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渡来人研究会掲示板ログ7

『今年もお世話になりました。』
管理人 2004年12月31日(金) 17:35:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 みなさん、今年もお世話になりました。今年は紀氏さんの茨城から、かわかつさんの宇佐まで、ずいぶん広域の渡来人について考えさせられ、私も走ってきました!!そして各地が密接なつながりをもって存在していることが驚きでした。来年はいよいよ宇佐から海を渡って西遊記の世界に向かっていくのかもしれません?が、またいろんなつながりが整然で出てくることを期待して、みなさんからの情報をお待ちしています。みなさん、よいお年を!!

『RE『いばらの紀氏様へ 』』
いばらの紀氏 2004年12月31日(金) 1:18:14 削除・編集 スレッドの一覧・返信
秦ヒロ さん今晩は、HPを拝見いたし関心いたし良い返事をと考えたら「西遊記」とユダヤのカバラが思い浮かびゲンジョウサンゾウ(3増、3の倍数) ゴクウ(5X9=45・・・・3の15倍・楚ソ人=猿の類、冠をつけている・激しく秦(蜂=土師・栗=刳り木地師雉?・臼=石工?)を憎む・さる=神道VSカニ・カニシカ王=仏教?合戦 柿の種=華と紀の田根子?=王の後継者?) サゴジョウ(3X5=15・・・3の5倍・カッパ人?) ハッカイ(八堺=国の八方のはて)馬=龍・麒麟?・・・・・・考えがまとまりません・・・お助けをいただければ幸いです。
管理人 さん、2004年度渡来人研究会研究報告アップ拝見いたし感謝・感激いたしております、これからも御指導・御鞭撻のほど宜しく御願いします、「渡来人研究会研究」の益々の発展を御祈り申し上げます。
かわかつさん「渡来人研究会研究」への参加、感謝・感服しております、これからも宜しく御願い致します。   今日もまとまりの無い紀氏でした。


 追伸 2004年12月23日(木) 1:47:49  『干支「酉」は、「鳥」では有りません。』での鉾型(✝の先がUの形)の「✝」は十字架のか形です、サゴジョウの槍に似ている・ニョイ棒=長さを測る器具?・ハッカイの武器=角度を測る器具・・・・・またまた妄想の紀氏でした。  みなさまの御多幸をお祈りいたします。

『来年はいよいよ』
かわかつ 2004年12月31日(金) 0:53:28 削除・編集 スレッドの一覧・返信 私のHPも宇佐へ入ります、そして本拠地・香春へ・・・
今年一年のお付き合い感謝します。来年も下枝さんにとってよい年でありますように!

『RE『伊田ですが・・・』』
管理人 2004年12月28日(火) 3:28:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 かわかつさん、お返事見落としてましたすいません・・・。どうも枝分かれ式掲示板は慣れないです。出雲揖夜神社・揖屋→伊吹山・席田・揖斐郡という「イ」関連から、豊前の伊田まで・・・秦氏と香春岳の関連おもしろいです。なるほど、香春岳のふもとは、まさに秦氏の本拠ですね。以下「豊前の山と伝説」というHPに 香春岳の伝承載ってましたhttp://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html「昔、新羅国の神が渡ってきて、この河原に住む。名づけて鹿春の神と申す」(「豊前国風土記」)
また、南瑞の一ノ岳(南端)には辛国息長大姫大目尊がまつられているというのも興味深いですね。さっき話題にでていた神功皇后(息長足姫)に似た名前ですが、まったく皇后とは別の神としてまつられているそうで、その辺が論点となっているようです。奥がふかそうですね。よくその辺調べてみます。

『RE『知りたいのです。お力を貸してください。』』
管理人 2004年12月27日(月) 16:48:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 朴日圭さんはじめまして。訥祇王の時代の新羅王子未斯欣の倭からの帰還の伝承については、以下のHPで取り上げされていましたのでご参照ください。
http://www9.plala.or.jp/juraku/wao/soki2_2.html#s14神功紀5年の人質の話と対応性があるそうで、三国史記の訥祇二年(四一八)に対応するそうです。
なお、倭の五王の時代は、讃(413)もしくは(421)から武(478)までとなるそうです。
神功紀の王のいない?時代なので倭の五王のどれにあたるかという疑問は鋭い視点ですね。倭の五王のうち、最初の讃と次の珍については日本の誰にあたるかはまだ未解決なようです。去年から神功皇后紀と応神紀への後代伝承の挿入の可能性について考えてきていますが、神功紀で239年倭のヒミコの記載に皇后をなぞらえている部分のように後代の作為性が指摘されています。一方でご指摘の人質記載がある程度正確な年代の記述として、日本側に残っていることについても、その作為性の不十分さを感じますね。もともとある程度正確な事実を記した天皇紀をもとに、ヒミコの年代などを対応させるため年代をずらし、後代伝承を融合していったという感じでしょうか。それでこの人質記載だけが残ってしまったというのでどうでしょう。この辺、いろいろ論議されているはずなので、よく調査してみてくださいね。そのほか木島の地名などについては、みなさんのご意見お待ちしています。ではでは今後ともよろしくお願いします。


『知りたいのです。お力を貸してください。』
朴日圭 2004年12月26日(日) 21:7:22 削除・編集 スレッドの一覧・返信 西暦では425年、新羅の19代王である訥祇王の命を受け、倭国に使臣とし招かれながら倭王に30年も拘束されていた弟王子を救出するため朴堤上という勇者が日本に渡り、渡来人らの力を刈りながら救出に成功して、自分は木島という島で火炙りの刑に処せられる話が、朝鮮の歴史研究所出版の本にありました。5世紀初頭の時代です。日本には関連する資料があるのでしょうか?当時の倭王とは誰を指し、新羅との政治経済文化の関係はどの程度だったのでしょうか?木島は現在のどこなのでしょうか?

『メリー・クリスマス』
管理人 2004年12月26日(日) 6:30:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦ヒロさん、みなさんメリークリスマスです。秦ヒロさんご指摘のHP拝見しました。カッパといえばキリシタン・・平戸の生月町というと、オランダ貿易、キリシタン・宣教師で有名ですが、HP作者も隠れキリシタンの家というのが驚きですね。先週から読んでいる本のひとつに、「キリストの証人」フーベルト・チーフリク著・聖母の騎士社があります。戦国時代から江戸時代初期のキリシタン迫害の時の殉教者についての記録ですが、戦国武将や幕府と宣教師とのかけひきなど大変驚かされるとともに、殉教者の持っていた信仰への誠実さに、大変こころ打たれる本なのでぜひ読んでみてください。
あと、2004年度渡来人研究会研究報告アップし始めました。アドレスは以下のとおりです。作成中ですがご意見募集しています。よかったらごらんになってみてください。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/2004houkoku.htm

『いばらの紀氏様へ 』
秦ヒロ 2004年12月25日(土) 1:23:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信 皆様、始めまして。秦氏の御話など色々と楽しく拝見させて頂きました。そんな中で同じ意見の方を発見しました。それは紀様のカッパの話です。下記HPを御覧下さい。
http://mypage.naver.co.jp/mohmoh/suijin.html
水神様を調べている方のHPなのですが田平町のガワッパという部分を読んで頂きたいのです。海外から来たカッパの話なのですが、実は、カッパドキアから渡来した民の事では?と思うのです。10支族はユダヤから離れた後、近隣にいて、そこでキリストの生誕没を見て、その後、ユダヤ色の強い儀式風習を持ったまま日本へとやって来たのではないでしょうか?ちなみにカッパが相撲好きなのも神様とユダヤ祖民ヤコブが相撲で戦い勝ったのでイスラエルという名前を賜ったので、それにより相撲が民族の誉れになったからだと思います。補足意見としていかがでしょうか?

『韓国神社・・・』
管理人 2004年12月24日(金) 5:30:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 サンジさんはじめまして。かわかつさんこんばんは。からくり神社、嘉羅久利神社、韓国神社、辛島氏・・韓の地名、山陰にはやはり多そうですね。「サロン吉田山」さんのHPの「出雲の中の朝鮮文化」のページ
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/tripizumo3.html
に詳しくその辺載ってました。そのページに載っている揖夜神社と韓国伊太氐神社の関係気になりました。揖屋というところにあるそうなんですが、先の伊吹山から席田・岐阜の間に、揖斐郡という地名がありますね。「揖」の字と渡来人の関連どこかで見かけたような・・・。
かわかつさんのHPアド早速変更しておきました。デジカメ相当よく撮れてますし、かなりいい画質、レンズのような気がします。先日の佐田神社と周辺の巨石群の関係、見てみると非常におもしろいですね。佐田明神・猿田彦と石造職人との関係、出てくるような予感がしてきました。楽しみです。


『伊田ですが・・・』
かわかつ 2004年12月25日(土) 19:36:45 削除・編集

『からくり神社』
かわかつ 2004年12月24日(金) 5:0:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信 嘉羅久利神社、島根県能義郡広瀬町、祭神・五十猛命、スサノウ命・・・豊前の辛島氏と同じですね。
ちなみに出雲には韓島神社もあるようですね。

管理人さん、申し訳ないですが私のHPのURL、新しいのにしといてくださいませ。こっちからリンクしといてあつかましいんですけど・・・自分のことは気になるかわかつでした。(紀氏さん風なエンディング)

『出雲国』
サンジ 2004年12月23日(木) 23:55:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信 出雲国って、渡来人の文化が残っていませんか?
そういう疑問で少し調べただけで面白い言葉
見つけました。カラクリ(加羅久利)って名前の
神社が島根県安来市にあるみたいです。
 機械仕掛けのことをカラクリ仕掛けといって
ましたがこれが語源のようです。また加羅=韓
であることは間違いないでしょう。


