今津人形芝居について

平成10年9月6日(日)午後3時より

登志宮境内特設野舞台
(福岡市西区今津1570)

寿式三番叟

傾城阿波の鳴門

伊達娘恋緋鹿子

絵本太功記

《主催》

今津人形芝居保存育成事業実行委員会

hassaku 三番叟 傾城阿波鳴門1 傾城阿波鳴門2
絵本太功記 伊達娘恋緋鹿子1 伊達娘恋緋鹿子2 挨拶

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今津人形芝居について

昭和29年5月15日福岡県指定

 今津の人形芝居は、明治24年3月、もと隣村大原にあった大原操人形の諸道具一式を譲り受け、恵比須座として創設されたものです。大原操人形は、弘化年間(1844〜47)、村の若者の間に流行していた賭博を止めさせようと、地元の有力者鯛川弥蔵が、当時この地方を巡業していた阿波や中津在の北原人形芝居を採り入れたのが始まりとつたえられています。主として若者組によって演じられていましたが、若者組を退いた壮年たちの繰人形に対する想いは絶ち難く、遠賀郡の田中新十から道具一式を譲り受け、若者組の旧座に対して新座を結成しました。かくて新旧二座が互いに技を競い合うという大原操人形の全盛期を招来しましたが、半面その対立が村の平和を乱すこととなり、遂には村の有志等の協議により人形芝居を廃止することになりました。当時、今津から大原に通って人形芝居の仲間に入っていた宗善次郎がその廃絶を惜しみ、今津の人びとを説得、両座の人形道具一式を買い受け、新たに今津繰人形として恵比須座を結成しました。
 恵比須座は太夫5〜6名、人形遣い20名、学校休みには少年も加わり、日露戦争ごろを最盛期として、糸島郡内はもちろん、福岡市内、早良、筑紫、粕屋郡などのほか、県外にも招かれて好評を博しました。人形は阿波・北原と同じく三人遣いで、かしらは中津製が多く、天狗久の作も混じっていました。人形遣いをはじめ、浄瑠璃・三味線はすべて地元の人びとによって行なわれてきました。第二次大戦中は一時中断されていましたが、終戦後の昭和23年、大原の石田巌がその廃絶を惜しみ、今津の中村恒雄・重松義雄等と、恵比須座を復興、今日に至っています。
 現在保有している道具類は、大原操人形の新旧2座分で、かしら約50個のほか、衣装・大道具・小道具多数、それに三味線・太鼓・笛・鐘・鼓などの楽器があります。昭和30年代ごろからは、青年層の都市流出や娯楽の多様化などで一時衰退に向かいましたが、今津人形芝居の存続に熱意を燃やす経験者数名の指導によって、子ども会を中心に稽古が続けられ、その結果、現在17〜8名の高校生・青年の人形遣いが育っています。演目は、全盛期には、「本朝二十四孝勘助住家の段」「仮名手本忠臣蔵勘平切腹の段」「傾城阿波の鳴門戸順礼歌の段」など約20種ほどを数えていましたが、現在主として上演しているのは、「傾城阿波の鳴戸順礼歌の段」「忠臣蔵三段目裏門の段」「鎌倉三代記三浦別れの段」等です。


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