平成18年指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

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木造東照権現坐像(附 厨子) 1躯

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有形文化財・彫刻
福岡市中央区 宗教法人 警固神社

概要

 福岡城下の氏神でありまた福岡藩第二代藩主黒田忠之の産神でもある警固神社に所在します。
 総高74.1cm、像高(冠上)41.7cm。元福岡東照宮の御神体、即ち東照権現(徳川家康)像です。慶安3年(1650)江戸の東叡山寛永寺で開眼し、承応1年(1652)福岡藩新造の東照宮に安置されました。明治維新の神仏分離の際に廃社となり、ゆかりの警固神社に移されました。当初来、境内の小社に祀られていましたが境内整備にともない本殿脇の神饌所に納め、以来二三十年を経、現在に至っています。
 かつて久能山東照宮(静岡県)との間に譲渡の話しが持ち上がりましたが、先方の宮司交替で現在に至っています。

法量・墨書等

 法量
  坐像 像高(冠上)41.7 cm 像高(冠下)37.5 cm 冠上−顎19.3 cm 
     冠下-顎8.8 cm 耳張9.0 cm 面幅7.3 cm 面奥9.8 cm 
     肩張20.2 cm 肘張32.7 cm 膝張85.5 cm 胸厚14.0 cm 
     腹厚17.3 cm 裳裾先−像奥38.7 cm 膝奥19.3 cm 

  上畳 高12.2 cm 幅50.3 cm 奥42.7 cm

  台坐 高20.2 cm 幅57.3 cm 奥46.8 cm 
     漆塗り・金箔・銅鍍金金具(葵紋あり)
     格狭間に唐獅子と牡丹の彫り物 上面四隅と中心に葵紋

  裂  縦80.0 cm 横49.8 cm (裂葵紋)
     外径37.0 cm 内径30.0 cm

  厨子(屋根下)高103 cm 幅91 cm 奥70.3 cm
    (屋根部)高113.5 cm 幅211 cm 奥132 cm

 墨書(厨子背面)「慶安五年四月吉祥日」

時代

  慶安3年(1650)開眼
  承応1年(1652)勧請
    (※ 慶安五年(1652)九月十八日、承応に改元)

形態等

 衣冠束帯の姿で右手に笏を持ち、左腰に太刀を佩く(柄部分欠失)。黒色の袍に徳川氏の家紋である「三つ葉葵の紋」が膠を多く含ませた濃墨かと見られる技法で描かれています。鮮やかな三段重ねの繧繝縁の上畳に坐り、須弥壇様の台坐の銅鍍金の金具には精緻な葵紋が打ち出されています。金襴の御簾は織りと刺繍で華麗にデザインされ、その年代は寛永期(1624-1644)〜寛文期(1661-1673)が推定されます。  

指定理由

 福岡藩第二代藩主黒田忠之が承応1年(1652)に荒戸山に勧請した東照宮(東照権現=徳川家康)のご神体です。
 福岡東照宮は慶安3年(1650)荒戸山に東照宮を建立することを幕府へ願い出、先づ山中山下に在った金龍寺其外の諸寺を西松原に移し、山上を引ならし基を定め、三年を経て東照宮営作は成就しました。「神殿・拝殿尤美麗なり。玉垣瑞籬(いがき)・神厨(みくりや)有。佛堂有。廻廊長くひろく石階高し。諸品造作残る所なく皆備れり。」(『黒田家譜』)と伝えられています。
 東照権現御神体の開眼は慶安3年(1650)、江戸の東叡山寛永寺でおこなわれ(『筑前国続風土記附録』)、承応1年(1652)5月1日新船三光丸に奉戴され福岡に着きました。一端福岡円応寺の仮宮に安置した後、同5月17日遷宮が行われ、ご神体は神殿に納められました。
 本像は福岡東照宮が明治維新の神仏分離の際に幕府を崇敬する施設として廃社となり警固神社に移されたものです。その間の経緯を『福岡県地理全誌』(明治8年〔1875〕〜明治13年〔1880〕)は「明治元年戊辰ニ、社ヲ廃シ神体ハ薬院村警固神社ニ移シ、織田信長、豊臣秀吉二公ト合祭ル。」と伝えています。警固神社は鳥飼八幡宮とともに福岡城下の氏神であり、また二代藩主黒田忠之の産神でもあり、福岡藩及び忠之ゆかりの社に移されたものと考えられます。
 家康画像は慶安2年(1649)の表装修理銘があるものを古いものとして(京都大学文学部博物館蔵)間々見られますが、彫刻としては慶長6年(1601)製作とされる芝東照宮の他一般には知られていません。
 本像は幕藩関係を物語る資料として、また実見できる稀少な東照権現の御神体として、本市にとって貴重な歴史的・文化史的価値を有します。