『ヤタノカラス、測量、伊吹山、席田郡』
管理人 2004年12月23日(木) 22:18:35 削除・編集 スレッドの一覧・返信 さてさて、ヤタのカラスのお話、紀氏さんご指摘のように測量士のあだ名として考えて見てもいいのではと感じます。諏訪ー鹿嶋レイラインについて調べていますが、そこそこ有名なようで、以下の百瀬直也
氏のHPに詳細分析掲載されているのでご参照ください。
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/LL-SuwaKashima.html
諏訪神社と鹿嶋神宮の緯度が北緯35度58〜59分に同緯度位置しているということなのですが、この1分以内でまっすぐに東西ラインを引くというのは、まさに知恵あるカラスが空から線を引いたような感じがします。測量士の技ですね。
紀氏さんご指摘の鳥から酉→酒:入れ物(祭器・呪具)は三本足の器(鼎状のもの)三本足ということから鳥(足の指が3本)が当てられたのかと 言われているとのこと、また酒甕が測量の目印とされたこと、ヤタノガラスとのかかわりでおもしろそうですね。ご指摘のように銅鐸を測量の器具とする説もいろいろあるそうで、以下の「出雲から世界へ」というHPに掲載されていましたのでご参照ください。
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-5.html
測量のありかたについてはいろいろあるようですが、天智の時代の測量遺跡や器具とか、北極星と北斗七星の角度を大きな柱かなにかで計る手段が有効だったのではと感じます。
さて、かわかつさんご指摘の滋賀県と岐阜県の県境の山、伊吹山が息長帯姫の故郷であり、またたたらのあったところで、鍛冶、修験の土地でもあったとの件、私もおととい別のことで伊吹山につきあたりました。
駿河から尾張にかけての渡来人について調べていたのですが、昨年高麗郡建郡の分析の際に、その先年の美濃国席田郡設立に際しての新羅人の記載について書いたのを思い出しました。そこでもう一度地図で確認したのですが、かなり美濃のうちでも近江のその伊吹山に近いところに席田郡があることに気づきました。また席田の位置は伊勢の経度136.39から真北に位置し、同じく136.39度に席田の地名がありますね。そこでやはりこの地に新羅人を集めたという715年の事例も諏訪→高麗郡→鹿嶋ライン同様、伊勢からの方位が関係しているのではと思いました。渡来人をこの時期特定の場所に集める論理には、やはり測量と方角が深く関わっていると感じます。かわかつさんご指摘の伊吹山周辺の渡来人、製鉄と関わりかねてから、近江の真野・神崎地域から茨城の真野里への渡来人の移配は先日も触れたとおり有名なところで製鉄との兼ね合いも考えられているようです。その地の製鉄との兼ね合いも考慮して、やはり掲示板で論議にあがった伊吹山を考えると、矢板泉町の井吹里を「せんぷうり」と朝鮮音で読ませる件、近江伊吹山→茨城矢板井吹里:製鉄渡来人移動ラインで線をひけそうな感じがしてきますね。あと、かわかつさんご指摘の宇佐辛島氏が祭る泉社と石段式禊場との関係不思議ですね。石段式禊場について、大小さまざまですがいろいろ分析してみましょう。


『過去のレスに』
かわかつ 2004年12月23日(木) 18:54:48 削除・編集 スレッドの一覧・返信 すでに同様のことが書かれていることに気づきました。しかしまあお許しを。考えてみれば、冶金、製鉄は当時唯一の重工業であったわけで、おそらくここから様々な権力が派生していっただろうと・・・つまり今につながる経済的効果です。なかには金権政治的なこともここから始まるわけで、生臭いのです。
しかし、修験や信仰といった宗教や、情報処理、スパイ活動、諜報、またそのための呪術や秘術、果ては忍法まですべてここから出てくるわけです。権力は時代を動かしてゆくということですよね。やだねえ。
でもそれが人の生業だったんですねえ、昔から・・・

『どうもどうも』
管理人 2004年12月23日(木) 7:28:14 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、かわかつさんおひさしぶりです!夜勤から帰ってきたら掲示板アイデアいっぱいすごいことになっていますね!これからゆっくり考えてみます!

『ちなみに』
かわかつ 2004年12月23日(木) 6:3:35 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「いぶる」は「燻る」燻蒸のことですが。これも鍛冶関連では?

『ところで』
かわかつ 2004年12月23日(木) 5:58:53 削除・編集 スレッドの一覧・返信 かねがね泉、矢板、井吹里についてはいろいろと読んで参りましたが、こういうのはいかがでしょう。
泉や息吹は鍛冶の関連では?滋賀県と岐阜県の県境の山、伊吹山は息長帯姫の故郷であり、またたたらのあったところで、鍛冶、修験の土地でもあります。この山に関する人名に「伊福部」があります。例の「ゴジラ」の作曲家だった伊福部氏もいますが・・・
矢板も「焼いた」からきているとすれば、焼津などと同じく、製鉄関連の地名とは考えられないのでしょうか?
ヤマトタケルの草薙剣で有名な焼津は砂鉄がとれます。ヤマトタケルの巡行地はすべて砂鉄の産地なのです。もちろん出雲の斐伊川は今でも世界有数の砂鉄産地で、ゾーリンゲンかみそりはその3分の1が出雲の砂鉄で作ってます。
神功皇后の息長帯姫という名も、風を送るたたら・・・ふいごをあらわす名前です。
もしかして、近くに「たたら」という地名ありませんか?
「もののけ姫」見ました?あれに出てくる多々良場、足でふんで風を送っていましたが、まさに「多々良を踏んで」いたのですが、それを比喩で「息が長い」ということになります。辛島氏も乙目とか与曾女などの名がありまして、みな目に関係する。「目」「女」などは「ひとつ目」伝承で鍛冶神をあらわしていると柳田国男が書いています。
製鉄は「とうば」という寝ずの番がいて、一晩中、火の番をするのですが、釜を覗く時は片目で覗くわけで、つまりどうしても片目を痛めやすく、勢い、片目の神様が祭られるのでしょう。例えば「生目神社」など近くにないでしょうか?これも本来は鍛冶の祭る神社であろうとおもわれますので。
なお「いずみ」は「出ず水」で、水は製鉄には不可欠。風・・・旋風と水、砂鉄は鍛冶がこだわるのは当然。参考になりましょうか?

『ヤタカラスで思い出しました』
かわかつ 2004年12月23日(木) 5:26:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん、紀氏さんお久しぶりです。ヤタカラスは鴨氏の神、高鴨あじすきたかひこねのことですね。この神は出雲の大国主の子神ですが、「上ッ記」によればサンカの間では紙漉を伝えたとされているのです。渡来人にはこうした山の民・海の民との関連がどうしてもつきまといますね。彼らも特殊技術を持った人々でした。お椀を造って売り歩く木地師などもやはり特殊技術者で、どうも鍛冶や工人などと同じような出自ではないでしょうか?弓月の君が連れてきた120部の民の中に彼らがいたとは考えられませんか?
先日、宇佐の辛島氏が祭る泉社にいってきました。そこには社殿の裏に池があり、四角いその人造池には石段があり
下に降りて斎戒沐浴するようになっていたのです。その仕組み、形式がユダヤ教の洗礼池そっくりでした。
実はこういう泉は宇佐神宮の若宮の前や、蚕の社の元糺の池、下賀茂神社の糺の池と同型態なんですよ!
中近東あたりの人間が中国に来ていたのは間違いなく、秦氏も彼らの中から優れた人材を日本に連れてきたことも考えられます。飛鳥の石造物のなかにサル石や彫りの深い人物像がありますが、あれは中近東の人の顔ではないでしょうか?ごく少数で、しかも異形であった彼らが素晴らしい技術を持っていたのなら、石像に刻んでメモリアルにしたことは十分ありえます。
もし彼らを、一カ所に集めて住まわせた・・・例えば伊勢に。とすれば猿田彦は彼らだったという可能性すら出てきます。渡会などという意味深な名前、どっかから渡ってきた人々じゃあないでしょうか・・・私は西欧人も必ず来ていたと、やはり思いますね。ごく少数であれば土葬なら骨片すら残らないので、いまだに考古学的発掘が見られないと思いますね。
ところで佐田の映像、できました。「マニアが逝く」で公表しています。
また、新しく「ここログ」「NEW掲示板」作成しました。「WINDOW]からログインしていただけます。
また「歴史サーチ」新着にようやく登録してもらいました。管理人さんのサイト、ありますね。お忙しい時期でしょうが暇があったら拙HP開いて下さいませ。

ところで、

『干支「酉」は、「鳥」では有りません。』
いばらの紀氏 2004年12月23日(木) 1:47:49 削除・編集 スレッドの一覧・返信 今晩はご無沙汰してました。今年も残り少なくなりました、来年の干支「トリ・鳥・鶏・酉・禽」について考えてみました。「古墳のこころ」では、ヤタガラスなどを地理に詳しい渡来系の測量士として描きました。次回作予告「漢字のこころ」の中で甲骨文字からの漢字の論理に「古代中国「夏の禹」の治水や測量事業から発生した甲骨文字を多く感じます。
「酉」の字も「鳥居」が「口」を塞ぐ形です。以前お話したと思いますが、「口」は禹の父「魚+系」の姓「口」で酒の甕をも表わしていること述べました。「酉の字は壺の形を表わす象形文字で、酒を意味しています。」や「酉を十二支の「とり」の意味に使うのはいわば宛て字です」とか「酒といっても神様に捧げる聖水としての御神酒で、 その入れ物(祭器・呪具)は三本足の器(鼎状のもの)。三本足ということから鳥(足の指が3本)が当てられたのかと」 言われています。「田+壽」ウネ(禹ね?)の甲骨文字に「己」に「口」が配置された形が曲がりくねった黄河に配置された「酉」(酒の甕の目標物)と思へ日本での銅鐸や前方後円墳も「酉」(酒の甕の目標物)を模した形と考えています。ちなみに「配」クバルも「酉」+「己」です。「鶏」は時間に関係した役・「禽」キン(禹に似ている?生け捕りにする)で鉾型(✝の先がUの形)にUの中に×の甲骨文字(私は測量器具と考えている)。「尊」は神に「酉」を捧げる形で「酒」とは少し違う、「川」サンズイ(水)が無い。以前お話した「甘」アマイの文字が「口」を塞ぐ形だったことを思い出したでしょうか?(ここでは、述べません)「口」は禹の父「魚+系」黄河の治水に失敗し「川」となり「酉」=「酒」を捧げる(生贄?)  すみません・・・「酉」の文字は年賀状には書かないほうが良いとの考えの方がネット上に居りました。(参考まで) 「西」の甲骨文字は、鳥居が笊の中で体をまるめた形・「鳥の巣の象形」という説もあります「鳥」が西方からの渡来測量士だとしたら日没には巣に帰るでしょうから、ちなみに「巣の古文字は「禽」キン(生け捕りにする)で鉾型(✝の先がUの形)にUの中に×の甲骨文字に似た形をしています。・・・・・・・今の私は漢字の数の多さにヘトヘトです・・・・  そうそう 「コルウス・カルウス(カラスの学名で、カルウスはラテン語で禿はげ頭を意味する。)」と有りました、やはりヤタガラスはキリストかユダヤ教の僧の関係では?自己嫌悪の紀氏でした、おやすみなさい。 

