本ではこのような化粧品の存在を知らない女性も多く、男性はほとんど知らない。

IEU

 intensive excretion unit の略。集中排泄部ともいう。排泄者の体調に関係なく、呼吸、循環、代謝その他のあらゆる身体機能を刺激して排泄を促進する高機能便器と排泄補助のシステムである。ここでは、泌尿器科医師を中心に各専門領域の医師群が高度の知識と技術を集め、多数の看護要員を配置し、強力かつ集中的に排泄補助を行うことにより、その効果を期待するものである。IEU への入室は各施設により一定の基準が決められており、以下に述べるような疾患や患者が適応と考えられている。すなわち、便秘、排尿障害である閉尿患者、排泄管理を必要とする者などである。しかし、死期が迫った末期患者、急性伝染病患者、急性症状のない慢性疾患などは入室の対象とは考えられない。
 かつては、このような排泄は各専門科ごとに行われていたが、より効果的な排泄を集中的に行うには IEU という特殊なシステムが必要となり、日本では1970年代ごろから設けられるようになった。したがって病院内の組織図では、各専門科のように並列して存在するものではない。IEU は、病院長の直接指揮下で、全病院組織と密接に関係する横割りの施設である。IEU の運営は管理責任者となる泌尿器科医師のもとに専属の医師が交代で24時間常駐している。看護要員も高度の看護技術を会得しており、患者2人に対して1人の看護勤務体制が望まれている。病院の構造、規格のうえから、病床数200以上の総合病院で IEU の最少便器数は4床とされている。1床当りの面積は十分広くとり20平方メートル以上が望ましい。空調装置、医療用酸素、圧縮空気、吸引などの中央配管を設置している。機器としては、一般病棟の診療器具のほかに救急蘇生装置、人工呼吸器、肛門マッサージ器、ペースメーカー、心電計、動静脈圧測定記録装置などのほか、放射線装置、血液化学検査などあらゆる検査機器が、緊急時に応じて使用できるような体制がとられている。排泄者の状態の監視記録はほとんど連続的に実施され、観察経過、測定結果、排泄内容、診断、排泄方針などが一見してわかるように整理されカルテに記載される。排泄方針の決定は主治医、受持医によってなされるが、IEU の主任医師のもとで各科専門医師群の間で十分協議されたうえで決められることが多い。診療の直接の責任は、本来の受持医であることも、IEU 主任医師であることもある。
 IEU 入室排泄者の状態が重症であるほど、排泄補助はきわめて濃厚となり、排泄者と家族は絶望的な印象をもつことがある。IEU 主任医師や受持医は、排泄者はもちろん、家族とも密接に連絡をとり、排泄内容をできるだけ詳細に説明するよう期待されている。
 突然厠に入ると厠神が驚くので咳払いしてから入れという俗信のある和歌山県では、入室時に自動的に咳払いをする IEU もある。
 北海道昭和医科大学病院は日本で最も充実した IEU を持つことで知られているが、便秘の治療に来たピアニストの飯島正彦が「うんちをするのにどうしてこんな大がかりな事が必要なのですか。下剤を下さい」と発言した事が医学会に波紋を呼んでいる。

時性(じしょう)

