新羅郡・高麗郡 05.01.01
新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
大晦日は急に夜勤で戸田市近くの高島平に泊まることになりました。ちょうどよい機会なので近くの志木市に行くことにしました。志木市から新座市にかけては、かつて奈良時代中期に新羅人の移住とともに、新羅郡が開かれた場所であります。さっそく夜勤明けの元旦は早朝から東武東上線に乗って志木駅にて降りました。志木駅から真北に1キロ程度ゆき、荒川に出る手前の富士道を右折すると敷島神社にでます。この敷島神社は、由来によるとこの地にあった浅間神社、水神社、星野稲荷、村上稲荷が明治時代に統合されてできた神社だそうです。主神は浅間神社同様の木花開耶姫神で、境内には「田子山富士」と呼ばれる古墳を改良してつくられたという富士山の形をした富士塚があり、1340年代の碑文もそこに立てられています。富士山信仰が見て取れたのですが、ついでに近くの御岳神社に向かって富士道歩いていくと、荒川に出てその側道を歩いていくうちふたたび敷島神社裏口に出てしまいました。敷島神社そのものは荒川に沿っており、晴れた日には荒川土手から富士山がよく見えたのでしょう。
その後、敷島神社からすぐのところにある寶鐘寺に行き、志木駅に戻り帰宅しようと思い東武東上線に乗り朝霞台駅でJR武蔵野線に乗り換え、新座駅に立ち寄ってふと西方をみ
ました。するとまっしろに色づいた富士山が大変大きく快晴の中に見えたのでした。新座周辺は平坦でさえぎる山も近くにないのでよく富士が見えるようです。現在作成中の2004年度渡来人研究会年度末研究報告でも関東高麗郡や鹿嶋、諏訪、伊勢からみた富士山の角度と距離について考察中だったので、この晴天を機に高麗郡でも富士山がどの方位にどのくらいの大きさでみれるかどうかを確認しに行くことにしました。
新座駅から朝霞台駅に戻り東武東上線に乗って川越駅で川越線に乗り換え、一路武蔵高萩駅へ向かいました。途中西方に向かう電車から富士山の見え方について確認していましたが、富士山に距離が近づけば大きくよく見えるというわけではなく、その地の起伏や周囲の山並みによって見え方も相違し、高麗郡の高萩地区近くになると山梨方面の山腹が富士山をさえぎるようになり、かえって富士山が小さく見えることがわかりました。
さて、なぜ高麗郡での富士山の見え方を確認するのに、高麗川駅ではなく武蔵高萩駅かというと、渡来人研究会の掲示板でのご指摘で高麗郡での
奈良時代の発掘遺跡が高麗神社周辺ではなく、高萩地区周辺に多く見えるとのことで、本来の高麗郡の中心地が高萩地区にあったのではということによります。武蔵高萩駅から北方へ500メートルくらいあるくと駒形神社に着きました。駒形神社はその由来によると、716年に高麗郡に入った高麗王若光によって建てられ、応神天皇、神功皇后を祀っていますが、社記によると猿田彦、武内宿禰も祀ったそうです。また武蔵高萩駅のあたりに釘貫門というのを建て、そこに倭健命なども祀ったとあります。さらに駒形神社は高麗(こま)に通じるとしるされていました。特に掲示板でも話題になっている猿田彦については、高麗神社周辺にも猿田の地名があり、高麗郡設立に関して携わった渡来系集団と猿田彦信仰との兼ね合いがここでも見えるのかもしれません。また釘貫門とはなにかについても気になります。なおこの地から富士山はよく確認できました。
その後、近くの
女影ヶ原の古戦場跡である霞野神社にゆき、そこから女影交差点の南西の位置する女影廃寺跡地周辺をみました。この女影廃寺については、高麗郡設置後にここで瓦が生産され関東各地に伝播させたことが考古学で明らかになっています。そしてその近くの薬師堂に
寄り、武蔵高萩駅に戻り、川越線で高麗川駅へ向かいました。高麗川駅から西方へ向かう途中正午を向かえました。富士山はなお山梨の山並みに半分隠されながらもよく確認でき、太陽の位置する南方から約30度の角度、つまり東西線から60度の角度に富士山が確認でき、2004年度渡来人研究会年度末研究報告での予測どおりに富士山との角度で測量ができたことを示しています。
その後500メートルほどあるいて高麗神社に着きました。高麗神社について高麗川を渡るのですが、先日伊勢の内宮に行き五十鈴川を渡って神殿に行ったのとよく似た構造を思い出しました。伊勢に行った方はわかると思うのですが、五十鈴川とこの高麗川の風景、立地が橋から眺めた感じがまったく似ていることに気づかされます。その後改めて高麗神社に入るのですが、背後に丘を構えやや階段を上ってゆきます。神殿の構造は小さい神社の割りに、神楽殿や客殿,回廊があり、小ぶりながら伊勢神宮や諏訪大社の感じを残しています。しかし、どちらかというと秦氏の本拠、松尾
大社の構造が桂川を渡っていくような立地構造を含めて類似したものがあり、今後の比較が課題でしょう。
この高麗神社からは背後の丘陵があって富士山は確認できませんが、この丘陵沿いを300メートルほど回って高麗聖天院に行くと、その丘の上に立つ本殿からよく富士山を眺めることができました。聖天院の方によると朝方や夕方は色づいてよく見えるそうです。したがってこの高麗神社周囲の地からも、富士山を見ての地図測量が可能であったことが証明されます。
今回は、富士山を見てその方位と角度から距離を測量するということについて、新羅郡から高麗郡にかけての富士山の見え方から確認を行いましたが、新羅郡でも高麗郡でも比較的良好な眺めを通して大きく位置する富士山と、太陽の角度から精密な測量が可能であることが確認できました。また、浅間神社に由来する富士信仰のあり方も見てとれ、さらに高麗郡の中心地と目される武蔵高萩
の駒形神社や猿田の地名から、渡来人と関わりが深く伊勢に本源をなす猿田彦信仰なども確認できました。課題としては、高麗神社の拝殿構造と伊勢神宮との比較分析があり、今年の研究会の課題となりそうです。
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