『RE『井吹里その後』』
管理人 2004年12月17日(金) 5:16:51 削除・編集 スレッドの一覧・返信 NOVさん、おひさしぶりです。私も先日矢板までお邪魔し、井吹里のこと思い出してました。ご指摘の『伊夫里』の件ですが、ご指摘のHPを読むかぎり紀伊の紀ノ川のほうの地名の話のようですね。いぶりの語音だけでいくと、北海道にも胆振と書いてイブリと読ませたりするケースもありますが、泉町の場合はどうなのかなと感じます。先のご紹介しました小林勇一さんのサイトhttp://soma.acrweb.com/kashimamanogimonizumi1.htmの中に記されている、福島・栃木・茨城に共通するという、泉、真野、真吹などの語音を持つ地名および、その製鉄に関連する渡来系集団の移動に関してのほうが、矢板の泉、井吹里の語音の発生に関係するのではと個人的に感じますし、実際泉町から製鉄遺跡もでているそうですし、渡来系と思しき墳墓も出ているといいますから・・・。またご指摘の「泉」の地名がもともと「和泉」という表記がなされたとの点は興味深いです。泉町周囲の上河内郡という地名と和泉の地名が、やはり畿内の河内、和泉の連関を思い出させるのですが、偶然でしょうか・・・。もし奈良時代に河内郡と和泉という地名が共存していたならば、その偶然的に河内と和泉の地名が発生する確率は、0.00・・パーセントではないかと感じます。とはいえ、真野郷関連は近江の伊吹山との関連でも論点が掲示板であがっていたものですから、はてさて河内和泉と近江では距離がありますし・・・・。ともあれ井吹の語源なかなか難しそうですが、組み合わせ論で、今2つの語音の組み合わせで類推していますが、泉+井吹+丸々という形でもうひとつくらい共通語源要素が組み合わさってくるとおもしろいかなと感じます。



『井吹里その後』
NOV 2004年12月17日(金) 3:50:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 (せんぷうり)と朝鮮風に読むか、『伊夫里』の変訛とみて、素直に(いぶり)と読むか。
当地「泉(いずみ)」はかつて「和泉」、「小泉」とも表記されていた。「井吹里」は一種の「美称」なのかもいれない。
以下のサイトで、渡来人との繋がりが霞んでしまいました・・・。
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「飯降(いぶり) 『和名抄』伊都郡の公郷の一つ「指理」がこの地に比定され、中世には「揖里」「伊夫里」など多くの表記がみられる。『続風土記』は「伊夫里は槭(いひ)入の義なるへし」と考定し、堤に水を通す樋入りから起こり、イヒイリ→イヒリ→イフリへ転訛したとする。紀の川を堰いて田地に水を灌ぐために槭を入れたことに由来し、一のゆり(圦)二のゆりの呼び名が当地にあって、イブリもこれによるとするが、詳細は明らかでない。」
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↓ http://www.kkr.mlit.go.jp/wakayama/kinokawa/history/chap3/2_2.html


『いよいよ年末ですね』
かわかつ 2004年12月17日(金) 0:46:7 削除・編集 スレッドの一覧・返信 最近また古墳巡りにはまってしまい、年甲斐もなく軽装備の山歩きです。来年の4月に佐田の米神山の「巨石祭」にいって登山しようかと考えてます。若い宇佐神宮の巫女さんの踊りでも見て、気ばかりは若返ろうというわけです。
山頂の環状列石など、奇岩の数々そのうちお見せできるかも。楽しみにしててください。

『猿田彦、日本書紀』
管理人 2004年12月15日(水) 21:1:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 かわかつさん、今度佐田の写真とかいろいろ教えてくださいね。私も最近は携帯でデジカメもビデオもやってますが、なかなかデジカメでもよく撮れるようになってきましたね。先の日本書紀から中世にかけての諸文書にも、猿田彦やその伝承に由来する伎楽や歌舞いろいろあるようで、猿田彦は奥が深いですね。あと、紀氏さんの「古墳のこころ における高麗神社周辺の方角との測量誤差の理論、いつか後に古代史でも重要な論点になるかもしれません。ともあれそろそろ私も2004年度の渡来人研究会年度末報告を仕上げるため打ち込み作業にかかりそうです。ではでは。

『無題』
みか 2004年12月12日(日) 19:22:51 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人様、質問のお返事ありがとうございました。^^

『読んでいただいて光栄です』
かわかつ 2004年12月12日(日) 13:48:16 削除・編集 スレッドの一覧・返信 佐田が猿田彦に関連すること、ご存じでしたか!あそこへ行くと三叉路になっていていつも猿田彦とアメノウズメを思い出すんですよ。ここの近くの米神山もそのうち写真でご紹介します。なにしろデジカメ最近買ったもので、これまでいったところすべて行き直してるもので手間がかかって・・・

『佐田大神、諏訪→高麗神社→鹿嶋』
管理人 2004年12月12日(日) 12:58:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 かわかつさん、小説読みました。時代劇の台本みたいな感じで迫力ありました。寒田氏の古代からの流れ、興味深いです。特に寒田氏と寒川神社の関連や、また中で出てくる宇佐の佐田氏とか佐田神社について、猿田彦も佐田の別名をもちますがその辺の関連あるかどうかなど、興味深いです。
紀氏さん先日にひきつづき、あと高麗神社の位置ですが、諏訪神社と鹿島神宮から真東なのに加えて等距離ですね。あそこに神社を設置した意図がわかりました。そこでですが、同じ緯度と距離を確保するのに、どのくらいの精度の測量器具が必要なのでしょう?北極星の角度から緯度を割り出すのかなと感じますが、それにしても例の古墳壁画の星図から緯度を割り出せるごとく、かなり詳細な精度をもつ器具があるように感じます。本HPでも紹介している紀氏さんの「古墳のこころ」、古代日本の測量について詳細記されているので、ぜひみなさん読んでみてくださいね。

『やっと稿了しました。』
かわかつ 2004年12月11日(土) 13:20:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「寒田親将」ようやく書き上げました。一度ワープロで書き上げたものを写していたのですがいろいろあってようやく完了。すっきりしました。

『RE『無題』』
管理人 2004年12月11日(土) 7:46:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 みかさんこんにちは。記紀とは日本書紀と古事記のことで、続紀とは続日本紀のことです。それでは勉強がんばってくださいね(^_^)v

『無題』
みか 2004年12月10日(金) 2:21:36 削除・編集 スレッドの一覧・返信 東漢氏のところに載っている、『記紀』、また『続記』とは、何のことですか?正式名称なのでしょうか。教えてください。
今、卒業論文で、渡来人について調べています。



『飛鳥→伊勢、諏訪→鹿嶋、高麗郡』
管理人 2004年12月10日(金) 1:59:36 削除・編集 スレッドの一覧・返信 かわかつさんのご指摘から、飛鳥宮中から伊勢への移動について調べてみましたが、どうも飛鳥から伊勢のラインは真東だそうですね。それで伊勢を常世の国とかするとか東から昇る太陽とアマテラス祭祀への思想があったらしいとのことですが、伊勢の立地理由は理解できました。斉明紀の飛鳥池にかんする記述で、トカラ人等が招待された庭園での饗宴に関して、伎楽の祖の百済人とか弟子とかがでてきますね。そしてまた伊勢の猿田彦神社に祭られているその猿田彦の天狗鼻の伎楽面と外宮池舞台との関連が気になります。
紀氏さんご指摘の高麗郡→鹿島神宮の真東ラインは、紀氏さんの著作にもでてくるように、やっとその辺理解できました。また諏訪→鹿嶋も真東ですね。
問題は、やはりその方位と立地に関する思想の背後に、どういう思想があるのかですね。斉明あたりから奈良初頭にかけての権力者たちの方位思想について、中国占術なのか、はてさて常世国思想なのか、コスモロジーなのかわかりませんが、ともかく祭殿や宮都造営に関し、まずあらゆる条件を差し置いてまず最優先として方位があったということが事実なようです。
そしてそこにどうして高麗人とかトカラ人とか秦氏とか中臣・忌部氏とか伎楽とかが絡んでくるのかも課題ですね。全国各地にそれらが展開するにあたっては、彼等の思想が各地に伝播する必要があり、当然人の移動もあったことでしょう。どういうことを考えていたのかが課題ですね。


『コスモロジー、宮中→伊勢、忌部』
管理人 2004年12月8日(水) 4:52:17 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、かわかつさん、いろいろ面白い情報ありがとうございます。先に掲示板に紹介した猿田彦関連の本で、猿田彦を雷神やオロチ→さそり座、オリオン座をカラスキの3女神、スバルをアマテラスの5男神として、その星座の移動とともにでてくる方位とか夏至冬至とかとともにできてくる神話の類型について書いてあり、いろんな見方をする方がいるのだなと感じました。また特に、伊勢の外宮と北斗七星との関連や、そのオリオン座を海亀とする思想があるらしいことも書いてあり興味深かったです。紀氏さんご指摘の中国北斗七星に関する伝承とか、神社の方角、天文学と深いつながりのある中国占術などの思想についても、同様にコスモロジーと神話の発生との関係してくるでしょうか。確かに古墳壁画にも星図は多く描かれており、どの辺が日本古来から独自で生成してきた神話なのか、あるいは大陸系なのかの見極めが今後の課題となりそうです。猿田彦伝承についても、どういう経緯で成立してきたのかが気になるところですが、かわかつさんご指摘の宮中から伊勢へ祭殿が移動してきたという伝承については興味深いです。奈良時代以前のある時期に実際に、宮中から伊勢へ祭殿が移動したとすると、当然神殿構造から、祭祀形態、神楽やその道具なども、そうとう宮中から伊勢に伝達したことでしょう。そのある時期の宮中の祭祀を伊勢で保存されているままに、今でもみることができるのかもしれませんね。そういう意味でも、宮中飛鳥池の天皇の禊、庭園祭祀などと伊勢の外宮などでのそれらを比較してみるのも、なにか手がかりをつかむことができるかもしれません。飛鳥池の階段状禊場とか猿石とか、岡上の酒船石から流れる水路とか、確かに道教的で伊勢の神道的なそれとは相違しているのかもしれません。しかし相違していればまた相違しているでそこから出てくる思想も読み取れますし、比較してみることでいろいろわかってくることも多いかもしれないですね。またある時期の宮中祭殿の模倣が伊勢にあり、さらに諏訪のその模倣が残っていて、鹿嶋にも部分的に模倣が残っているとします。そしてどの模倣が一番古い形態を残しているかというのも、解析上重要ですね。ただし、その過程で、逆に模倣しにくい部分、たとえば池や水関連の構造とかもありますから、その辺もよく整理していくべきですね。あと、紀氏さんご指摘の忌部と壬生吉志との関係についてですが、確かに忌部と関係の深い忌寸姓を天武の時代に賜った氏族のひとつに難波吉士氏がいます。この難波氏は吉志集団の長とのことですから、吉志集団と忌部氏との統率関係も注目できるのではないかと思います。7世紀の吉士集団の関東移住の背後に、あるいは忌部系祭祀の移動があったとすると、確かに中臣と鹿嶋との関連とかも、いろいろ点と線で結ばれてくる部分もできてくるかもしれませんね。また忌の字にお告げの意味があるのも、口寄せ系の感じがしておもしろいです。なんとなく漠然とその辺の歴史の流れがみえてきたようですが、だいたいわかっていることを確実にわかるようにするのが、研究の意義のひとつですから、そろそろ詰め将棋に局面が移らねばなとは感じますね。ではまた。