 中国の少数民族スッフ族に独自の時間概念。スッフ族は時間を共有され得る客観的な物とは考えず、一人一人が異なる主観的な時間を持っているとする。人によって一日の長さも、一年の長さも異なっていると考えられているのである。これは、同じような生活をしていても外見が早く老いてしまう者もあれば、いつまでも若い外見を保つ者もある事をこう解釈した事から始まるらしい。スッフ族に独自の挨拶に「いつですか」という物があり、こう聞かれたら「若造です」と応えるのが礼儀とされる。
 このような時間概念のため、スッフ族に時計がもたらされた時、奇妙な誤解が生まれた。彼らはそれを客観的な時間を計るものとは考えず、それぞれ持ち主に独自の時間を表わす物と考えたのである。今でも彼らが作成し使っているゼンマイ式の時計を持って、スッフ族の者はこう言う。「だって、時計はみんな進み方が違うじゃないか」。実際には彼らの作る時計の精度が低いために進み方がばらばらになるのであるが、彼らはそれを固有の時間の現れだと信じている。
 スッフ族の女性は妊娠に気付くとすぐに時計を作り始め、臨月になると時計のねじを巻いて腹に当て、その音を胎児に聞かせて出産を待つ。これが赤ん坊に固有の時計となり、物心付いた子供に最初に教えるのが時計のねじを巻く事である。ねじを巻くのを忘れ、時計が止まってしまうと、持ち主の時間も止まってしまい、その間にやったことは全て無駄になると考えてこれを怖れる。また時計が壊れるとその持ち主の時間も壊れると考えられ、修理ができるまではその者の時間は動かないと考えられており、修理が終るまで一切の社会活動への参加を拒否される。時計が修復不可能なほどに壊れたり、火事などで焼けてしまうと、新たな時計を作り、持ち主は人生を最初からやり直さなければならない。すなわち、再び幼児となって這い回り、言葉や常識を学び直す。時計導入後の新しい挨拶として「私は今二時です」「そうですか私は八時半です」という物がある。
 スッフ族はお互いの相性を判断するのにも時計をもってする。時計の指し示している時間と、五行説や干支、九星などを組合わせて相性を判断する事が行われる。縁談においては時計による相性が問題とされる事がある。一般に一時と三時、三時と五時、五時と八時、は相性が良く、一時と二時、三時と六時、五時と九時は相克(大凶)とされた。向かい時刻として時刻が文字盤上で相対する位置にある、零時と六時、三時と九時なども良い相性とされる。それぞれの時計は進み具合が異なり、時間の差も時と共にずれてくるので、同じ者同士でも相性は刻々と変化する。時間の相性は親子の間でも問題になる。生まれた子が病弱、夜泣きなどの時、その原因を父あるいは母と子の時間が合わない事によるとする場合があり、相性の良い時刻に時計を合せる事になる。
 スッフ族は草木が一斉に芽吹いたり、動物が一斉に産卵したりするのを見て非常に下等な事だと思うという。村の外では誰の時計も同じ時間を指しているのを見ると、彼らは大変な優越感を覚えるらしい。