『ありゃ?』
かわかつ 2004年12月7日(火) 0:7:0 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「超マタラ論」のURL間違って書いてましたね。私も慌て者だなあ。紀氏さんよく辿り着きましたねえ。すみません、10とhighwayの間に.が抜けてました。管理人さんごめんなさい!

『伊勢読みました。』
かわかつ 2004年12月6日(月) 23:56:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 猿田彦神社には伊勢神宮に土地を譲与したと書いてあるそうですが、どうでしたか?中尾七平氏の著作にそう書いてましたが、以前は知らずに私見落としたんですよ。
天皇の殿中から伊勢大神を遷宮したのは崇神天皇ですが、これは大和ととび百襲姫が大物主の神霊の怒りを抑えきれなかったためであり、外宮に豊受大神を添えたのも百襲姫という巫女の系譜にある豊受姫によって、遷座の憂き身に天照大神の祟りを畏れたためだと考えます。
天の橋立にある籠神社や、丹後の元伊勢は海部が祭っています。なにがしかのえにしに違いありません。
でも伊勢はいいでしょうねえ。寒くなかったですか?

『「忌」部には古代の裁判的「お告げ」の役割も兼ねていたのでは?』
匿名希望 2004年12月6日(月) 18:47:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ご無沙汰してました、かわかつさん(SOUDASUIさん)『超マンダラ論』今 読み終えました。 マンダラはいつか調べたいと思っておりました、この機会を与えていただき感謝もうしあげます。大変解りやすく解説されていて私の乱雑な頭の中が整理され清清しい気分です 重ねて御礼申し上げます。偶然にも5色(自論:火を表す色 白は灰、黒は墨???)、(青)=青竜=東 (赤)=朱雀=南 (黄)=黄帝?=中国 (白)=白虎=西 (黒)=玄武=北(北極星)、中国の東方南米(アステカなどの文明)にも(青)色を中心にしたマンダラ?・色分け大陸地図?が有り、地球儀を手に(黄)色  中国の裏側・中国の東方南米(アステカなどの文明)は(青)色としているので古代中国人が創った文明では?の妄想に想いをいだき 「易」の太極・両儀・四象・八卦・六十四卦・五行・十干・十二支・九星などの関連を思案していたところでした、『超マンダラ論』に「色彩スペクトルは、次のように教える。つまり、赤の反対色は緑である。青の反対色は黄色である。」には偶然とは思えぬ神のおぼしめしに感激しました。他に「太乙」とは、源初の、一なる神(乙の文字は、禹との自論)、「金華」とは天上の光を意味している。万物の創造はひとりなる神であることと、源初の一なる天上の光は同じである。そして、「止観」の一法を説いている。神の天上の光とはロゴスと一致すると彼は考えた。ヴィルヘルムは「太乙金華宗旨」すなわち金丹教は景教(唐代の中国で栄えたネストリウス派のキリスト教)によく似ているといわれている」とか「その御座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現われていた。」の「碧玉」(中国の玉) 玉座の第1群の「フィールドは4つであり」(初期の禹の測量で「田」の字=「フィールドは4つ」とか、「たくさんの目があるのは翼と手だった」「それぞれ6つの翼」(6×60度=360度)・「ヘビのうろこのようにみえる」(三角紋)・「占星術の基本概念を使った位置と方位を表している。バビロニアでユダヤ人が学んだ知識がこうして出てくるので、聖書にも古代オリエントの影響があるといえる。」・「その翼は高く伸ばされ、その2つは互いに連なり、他の2つをもってからだをおおっていた。」(篭目紋?ダビデの星?)・・・・・・おかげさまで自論に自信を深めました。

管理人さん、「結」「城」ですが『超マンダラ論』に「結 界は城 壁・・・」との記載がありました(結城ー鹿嶋ー高麗神社の角度は30度です。)、それと日高町の「高麗神社」の位置が富士山・須走の浅間神社から八溝山のライン上で壬生町の慈覚大師(壬生氏)の寺もライン上です「高麗神社」を通る15度の倍数の角度のラインは別格に感じますお試しください。

<「古語拾遺の四国阿波の忌部が下総・上総に分けて移配したとの記載のあたりが今気になっています。その茨城の結城郡の忌部についてですが、紀氏さんのとこのちかくですか?鹿嶋神宮とかとかかわりあるのでしょうか?」
「下総」にはお勧め本の「古墳のこころ」のP155に下総国埴生郡の郡領氏が「大生部直」(壬生氏:建借間命の子孫で大臣系中臣氏に属するようです) 中臣氏が鹿島神宮系なので大生部(壬生氏)は香取神宮系ではと思います、香取郡は茨城に属していた時代も有ったたらしいです。壬生吉志氏は、推古天皇15年(617)に設定された北武蔵に管理のため入部した渡来系氏族と考えられ、管理人さんの専門分野ですね「忌部」とのつながりは如何でしょうか?「忌」の熟語に忌避・キヒ=「(法)控訴事件で、不公平な裁判を受けるおそれの在るとき、その判事の裁判を拒むこと。」とありました「忌」部には古代の裁判的「お告げ」の役割も兼ねていたのではないでしょうか。
 これからもよろしくご教授ください。        紀氏でした。


『風水ですね』
かわかつ 2004年12月6日(月) 23:34:40 削除・編集

『伊勢探索』
管理人 2004年12月6日(月) 4:1:37 削除・編集 スレッドの一覧・返信 かわかつさん、新HPアドレスお教えいただきありがとうございます。特に九州の古墳などについて、写真や説明とてもすばらしいですね。今後の発展楽しみにしています。
さて、先日は伊勢のほうに行って参りました。探索日記更新しましたのでよろしかったらごらんになってみてください。アドレスは以下のとおりです。
http://www.asahi-net.or.jp/%7Erg1h-smed/ise041203.htm
それではまた今後ともよろしくお願いします。

『niftyに乗り換えました』
かわかつ 2004年12月5日(日) 6:9:16 削除・編集 スレッドの一覧・返信 HPのURLが変わります。このURLは年内使用可能ですが、お早めにお知らせいたします。新URLは当方掲示板にてご確認を。

『秦氏、忌部、アルコール?』
管理人 2004年12月2日(木) 8:37:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信 あだちさん、書き込みありがとうございます。最近アルコール中毒からある神父が回復した話についての本を読んでいたところでした。アル中が自己意思が弱いという問題ではなく、病気であり自分ひとりでは無力であり乗り越えることができないことを理解して、同様の病状にある仲間同志の共同体で回復のプログラムに取り組むこと,そしてそこに不思議な回復への力(神)が働いてくることの重要性について書いてありました。アル中ならずも、対外みななにかしら依存症を持っているもので、いろいろ考えさせられます。
さて、酒といえば秦氏、かわかつさん、さすがは文章家、改行ちゃんとめんどくさがらずやるようにいたしますね・・。また「超マンダラ論」なかなか面白そうなHPですね。よく読んでみます。やはり秦氏と酒、忌部と酒、秦氏と忌部、忌部と伊勢、「古語拾遺」の四国阿波の忌部が下総・上総に分けて移配したとの記載のあたりが今気になっています。その茨城の結城郡の忌部についてですが、紀氏さんのとこのちかくですか?鹿嶋神宮とかとかかわりあるのでしょうか?
などなど考え中です。ではではお休みなさい。


『超マンダラ論のアドレス』
かわかつ 2004年12月1日(水) 0:33:44 削除・編集 スレッドの一覧・返信 http://home10highway.ne.jp/ikko/
です。SOUDASUIより。

『おもしろいHPありました。』
かわかつ 2004年12月1日(水) 0:24:29 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「超マンダラ論」というHP、秦氏に関してかなりマニアックな検証がしてありました。特に「摩多羅神」がおすすめ。京都の酒匂神社・・・おそらく木嶋坐天照御魂神社の摂社・・・の牛追い祭りに関して私も知りたかったことが論じられていておもしろい。飛鳥昭雄の「秦氏の・・・」
に嗣ぐ怪論ですな。私の拙著でも紹介してあるのですが、この祭りは一度は見た方がいいですよ。牛追い祭り、ケベス祭り、修生鬼会は私の中では秦氏三大鬼の奇祭にはいります。HPに近隣の古代遺跡や神社を紹介始めました。もちろん私の渡来の簒奪と差別に沿ったものばかりをマニアックに集めた物で、訪問される方のために交通情報や観光スポットなどもつけくわえてみました。地元ならではのできだと自負しております。まだ始めたばかりで量はすくないですが。とりあえず海部の古墳あたりから渡来の痕跡を感じてみて下さい。「マニアが逝く」地球アイコンをクリックしてください。
紀氏さん最近ごぶさたですね。「超マンダラ論」あなたにもお勧めですよ。
管理人さん、NEWページ読みました。ちょっと行間がつまってて中年にはきつかったけどいろいろ触発されました。
それと、ペンネーム長ったらしいので「かわかつ」に変えました。ご了承下さい。

『「癒しと救い」の体験記』
あだち 2004年11月29日(月) 17:45:18 削除・編集 スレッドの一覧・返信
    聖 名 讃 美

    「勝手メール」をお許しください。

   ■□■□■□■□■□■□■□■□

   「病気」とは、分らなかったことが
   判るようになる、天の「摂理」です。

   「アルコール中毒」「先天性高血圧」
   「サラ金地獄」 という罪のDNAを
   聖書の「御言」によって打ち砕かれた
   者の「証」です。

   http://kokoronet.org/message
    
                安達三郎

『語源・矢板市探索』
管理人 2004年11月26日(金) 4:55:31 削除・編集 スレッドの一覧・返信 SOUDAさん、ご指摘のとおり、特に語音の扱いについては、慎重にしなければなりませんね。クジフルについては私も朝鮮語起源説を耳に挟んでいて、実際そうなのかと納得してしまったふしがあるのですが、ご指摘のような当地の古語や地名も考慮しなければならないですね。古語というのはなかなかでもおもしろいですね。今年の春先に掲示板で紀氏さんたちとの間で話題になった矢板市泉町の古来の呼び方のお話がありました。かつて当地では井吹里とかいて「せんぷうり」と読ませたそうです。今は泉町となっているのですが、その語源がもしかすると朝鮮語ではないかというお話がありました。そこでその地の渡来系遺跡などをそのときはご意見いただいたのですが、先日その矢板市泉町周辺の探索に行って遺跡探索をしてまいりました。遺跡探索日記コーナーでページをアップしたのでぜひみなさん読んでみてくださいね。ページアドレスはhttp://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/yaita041122.htm
です。それではまたみなさんのご意見お待ちしています。

『コマもクレも』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月24日(水) 18:56:7 削除・編集 スレッドの一覧・返信 よく確かめてから考証することですね。ケースバイケースでコマが高麗を示したり、そうでなかったりはやはり出てくるでしょうね。クレも必ず中国とは限りません。朝鮮をさすこともあります。カラ国が中国とは限らないように。
漢字で考証するのは危険が多いですから、必ず頭の中で仮名変換して考えるようにしたほうが無難です。
日本人は中国人とは違って表音文字を使える民族ですから、音による言葉遊びも多いですね。例えば駄洒落とか。
そういえば新羅を白、白髭、白木、白山などと結びつけるのも慎重にしたほうがよいのかも知れません。

クジフルという語が書紀に出てきますが、一般に九州の久住山などはこのクジフルが語源だなどと言われますが。そうとも限らないと思っています。久住山周辺にはクジフルにふさわしい遺跡なども出ませんし、古代人が住むには適していないですね。周囲にいくらか縄文遺跡があるのですが、そこへ行っても久住山は見えないんです。(例えば聖洞遺跡など)くじうは葛生・・・くずうから来たのかも知れない。東の玖珠もクズから転じたかも。玖珠には原住民的な名前の「穴井」という姓が多く、クズの民の末裔かなと密かに考えとります。
言葉と地名は結構古くから残っていますが、今のようにじゃんじゃん町村合併が進んで行くともうだめだね。後は西と東に残存する古語なんだけど、これもTVの垂れ流す情報と教育の普及でだめ。もう誰もしゃべっていない。
私の住む大分県は古語の宝庫だったんですけど、今の子供たちの言葉は方言とか標準語なで通り越してありゃもう、ハナもゲラの方が近いですな。なんであんなに語尾をのばすんだろう。「〜だから〜」「〜だし〜ィ」
京都にいたころ若狭にいくと関西弁じゃないんですね。日本海側は語尾が上がるんですよ。「ね〜〜ェ?」ってなかなかこれが可愛い。ところが新潟に行っても島根に行ってもやっぱり「ね〜〜ェ」とくるんだな。ヒントですねえ〜ェ?

『高麗の語音と栃木・茨城』
管理人 2004年11月23日(火) 8:52:58 削除・編集 スレッドの一覧・返信 夜勤明け管理人です。おとといは栃木の先日話題になった矢板市泉町のほうに行って参りました。後日報告談アップいたします。また先日の高麗の語音についてですが、歴史サイトをたまたま検索していたらその栃木の渡来人と高麗の語音の由来などについて、研究していらっしゃる小林勇一さんの研究サイトありましたのでご紹介いたします。

http://soma.acrweb.com/kashimamanogimonizumi1.htm

高麗と独、白人系中国人?などに関して触れながら真野、神崎郡の移住してきた渡来人についてかなり貴重なご指摘をされているので重要です。個人的には今泉町にあった三島神社と箒根神社について調べていますが、なにか情報ございましたらよろしくお願いします。

『RE『天下解放』』
管理人 2004年11月22日(月) 16:26:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 天下開放さん、こんにちは。また貴重なご意見ありがとうございます。ご指摘のとおり、コマの発音や語が、当て字の可能性についても考慮しなければなりませんね。たとえば先日の蘇我高麗、蘇我韓子などの氏名などについては、当て字の可能性もありますね。ご指摘の文献などまた近いうち探してみますね。それでは取り急ぎ失礼します。

『天下解放』
天下解放 2004年11月21日(日) 13:9:40 削除・編集 スレッドの一覧・返信 メール操作不慣れで、前回の投稿が匿名になりました。投稿名をつけました。よろしく。
コマが高句麗や高麗を想起させるのでしょうが、上古の地名・人名はあくまでも、日本列島先住民言語(大和言葉)への当て字に過ぎません。それを考え違いすると、とんでもない迷路に迷い込み、真実から遠ざかるだけです。
参考書に『日本の民族』(戸上駒之助著、昭和5年刊)を上げておきます。コマはクマ・クメと同じだということが分からなければ、秦族も分からないのではないですか。戸上は森鴎外の後輩で、ドイツ留学後は軍医をし、小倉市立病院の院長となりました。鴎外の『小倉日記』にも名が出てきます。千代田区立図書館には5年前まではありましたが……。

『「寒田親将」、歴史書』
管理人 2004年11月21日(日) 8:23:17 削除・編集 スレッドの一覧・返信 soudaさん、紀氏さんこんにちは。
「寒田親将」すこしづつ読み始めています。寒田氏の神職の家系の歴史、とても興味深く感じました。「そうだ」という発音も、その継承法も、神職家系が特別に持つらしいいろいろな因縁を背負っていらっしゃるのですね。またその歴史書の中にある下線書きの中で、特に寒田氏から神宮寺に定期的に女婦を差し出しているらしいことも、どういう歴史的な経緯があるのかひっかかりました。今後も楽しみに読ませていただきます。
歴史書といえば紀氏さん、私はTV見れませんでしたが、いろいろひらめきがあってよい番組だったのでしょうね。「鳥獣戯画」のそれぞれの動物に暗にこめられた歴史と氏族の意味があるというのですね。鹿嶋と鹿との関連、いろいろ関係があるらしいですね。
蛙とウサギの絵とかかわいい切手があるのを確かにわたしもみたことありますが、よく知らないので調べてみます。猫が描かれているとのこと、以下のサイトの猫の歴史が書いてあっておもしろかったです。

http://allabout.co.jp/pet/cat/closeup/CU20030624A/
以下抜粋
「 ◆元々は輸入動物
5世紀頃、「リビアヤマネコ」を祖先とする「イエネコ」が、インドより仏教の伝来と共にシルクロードを経て中国に持ち込まれます。
中国に持ち込まれたネコはやがて、仏教の教えを説く教典がネズミにかじられないようにとの配慮から、一緒に船に乗せられ、そうして日本へやってきます。
当時のネコは中国から来たので「唐猫」と呼ばれ、その数はごく少数でした。

◆文献に残る猫たち
その後、「枕草子」には猫の名前をつけたという一説が登場し、「源氏物語」には引き綱をつけた猫が描写されます。この頃の猫はペットとして飼われており、綱をつけるなどして外飼いにしていた様子はうかがえません。ごくごく貴重な動物であったせいかもしれません。
「鳥獣戯画」にも猫の姿は描かれており、この頃には既に今の日本猫を思わせる短尾の猫になっています。
また、「徒然草」には長く生きた猫は人を獲って食う”猫股”という妖怪になるという記述も残っています。 」

猫の歴史、渡来人とも関係深かったのですね。勉強させられます。
ではでは、いつもご意見ありがとうございます。

『歴史書「鳥獣戯画」』
いばらの紀氏 2004年11月20日(土) 23:13:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信
テレビ東京の「美の巨人たち 国宝 鳥獣戯画・11b絵巻の意外な結末」を見ていて 閃きました!。
 配役 兎=中国夏王朝禹の末裔(出雲族・先住) 蛙=中国夏王朝禹の末裔(兎より後に渡来)最初は仲が良かったが鹿(タケモカズチ)に乗り蛙(何に乗っていたかヒツジなら高句麗の若光ジャッコウ?)サルやキツネらに乗せられて争う図?
扇子(角度)竹(測量のポール)弓(次の三角点を求める為四方八方に糸(距離)糸を付けて射る。)山(国見・後には、古墳)傘袋(かさ=(測量)を覆い隠す・極秘?)
猿=サルタヒコ(後に僧侶の姿・仏教伝来・蘇我氏?ヤタガラス?)
貢物の虎の皮(トーラ 法) 数珠(仏教)・・・・物部(工人・渡来系職人)
きつね=稲荷(秦氏の祭神?)・・・秦氏
猫(烏帽子をかぶる)根子(天皇系の隠語)
とすると、兎と蛙が競い合う・・・・中国夏王朝禹の末裔同士?の権力闘争?・・・・の妄想です、いかがでしょうか?   
紀氏でした。

『PRですが』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月20日(土) 12:40:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 HPに新作「寒田親将」を連載中です。まだ途中ですが是非一度ご覧下さい。

『RE『口寄せの神事とは』』
管理人 2004年11月18日(木) 6:47:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 SOUDAさん、貴重なご指摘ありがとうございます。そうですね、シャーマニズムの中でも、口寄せについては、世界中普遍的にあるようですね。聖書にも神や霊が人を仲介してなにかを語るというような記述もありますし、どこの宗教にもそういう一派が昔も今も存在しているのが普通のようですね。とすると、単に中臣の口寄せの特徴を洗い出すというよりは、口寄せ+琴を弾くとかいう、組み合わせのあり方で他の系統のそれと区別していかねばならないですね。と、確かに楽器と巫女の口寄せとの組み合わせの普遍的にありそうですが・・・。同様秦氏と古墳造りの件も、やはり秦氏でなければできない土木技術がいまいち明らかになっていないので、その辺が明らかになるとおもしろいですね。その辺が明らかになると、どの辺の古墳の時代から、秦氏やその前の波多氏が渡来してきたかが明らかになるかもしれませんね。