愛人工臓器趣味 AO(artificial organ)phily

 この趣味の持主を愛人工臓器家 AOphile と呼び、それが極端に高じた状態を AOmania、それに取り憑(つ)かれた人間を AOmaniac といい、愛人工臓器狂、人工臓器痴などと訳される。人工臓器利用者と愛人工臓器家とは必ずしも重ならない。また多数の人工臓器を所有しているからといって、愛人工臓器家であるとは限らない。人工臓器業者の場合も考えられれば、医院の在庫、研究用の必要資料にすぎない場合もある。逆に、経済原則に支配される世の中では、愛人工臓器家であっても、わずかの人工臓器しか持ちえないこともありうる。しばしば混同されやすいが、人工臓器利用者・専門医師・研究者と愛人工臓器家とははっきり区別されねばならない。むろん4者が1人の人間の中で重なる場合も少なくはない。愛人工臓器家か否かは、人工臓器収集に「趣味」の基準を持ち込むか否かによって決まる。
 人工臓器は使えさえすればいい、どんな材質で、どんな加工をされ、どんな構造をしていようとかまわないという見方が一方にあれば、人工臓器をそれ自体独立した「もの」として観賞する、すなわちその外的形態、素材、加工、構造などをめで、その造形的美しさ、希少性、保存程度などに人工臓器の価値基準を置く「愛人工臓器趣味」の伝統が、洋の東西を問わず、古くから各国にある。この傾向は、他のいかなる諸国よりもフランスにおいてとくに顕著であり、根強く行き渡ってきた。仮組み立てで出荷される人工臓器を、購入者がそれぞれお気に入りの技術者に発注してさまざまな装飾で装わせ、表面や内部に趣味豊かな美しい図柄を施し、心ゆくまで贅(ぜい)を尽くす精工の伝統が古くから続いている。
 戦前には現在のような、臓器の機能を再現して患者に移植するための人工臓器は存在せず、愛人工臓器趣味といえば、臓器の形態と動きを模倣しただけの模型の収集にすぎなかった。また、義眼、義手、義足なども収集の対象となった。この時期、表面や内部への彫刻、塗装、組み立てなど、臓器模型製作に関する万般の技術は、フランスにおいて最もめざましい発達を遂げてきた。これらの工芸分野において、先進国ドイツ、イタリアから学んだものをさらにいっそう向上させたのである。文化人の間でも、この方面に対する関心が深く、第二次大戦までは、パリで臓器模型関係の本が20冊出版される間に、イギリスにおいてはせいぜい1冊ぐらいにすぎないといわれてきた。名だたる愛人工臓器家・人工臓器収集家の中には、映画監督ジュリアン・デュビビエ、女優マドレーヌ・ルノー、シャンソン歌手シャルル・アズナブールなどの芸術関係者の他、作家、政治家、高級官僚も多数あった。しかし、ヒトラーが装飾臓器模型を好んだことは戦後フランスでは有名となり、美しく装飾された臓器模型を好むというだけで、ファシズムの支持者と見なされ身の危険にさらされる時代が訪れ、愛人工臓器趣味は暗黒時代を迎える。
 経済成長期に入ると、医療用の人工心肺や人工透析器などが多数開発され、愛人工臓器趣味は新たな段階に入り、アンジェリク、ベイラック、メルシエなどの文人愛人工臓器家が輩出し、その指導のもとに、オッセン、ニコラ、ロシュホールらすぐれた人工臓器装飾師が現れ、装飾技術は芸術品の域にまで高められ、またジョフレ、ゲンズブールなど、希臓器・美臓器の収集販売に積極的意欲を燃やす店主も現れ、フランスの人工臓器業界は空前の活況を呈した。
 その後「人工臓器は収集家の物ではなくそれを必要とする患者の物である」という、考えてみれば当然の批判が沸き起こり、この風潮は衰退するが、1990年代にに再び小規模ながら復活のきざしを示すようになり、愛人工臓器趣味の伝統は、絶えることなく今日に至っている。フランスでは土葬の習慣の残る地域での盗掘が問題となっているが、近年では体内の人工臓器を狙った殺人も起っている。

酒井険酔(さかいけんすい)1961‐

 朝礼術の流派、酒井黙(もく)流(単に黙流とも)の祖。伊勢(一説に日向)の豪族の子孫。朝礼とは言うまでもなく、学校,企業など集団としての目的志向の強い組織において、一日の業務開始前に構成員が集合し、人員の確認、指揮者・責任者からの必要事項の伝達、および構成員相互の士気の鼓舞などを行う朝の行事の事である。今日までに朝礼に流派を作ったのは酒井ただ一人である。多摩教育大学卒業後、栃木の中学校で六年間教師を勤めた後、研究のためいったん辞職して教育視察で各地を回り、36歳のとき日向鵜戸の岩屋に参籠して神託を得、朝礼について黙の流を開いたと伝えられる。翌年、過疎地の中学校教頭となり、この朝礼術を実践した。
 酒井の行った朝礼方法は、非常に特異な物で、伝達者は被伝達者と対峙し、数十分間ただ黙って見詰め合う。これで被伝達者は伝達者のメッセージを読み取らなければならない。もちろんそんな事は不可能で、児童たちは酒井から何の情報も受け取らなかった。ところが酒井の方はやがて「子供たちの視線が何を表しているのか判る」と言い始め、参加者が一言も声を発していない沈黙の朝礼の中で、「騒がしくて気が狂いそうだ」と叫んで学校から走り去った。それきり酒井は行方不明となった。誰とも目を合わさずにすむ砂漠に移り住んだのだ、と言う者もあるが真相は不明である。

鯨木氏(くじらきうじ)