『口寄せの神事とは』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月17日(水) 22:58:33 削除・編集 スレッドの一覧・返信 呪術のひとつですね。相対して霊を呼び、巫女にとりついた霊がしゃべるというものですね。なぜこだわっているのでしょうか。風姿さんのHPを見られたのですか。
歴史の中で民族の出会いがあれば知識や技術は混交して行くもの。互いに科学としての呪術や道教を選択、淘汰していったのではないでしょうか。方法よりもいかに有効に神との会話ができるかが問題だとおもうのですが。呪術の方法で同族であるということになるなら、東北のいたこも同族ということになってしまいます。あるいはアメリカの原住民もですよ。世界中に口寄せに類する祈祷法はあるのではないでしょうか。

『やはり間違いないですね』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月17日(水) 17:24:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 武内宿禰こそ崇神王朝でしょう。波多氏は豊前から秦氏に追われて大和へゆき、先住の物部を懐柔し出雲族ナガスネを殺した。これが崇神です。そこへ邪馬台国を波多氏に譲った秦一族がやってくる。これが応神です。間の開化朝は河内の陶村にいたという出雲出身の大の一族でしょう。つまり三輪氏です。武内宿禰は波多氏ですからどちらにも臣下として参謀につかされた。だから応神と手を組み仲哀天皇から開化王朝を奪ったのでは。
応神天皇は秦氏の代表者ですよ。あの巨大な古墳群。あれだけのものを作れるのは渡来系の大技術集団しかありません。
波多氏は結局日本海側へ別れて去ったのでは。
これは小説の世界ですがね。

『武内宿禰』
管理人 2004年11月16日(火) 15:58:10 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ひとつ訂正で、武内宿禰は垂仁天皇の弟の臣下でしたね。また孝元天皇の孫となるそうです。失礼しました。紀氏さんご指摘の中国伝承のように、権力者と権力者の兄弟とその武力に長けた臣下、あるいは権力者と武力に長けた臣下という関係伝承の追求が重要ですね。
さて、武内宿禰、以下のHPに詳細掲載されていました。
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/takenouti.html
その中でも、彼の巫女に対する審査者としての能力について、興味深く感じます。また、SOUDAさんご指摘あった高良玉垂神と武内宿禰との関連も読んでみると不思議ですね。
武内宿禰について、内臣集団の中の武という人物について、語っているのかもしれませんが、祭祀者や北九州との関連を考慮すると、どうしても中臣とその口寄せなどの祭祀方法との関連が気になります。
応神天皇の記載の中の渡来人伝承の部分が、学会でも雄略天皇の記事記載をもとに作られていると考えられていますから、いわゆる倭王武とされる雄略天皇と秦氏と祭祀との関連が重要ですね。しかし、つぬがあらひとについては、2002年報告にも記したように、新(いまき)漢人と関係する、斉明朝の西方渡来人トカラ人とその妻の渡来および帰還に関する伝承との重複が気になっているところです。
伝承の重複と、事実のそこへの介入との関係を解き明かすのは難しいですが、頭の中に入れながら研究することは大事ですね。それではまた失礼しました。


『RE『『武』を考えました。』』
管理人 2004年11月16日(火) 8:23:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、また貴重な情報ありがとうございます。崇神、垂仁天皇紀を読み返してみると、人物面では日本への初期の第一陣の上陸に続いて、つぬがあらひと→天日矛→秦氏の新羅からの到来へというひとつの渡来伝承の流れがありますね。神々の面では、ご指摘の武ミカヅチ→フツ主の到来の流れがあります。また女性に焦点を当てると、比売語曾神→倭百襲姫→倭姫→神功皇后という流れがあります。天皇面では、崇神→垂仁→おそらくは応神天皇へという流れがみえますね。祭祀面では天日矛において初めて?日鏡がでてきて、このとき太陽信仰と鏡が結合して現れてきますね。それから出雲→鹿嶋→伊勢という流れでしょうか。この三段階くらいの流れがどうこうとはいいませんが、古代史を整理する上で注目できそうです。
さて、中臣に関してはやはり宇佐津彦から出ているのを考慮すると、中臣の祭祀の起源については豊国にあるようですが、上記の数分類の流れの中で筑紫、宇佐という基点をやはり重要そうです。
 そこで紀氏さんご指摘の武内宿禰のお話ですが、権力者とその弟との連帯的な関連性が気になるところですね。たとえば、天皇と征伐者ヤマトタケルの伝承とか、天日矛とその弟の新羅王との関連とか、垂仁天皇と弟の征伐者武内宿禰と関連とか、中国の故事にもわりと頼朝と義経みたいな居残り兄と出向きの弟との、兄弟談話なども紀氏さんご存知ではないかとも感じます。もちろん、アマテラスと征伐者スサノオとかもそうですが、「武」者という性質について、どの辺に日本人の心理面においても、古代からそういう伝承が影響を与え続けてきたのか、中国や世界に起源をたどる紀氏さんの研究に期待ですね。
それでは、また夜勤型でして帰ってきたところで眠くなってきたので、とりあえずこの辺でお休みなさい。

『『武』を考えました。』
いばらの紀氏 2004年11月15日(月) 18:26:26 削除・編集 スレッドの一覧・返信
さる御方のHPの掲示板に
「仁科の開祖をたずぬるに崇神天皇の末子の太子に仁品王あり、垂仁天皇の弟王子なり」
「その長臣に保高見熱躬と武内山雄のふたりがあり、多くの臣下をつれて降臨した・・」
その臣下のひとりに河伯の役職の「九頭子」なるものがいて干拓を行います。
この九頭子が他の伝承では九頭太都であり九頭龍にもなって登場するようです(それらの元伝承は知りません)。
建御名方命の干拓という伝承があるのも昔から治水に苦労していた地域だったからだ思います。・・・・・とありました。

「垂仁天皇の弟王子の長臣に保高見熱躬と『武内』山雄のふたりがあり・・・」『武』タケの文字が、それに肝心な「鹿嶋の神」の「たけみかずち 武 甕(カメ・銅鏡?) 槌ツチ ちなみに、「土」ツチには、積み上げた土(塚?、古墳?、台?)・国・領土・くにつかみ・地の神・五行の一・中央・君主・星では鎮星チン・(しずめる)・『測る』(測量!)の意味もあるそうです。〔角川漢和中辞典より〕

「武」の文字を分解すると、
ほこづくり「伐」バツの人偏の無い字形で「工」ク・コウ・たくみ(斧オノの字形)の長くしたものに似ている。
「止」とめる・とどまる・(「武」とは武器又は測量器具を携えて、その地に止まること字形かな?)
「武」の漢語古文の字形には「王」の字形の「斧」オノの付いた字形のものが在る。(王=工=斧オノ・・・・「小野」氏・・小町 妄想妄想・・・)
「彼」行人偏(十字路の字形・道に関する字の意符)+皮(古い字形ではナニを包む皮を剥ぎ取る形に見えます。ひと皮むける=一人前になること?・・・・道に関する役・人夫になれる? )他に脱皮 古い考えや習慣(宗教?)を捨てて新しいものに変わる禹化(羽人になる。) [羽化](羽の在る天の使い[天使]のようになること。???)
ちなみに、カレ・「伊」カレ・物事をおさめる人の意

古代中国に『武』を名のる人がおりました、「羿」ゲイの家臣である「武羅」と言う人です。 (日本の『武』から遠すぎる妄想にトホホ・・・)
[ 太康(在位29年)4、12
姓は姒。名は太康。3代夏王。姒。名は太康。3代夏王。
啓の息子。冀(き)から斟鄩(しんじん)に遷都。
遠征するが帰らなかった。子供たちが嘆き悲しんだという。
羿に追放されたという。
(弓の名手「羿」ゲイの家臣である武羅・伯因・寒浞と共に反乱をおこし、夏王朝を滅し即位。) ]

いぐるみの字形はクロス十字の縦の先が「またになった枝」の様に右に分かれている。(二股の矛に測量器具に「代」わる機能も?) 禹帝は軍と共に黄河の治水の成功の後、中国大陸の測量をおこなった。軍事と測量の兼用する武器=測量機器だったと考えます。
(ちなみに、ヨク いぐるみの字形には神への従順の証に子供を生贄とする「代」わりに割礼した皮から生まれた字形と考えます。男の「武」器・大地への杭・・・・)   旧約聖書と古代文字(漢字)につながりを感じます。
矛 カ・ホコとヨク・イキ(代の人偏の無い)いぐるみ=またになった枝・地面に突き立てる杭(リンガ?)矢に糸つないで射る(方向を定め四方八方の距離を計測し社を建てる。三角点。矢には神の意が有る。日本では赤い矢)

!!閃きデス  「コ」ノ「ヤロウ」・・・・「胡」コ・えびす北方異民族(匈奴キョウド)・・・・・(禹の故郷?の妄想をいだいています。ユダヤ10部族の1つ?) 
ちなみに、【胡君】コクン=胡人で中国の王者となったもの。元ゲンや清シン朝の君主  〔角川漢和中辞典より〕
「夜朗」=漢の時代に、貴州の西方に住む野蛮人(井の中の蛙のモデル・・・・かえるは貴州の西方に住む野蛮人?)・夜=夕方の月(月氏?)・・・「朗」ロウ 国の地名・おとこの意(魯ロ今の山東省エン州地方・孔子の生まれた国)・・・・貴州の西方から山東省エン州地方から日本へ(ユダヤ10部族の1つ?)・・・・「夜朗」=「井の中の蛙」のモデル=西方に住む野蛮人・カエル=大月氏?・・・・ヒキガエルのヒキは?比企?
山田の案山子(クエビコ)=(秦氏デハの妄想をいだいています。治療や酒づくりをする少名彦も)・・・・・・紀氏でした。

干支の十二支は十二星座と関係?十二支の動物は、古代中国の冠位の順、子星(根・祢となえる・計はかる)・丑星(角)・寅星(トーラ・律法)・卯星(兎・禹・烏・胡・雨)・・・・・・・・・・・・・戌星(犬・狗)・亥星(猪・夷・ブタ/
燃えるいのしし?)・・・・妄想・・・どの様にまとまるの?・・・?・・・カバラ・

 


『掲示板ありました!』
管理人 2004年11月15日(月) 3:15:34 削除・編集 スレッドの一覧・返信 SOUDAさん、掲示板飛行物体?先ほど確認しました。なかなかひとさまの掲示板に投稿したことないので、失礼あったらすいません・・。さて、先日の歴史遺跡のある船岡山にマンションが建つというお話ですが、どうも調べてみると、その周辺はまた渡来人にゆかりの深い地域だそうですね。染料や陶器など近江の渡来人を考える上で重要な地域なのかもしれません。はてさて、マンションが建設される過程で、遺跡がどういうふうに発掘、保存されるのか、あるいは破壊されるのか、整理して見る必要がありそうですね。昔長岡京の遺跡の上にビルが建つ際に、また木簡等が出土しており、反対運動があったことを思い出します。また渡来人関連の木簡もでていました。多少保存の措置も後なされていたようですが、当時も渡来人のことにも触れながら抗議したのでしたが、マスコミ的に渡来人関連の遺跡がどの程度重要性があるのかについては、いまいち理解が伝わっていなかったのではと感じます。現在において、たとえば日韓共催ワールドカップとかヨンさまブームとか、韓国映画とかの朝鮮文化への理解が深まるなかで、やはりマスコミさんのほうで、どのくらい当時と認識が変化しているのかが気になります。今後もしその建設に関わることで古代史的にも問題とされるようでしたら、あるいは渡来人関連についてもあらかじめ調査して用意しておく必要もあるかもしれませんね。
さて、またご指摘の武内宿禰のお話、興味深く感じます。かつて8月末ごろの掲示板のご指摘にて武内宿禰の話題が出ていたのでご確認いただければと感じますが、やはりどこかしら武内宿禰という人物、天皇とかなり縁が深いようですね。ただ、問題は逆にもし武内宿禰が天皇だったとすると、なぜ臣下として描く必要があったのかということになりますね。やはりその辺きっとどこかでテーマになっていることでしょうけど、おもしろい推論が出てきそうで楽しみです。
ちなみに宿禰については、奈良以前のある時代において、祖先などにつかわれた尊称なのですが、天武の時代には宿禰はカバネとして別利用されているので、それ以前の書紀や家系図の編纂時に宿禰の尊称が、どこからか武内について加えてつけられたと考えるべきかと感じます。個人的には「内」という集団の中の「武」という人について、尊称をつけた形ではないかと先には思いつきで書いたところですが、問題はその武という人について、どこからどういうふうに後代の書紀編者とか家系図製作者が、その人を引用してきたかという線で考える上では重要ではないかと感じます。武内宿禰の伝承はまた神宮皇后の伝承とも深く関わっているので、諏訪や伊勢神社との関連でも興味深いのですが、「たけみなかた」という神名の由来についても、ご指摘のとおり考えて見る必要がありそうですね。またその高良大社に祀られる高良玉垂命についてですが、確かに高来神社とか、「こうら」の発音で関東にも残っていますね。「コマ」と「こうら」、狛江は「コマ」、高麗郡は「こまぐん」、「マ」音と「ら」音の相違になりますが、「やまたい」の「マ」と、「やばた」の「ば」、みたいな朝鮮語、中国語における発音の推移とか、わかるとおもしろそうです。




『右のすみっこに』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月14日(日) 9:33:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 5つめの地球が泳いでいるはずなんだけど、あれ?ありませんか。やり方が悪かったかな。確認します。

『RE『PS』』
管理人 2004年11月14日(日) 6:2:22 削除・編集 スレッドの一覧・返信 あれ、さっき掲示板探してみたんですが、見つからないですよ〜・・・。

『PS』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月13日(土) 8:43:34 削除・編集 スレッドの一覧・返信 HPに掲示板を作ったのでスレしてくださいませ。まだ真っ白でさびしいんです。(涙)

『さすがです』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月13日(土) 8:40:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さんは冷静な判断ができる人ですね。
匿名希望さんこんにちは。飯能の例はよく知らないのですが、同じようにつれてこられたといわれるのが、広島県の佐伯一族です。司馬遼太郎氏の「空海」に詳しい記載があります。この人々は渡来ではなく、蝦夷らしいのですが今の広島県佐伯郡に大量につれてこられた。そして彼らを監視する中央からの役人も佐伯氏と名乗ったのだそうです。
秦氏にしても、出雲氏にしても、葛城氏にしても、必ず臣とか直とかに氏族が分類されているんですね。管理する側もされる側も同じく地名を氏姓にするのでややこしくなるのですが、当時の人はちゃんと使い分けることができたわけです。なにか符丁のようなものがあったのでしょうね。
司馬氏は蝦夷が聞き慣れぬ言葉でざわざわと騒ぐのでサエギと呼んだところから佐伯氏となったと書かれてますが、それなら外国人だってそうではないか、と思いました。
友達に佐伯君がいました。広島の佐伯郡の人でしたが、彼の相貌はまさにペルシャ系だったですね。立派な鼻をした男でした。これは渡来系だと思いましたね。
高麗の神といえば高良玉垂命が筑後一の宮・高良大社に祭られています。この神は渡来人の神で建内宿禰だと社伝が伝えていますが、秦野の高麗の神は誰でしょうか?
私は建内宿禰は崇神天皇だと考えています。諏訪神社ならタケミナカタのはずですよね。

『繰り返し伝承、高麗神社』
管理人 2004年11月13日(土) 7:51:34 削除・編集 スレッドの一覧・返信 SOUDAさん、匿名希望さん、ご意見ありがとうございます。さすがはSOUDAさん、文筆家でいらっしゃるので、特に書紀の製作における繰り返し伝承の部分にやはり鋭くピンと来るようですね。書紀の神話がどこかしら同じ構造を繰り返していること、私もそう感じます。たとえば昔その辺ひとつ考えていたのは神話部についてです。大国主の神話にあるように、迫害を受けてどこかに一度避難して、カムバックするという三角点構造でした。これなんかは、古事記のほかの部分にも見えますが、どこか深層心理、たとえば三途の川に行って帰ってくるとかいう共通意識によるものか、あるいは元の出来事に基づく伝承を、各地でいろいろな伝承に変化したのか、あるいはいつの時代か文章家が神話を構成したのかなど考えることはできますね。ただ、ご指摘の書紀の中でも記録に関する部分の繰り返し伝承は、どこかやはり書紀編者の製作意図みたいなものを感じますね。結局、小説書かれる方など特にそうなのでしょうけど、まったくノンフィクションでかつ民衆に受け入れられるものを、無から創造するのはかなりの労力を要するということで、体験や事実をもとに手を加えていったほうがはるかに楽でいいものができるということでしょうか。この辺、特に心理的な部分からその文章の真偽を分析研究の進展を期待したいものです。
さて、匿名希望さん、飯能について貴重なお知らせありがとうございます。秦氏の秦野からの北上移動、そして飯能の氏神がもともと八坂、諏訪神社であったとの点、とても興味深いです。そして確かに書紀には高麗人を関東に集めた記述こそありますが、それをもとに後代のいつごろかに、改めて高麗神社を設立したということ多いにありうることですね。その辺よく調べてみたいと思います。さらに書紀の高麗郡の移住記事の真偽についても、改めて稲作の問題とともに考えねばなりませんね。また、その移住した渡来人の中で、高麗人と秦氏との割合なんかも、案外考慮してみる必要もあるのかなとふと感じますが、秦氏の中には確かに農民もいたでしょうし、また都作りなど土木作業に長けた人もいたかもしれませんし、あるいは多胡郡のような精銅関連の件など、その生業のあり方について、もう一度洗いなおしてみることも重要ですね。
今後ともご意見よろしくお願いします。


『無題』
匿名希望 2004年11月12日(金) 9:57:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信 私も飯能市に住んでいます。飯能が古代朝鮮語のハンナーラから来たという説は、まったくの語呂合わせだと思います。秦野に住んだ秦族が北上し飯能の地に住みついたもので、飯能の氏神は八坂神社・諏訪神社です。秦野が飯能に変化したものでしょう。高麗の字面から高麗(こうらい)や高句麗を想起するのでしょうが、高麗神社は昭和の初期までは諏訪神社で、神官の高麗家系図は捏造の疑いがあります。戦前は内務省警保局あたりが、戦後は西武鉄道が作為的にでっち上げたのではないかと思われますが、詳しいことは口碑からしか分かりません。高麗神社の大門は浅草寺の仁王門をモデルにしたものだという説を採っていますが、いかがでしょうか。稲作中心の時代に米のできない地域に帰化人を大量移住させたという説は疑問が残ります。

『やはたは』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月12日(金) 1:48:58 削除・編集 スレッドの一覧・返信 本来はやはたですね。やわたは関西風ななまりかもしれませんね。京都の八幡市はやわたです。5年くらい住んでました。ここがまたえらいとこでして。えらいというのは大変なという関西弁ですが。
はちまんとなるのは中世以降で、武勇の神として平家や源氏が言い始めたのだと思います。
やはたを「いやはた」とする説は秦氏の神であるという説の人々に支持されています。豊前の椎田町に金富八幡という、最古の八幡宮といはれる神社がありまして、旧名を矢旛神社といいます。宇佐八幡託宣集に「八流の旛を立て、われは八幡神となる」という八幡大菩薩の預言がでてきます。どれが正しいとは今の私には言えません。
辛島氏の口寄せ神事調べます。
やまたいの発音について、井沢元彦氏の逆説の日本史では、中国人にしゃべってもらったところ、「やばたい」だったかな、そう聞こえたそうです。
やまたのおろちもそういえば越の方からくるって書いてましたね。スサノウと応神の戦い・・・おもしろい。
イバラの紀氏さん、管理人さん、そして皆さん、いったい日本書紀の記述をどこまで信じるかなんですね。私は、可能性として書紀は天武天皇までの記述は同じ出来事の繰り返し説明ではないかと思うことがあります。持統天皇以降の出来事を何度も形を変えて言ってるだけじゃないのかと。時々そうおもえるのですよ。信じすぎてもいけないし、まったく無視するのも間違っている。
例えば推古天皇のもがりの宮に穴穂部が進入して犯そうとする。これなんか天照大神のところにスサノウが馬の生皮云々そっくりです。紀氏さんのようにまったく別次元の世界で理解しようとするのもOKだと私は思っています。そこにはやはりスタンスの違いがあって当然です。ただ、今のところ秦氏を中国、半島まで追いかけて行くのが一番の早道だとは思っています。紀氏さんは私よりずっと先の方へ踏み込もうとされていますよね。気をつけて下さい。日本史の学会はまだまだ西欧に後れをとっています。というか、異質ですから・・・でもいずれ必ず、世界史、東洋史にまで目を開いた学問の時代はやってきます。つながっていて当たり前なのですから、地球は。
ありゃ、大げさになっちゃったなあ。