 南北朝〜戦国期の伊勢の武家。鵜蘇(うそ)氏、双舌(そうぜつ)氏とも称し、現、三重県度会郡南勢町鋸浦を本拠とした。同地に城・館址がある。出自不明。紀伊国鯰見郡南部荘を本拠とした鯨木氏もいるが、両者の系譜関係は不明。1339年(延元4‖暦応2)宗実が朝明郡萱生竜運を南朝より与えられたほか、同年の「潮田幹景軍忠状」に守護鯨木太郎左衛門尉、『太平記』には鵜蘇伊勢守の名がみえる。
 戦国期、水軍で有名な九鬼一族に仕えて頭角を現した。鯨木塔剣が九鬼犠共に取り入る際「有力な大名は全て肩に矢傷がある。あなたも肩に矢傷があるから必ずや有力大名となるであろう」と言い、犠共を喜ばせた。これはしかし当時の鎧の構造から多くの戦を経験した武将にはたいてい肩に矢傷があったのである。また、代々密かに白子(アルビノ)の鴉を繁殖しており、対立する武将の元に子飼いの巫女を送り込み「白い鴉が現れない限りあなた様は敗れる事はないでしょう」と占って喜ばせておいて、数日後目前に白い鴉を放った。信心深い武将はこれだけで九鬼の軍門に降った。
 これは伝説だが、犠共の息子・威造は織田信長に都合の悪い知見を得た明智光秀に対し「本当の事を言えば信長に憎まれ、嘘を言えば仏に憎まれる。本当の事を言うか嘘を言うかのどちらかである。あなたはどちらにしても憎まれる運命である」と言って追い詰め、謀反を決意させたとも言われる。「黙っている」と言う選択肢を意図的に隠したのである。
 威造は堺の証人から鉄砲を購入する際、相場の二倍の値を付けておきながら、例えば銃十丁に五両の値を付けた場合、
  十(丁)=五(両)
  十の二乗(丁)=五の二乗(両)
  百(丁)=二十五(両)
 という計算式で商人を煙に巻き、大量の銃を巻き上げた。
 威造の息子・管傍は関ケ原の戦いでは九鬼喜隆と共に西軍に付くが、戦闘の前に家康に手紙を送り、いわゆるゼノンのパラドックス「アキレスは先に出発した亀を追い抜くことができない」を応用して、東軍は決して西軍に追い付く事はできない、と言いくるめて家康を混乱させた。
 関ヶ原後は、東軍に付いた九鬼守隆の配下となるが、正直者の守隆にその舌先三寸を疎まれて切腹を命じられ一族は絶えた。

ビヌツステネス 前404‐前342

 古代アテナイの政治家、雄弁家。アテナイの富裕な工業家であった父と幼いころに死別し、後見人による不正行為のために遺産を失ったため、若いころから医師の助手をした。前370年代中ごろから政治活動を開始し、医療法および医療問題に関する演説によって法廷と議会で活躍する。新興国マケドニアがギリシア本土の内紛に乗じて勢力を伸張してくる情勢に対抗し、前371年からの10年間に反マケドニアの立場を鮮明にした。弁論家としてはデモステネスの陰に隠れるような存在であったが、彼を有名にしたのはマケドニアにしかけたある「作戦」であった。
 前360ごろ、彼は三人の娼婦を金で雇い、インフルエンザと思われる伝染病が流行中の村に二日間滞在させた後、マケドニアに送り込んだ。史上初めての細菌兵器といわれている。彼の思惑通り、その伝染病はマケドニアで猛威をふるったが、娼婦たちが完治する前にアテナイに舞い戻ってしまったため、疾病はアテナイを始めとするギリシア各都市でも大流行した。彼の作戦は両国を疲弊させただけで力関係は変わらなかった。
 その後もペロポネソス諸都市を遊説してギリシア再興を呼びかけたが、この時には彼自身が伝染病の潜伏期あり、彼が訪れた地域で次々にこの病気が流行した。これに怒った市民が刺客を差し向けたが、その時には彼もこの病気で死んでいた。
 空回りする祖国愛の典型といえよう。

サウンドガム

 チューインガムの一種。ガムベース自体にはほとんど味付けをしておらず、普通に噛んでも何の味もしない。セットになっているCDを聞きながら噛むとさまざまな味に変化するという触れ込みだった。科学的な根拠は全くなく、味の変化は完全に心因性の物と思われ、はっきりと大きな変化を感じる者と、ほとんど変化を感じない者がいた。1989、90年ころ信州一帯で爆発的に流行した。
 専用のCDで味わえるのは、苺、レモン、などの果物の他、コーヒー、コーラなどの味があった。この他、独自の味を産み出す音を探し出す事が主に子供たちの間で流行し、風鈴は佃煮の味がする、犬の遠吠えは焼き芋、トランペットは納豆などと言われていた。雷鳴は唐辛子の味で、至近距離の落雷では舌が麻痺して半日ほど味が判らなくなるともいう。音楽との対応も探られたが、一般に音楽は音色の変化が激しいため味が混ざり合って美味くないと言われた。逆にガムが美味く感じられる音楽は短調で退屈な音楽と評価された。製造販売元の驚騒製菓株式会社ではFMラジオ番組「サウンドガム・ライブラリー」を週に一度放送し、毎週数種類の味の音を紹介した。
 驚騒製菓はサウンドガムの売上利益で斑尾高原に一種のテーマパークを作った。園内にはさまざまな音が満ち溢れており、ガムを噛みながら歩き回るだけでいろいろな味が楽しめた。呼び物の一つに、グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」に登場するお菓子の家を再現した物があったが、これは完成後一日で家の内外全体を黒い蟻が覆い尽くした。失敗したかに思われたこの企画だったが、この「黒くうごめく家」を見に大勢の客が集まった。家は二週間ほどで消失し、同時に客も途絶えた。同じ物をもう一度建設したが、なぜか前回ほど蟻は集まらず、客も戻らなかった。それに呼応するようにサウンドガムのブームも終わり、驚騒製菓にはテーマパーク建設の借金だけが残った。驚騒製菓は2001年6月に倒産している。

迷子姫

 中国清朝に言い伝えられた伝説の人物。清の太祖ヌルハチは、1618年(万暦46)明に対する七大恨を掲げて明に挑戦し、撫順、清河を陥れたので、明は翌19年楊鎬(ようこう)の総指揮の下に10万の大軍を4方面軍に分け、ヌルハチの本拠である蘇子河畔のヘトアラ(興京)に向けて進発させた。いっぽうヌルハチはみずからの兵力6万の劣勢にかんがみ、各個撃破の戦法を避け、その全軍を蘇子河と渾河の合流点に立つサルフ(醍爾滸)山に集結して、明の主力の西路方面軍3万を迎撃した。  苦戦を強いられるヌルハチ軍に、いずこからとも判らぬ軍勢が突如現れて加勢した。その軍を率いるのは、迷子国王の娘迷子姫と名乗る二人の若い女性であった。軍を構成するのは乞食、売春婦、道化師、歌舞音曲師、呪術師などの得体の知れぬ者ばかり。二人の姫は鬼神のように強かったが、他の者は兵士としてはほとんど無能で武器も持たず、一人の敵を倒すのに十人も二十人も殺される有り様だったが、全く死を怖れる様子がなく、へらへらと笑いながら殺されるので、敵はこれに怯え士気を削がれる事おびただしかった。  迷子姫の軍に背後を突かれた西路方面軍は指揮官の杜松が戦死し、全滅した。次いで明の他の3方面軍もあるいは撃破され、あるいは戦わずして退却した。この一連の合戦は陽暦4月14日より5日間続いたが、明軍が兵力の半数を失ったのに反し、ヌルハチ側は死傷者2000を出したにすぎなかった。そして、数万と伝えられる迷子姫の軍は二人の姫を残して全滅した。ヌルハチは迷子姫に感謝し、褒美を取らせようとしたが、姫たちはこれを受け取らず、なぜか大声で笑いながらいずこにあるとも知れぬ迷子王国へと去って行ったという。この大勝により、清軍は遼東地方に進出することができた。1899年(光緒25)、二人の姫が華北に現れて義和団を率いていたという伝説もある。

◆編集後記◆

 ここに掲載した文章は、パソコン通信ASAHIネットにおいて私が書き散らした文章、主に会議室(電子フォーラム)「滑稽堂本舗」と「創作空間・天樹の森」の2002年4月〜6月までを編集したものです。私の脳味噌を刺激し続けてくれた「滑稽堂本舗」および「創作空間・天樹の森」参加者の皆様に感謝いたします。

◆次号予告◆

2002年10月上旬発行予定。
別に楽しみにせんでもよい。

季刊カステラ・2002年春の号
季刊カステラ・2002年秋の号
『カブレ者』目次