『これはまったく別の話題ですが』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月12日(金) 0:37:44 削除・編集 スレッドの一覧・返信 京都市の船岡山という国史跡に今、高層マンションが建てられようとしているそうです。井沢元彦氏のHP掲示板に助けを求める地元市民からの投書がありました。私も京都に長く住みましたが、このような暴挙は許し難いものがあります。で、ネットを通じてこの件を広く告知してゆくつもりです。共感される方は連絡の輪を広げて下さいませ。詳しくは井沢元彦の書斎HPにリンクしてみてください。
なお船岡山は平安京の起点となった貴重な聖山です。
管理人さん勝手なこと書いてすみません。

『八幡、秦、波多・・・』
管理人 2004年11月11日(木) 6:26:15 削除・編集 スレッドの一覧・返信 SOUDAさん、紀氏さんこんばんは。いろいろ意見の共通性が見えて、またお仲間のサイトも出てきたりして、輪が広がって楽しいですね。
さて、秦氏、波多氏と出てきましたが、八幡も同類項で考えてよいでしょうか。「いやはた」「やわた」「わた」という線になりそうですが、なぜ「わ」音になるのかと思いました。「ま」音でいけば、「やまた」「また」「やまたい」「やまと」で・・・?。
「わた(波多)」が秦氏の「はた」の音の正確な音とすると、「やわたいこく」にはならなかったのかということになりますが、やはりご指摘のとおりタイムラグが大きくて、関連性を求めるのは難しいのかな・・。一方「秦王」のほうは、「しんおう」「すおう」となりそうですが、これは漢音ですね。この地の住民はすると、漢音と朝鮮語の「わた」の音との両方を使用分類していたのかもしれません。小野妹子ら朝廷や諸外国に向けては「秦王」の名称を使用し、自身は「はた」「わた」と呼んだということで、自身の神社は、「やわた」だったわけですね。後代秦氏は実際、対外的には秦の始皇帝の系譜を持ち出していますが、氏族内ではウズマサとかまさとかはたとかの出身地の言語を使用していくわけですから、そもそもの対外的な使用分類習慣は、朝廷に秦氏が進出する以前に九州のほうの本拠地で行われていたということになりそうです。やはり宇佐の本拠地は意外と、国としての整備がされていたのではと感じますが、問題の八幡神社の信仰が6世紀当時、どの程度まで九州で確立していたのかが気になってきました。素人目には、近畿での神社信仰がまず整備されて神殿建築なども整って、そこからその制度が九州他全国に拡大したと考えがちですが、前から気になっているのは、やはり宇佐の神託の話とか、奈良へ神輿を担いで向かったとかいう話ですね。本来普通に考えると奈良から神輿が九州にいくのならわかるのですが、九州のほうに、なにか信仰の本拠があるのが不思議ですね。6世紀末になったもなおまだ九州宇佐のほうの国や神社整備がヤマトのそれに対抗するなにかをもっていたとするとどうなるのかとも感じますが、そんなことはあるのでしょうか・・・。
さて、ご指摘の応神天皇については、越からの伝来の神話があり、王朝交代が論議されているようですね。神宮皇后紀とともに、私自身としてはかなり、後代の伝承が混ざっているようには考えているのですが、なおしかし部分的に史実を残していることもあるのだろうと感じます。そのほか、ご指摘のとおり天の日矛の話とか、姫の話とか、普通に考えると日本の正書たる書紀になぜ掲載したのかと思う伝承がありますね。一面では新羅への牽制でしょうけど、反面墓穴を掘っているという感じがします。あくまで彼なりに史実を語りたい筆者がいたようですが、ともかく九州から波多氏や天皇家の伝来が越にもあり、そこから進出した勢力があったとすると、その時期がやはり気になりますね。京都と東京の例のごとく、東に拠点がありながらしばらく西に文化的な本拠があり、ある時期に東に移ったという可能性について考えてみる必要もありそうです。いや実際、神武の東征にしろ、本拠をできたてほやほやの敵国に囲まれた地域に移すはずもなく、しばらく数代の天皇は九州に本拠を持っていたほうが、安全だったろうとも感じます。また果たして大和に本拠を移す意味がどのくらい、当時あったのかも考えねばならないでしょうね。海にも中国、朝鮮にも遠いし、よくわからない敵と言語の通じるかどうかもわからない民衆に囲まれていて、突然首都を敵国側に移動させるのはかなり決断が必要だったでしょう。こういう場合、よほど亡命的な目的があったとか、緊急的に移動する必要があったとかいうケースになりそうですが、全国を支配する拠点として、近畿や越に拠点を移すことは、後々は重要な要素だったのでしょう。
やはり、朝鮮、中国系の秦氏が外国から遠い近畿に集団移動する意味がないと移動しないでしょうし、彼等の利益なりそれを保障するなにかがないと、なかなか本拠は移さなかっただろうと感じます。
ということで、長くなりましたが、宇佐について考えることが、案外7世紀以前の信仰、文化や支配を考える上でやはり重要な気がしました。ではではまたよろしくお願いします。


『感謝』
いばらの紀氏 2004年11月11日(木) 2:51:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信 有難う御座います、「飛鳥昭雄氏や三神たける氏」を検索し、私と同じ方向の方々を知り自信を深められました。

CPA東郷の「日ユ同祖論」
http://www.cpa-togo.jp/3.htm

ねお・ぱらだいむ飛鳥
【「アダム・カドモン」の章
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/j-0026.html
         感動の紀氏です。

『う〜む。』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月10日(水) 18:39:0 削除・編集 スレッドの一覧・返信 また飯を食う暇がなくなってしまうじゃありませんか(笑)
過分なる評価をいただき実に汗顔の至りです。
どちらかといえば飛鳥昭雄氏や三神たける氏の作品で、キリスト教12使徒と秦氏との関係を云々があったような気がしますね。三神氏のHPならリンクしてます。よければお教えします。知っていたら失礼かとも思いますが、怪談ネットというエキセントリックなネットHPもおすすめします。東京にいる兄の寒田寛もそこに執筆してたはずだけど。
ついでに天皇家の16菊花弁とユダヤの関係とか、蚕の社の三角鳥居と三位一体説の因縁なんて切っちゃってください。う〜ん残念!なんてギター侍みたいに・・・
ひとまずこちらこそよろしくお取引のほどを!
あなたのHP拝見したいけど、URL教えてもらえますか?

『よろしく御願い致します。』
いばらの紀氏 2004年11月10日(水) 18:5:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信  管理人さん 今晩は、渡来人研究会に素晴らしい見識をお持ち方が訪れていただき嬉しくメールいたしました。
舌足らずの表現力に乏しい私ですが今回もホローのほど、よろしくお願い致します。
こんばんは SOUDASUIJUNJUN:::::さん、 いばらの紀氏と申しますよろしくお願い致します。
私はイエズス会が世界地図を完成させた15世紀ごろ?より以前(紀元前)に何らかの『密命』により世界に散ったモーセの民が、ユダヤ教からキリスト教へ進化せねば達成が危いほどの目的の為にキリスト教の教義でもめ・争い・追放されようとも『密命』の達成に伝道の標を築きあげた渡来宣教師たちがいた。との妄想?を真実とすべく暮しています。
日本での出雲系(古代中国夏王朝禹王の子孫?)がユートピアを日本に創ろうと焼畑をしながら三角測量作業を行ない、三角点には銅鐸(禹の父 「口」(魚+系・北方の胡?のし囚人?)が黄河の治水に失敗し酒甕に逆さに詰められ堤防の側に生贄に埋められた。銅鐸はこの酒甕と思われる。漢字の「台」はここから出来たと考える。なお「ム」=禹、「魚」=十字架以前のキリスト教のシンボル)
古代エジプトが多神教だったように、初期のキリスト教では生贄・まじない・占いの風習が存在し月や精霊を崇拝していた部族もあり教義でもめこの世で一番大切な太陽(ラー・ゼウス?)と水(龍・ポセイドン)との戦いとなり一神教での太陽(ラー・天照)が最高神と成ったが生贄・まじないなどのの風習の根絶に苦労したかも?。(バチカンに敗れた異端キリスト教徒が出雲の一族との妄想を懐いています。)
秦氏(中臣)や徐福(始皇帝の親類?なども西方からの異端キリスト教徒らしく快楽主義(酒 バッカス)商売(人間に煩悩を利用・裏組織の構築・知能が高い)だが「生贄」が「人」で無いところがバチカンよりかも?

漢字でも「彙」イの文字の甲骨文字から金文への変化、血の祭器から米と糸の変わった。(これは、古代中国にも西(バチカン)の影響を受け漢字にも変化が起きたと考えました。
 私的に、
「神夏磯姫」の夏=古代中国夏王朝 磯=キの音=気・姫(姫氏?)・箕・黄(五色の中心の国?)・葵(徳川?)・忌・亀・鰭(ひれ・・・昔の話に?)・鬼・紀(紀氏かも?・臣)
「神奈志姫」の奈=木と示・星と示? (志=こころざし 星と示+こころざし=北の星に進む測量士の妄想でした。)
西王母はコンパスと定規=石工・フリーメイソンのシンボル(アメリカも)
ツヌガアラシト=角(役小角?角度)鬼(禹が測量の鬼に成った話からの文字?)

妄想の増大にトホホの紀氏ですがこれからもよろしくお願い致します。

『もうひとつ・・・』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月10日(水) 12:57:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 世清が書いたのではなく、世清の情報を元にして随書は書かれたのです。あしからず。

それから、なんとかいうファンのおおい親鸞研究家が世清が日本書記の記述では世清とちゃんとフルネームなのに、隋書には裴清と略してあるこれは名前を隠匿しようとしたのだ、などと書いてますが、だまされないで下さい。あ、そうだ古田武彦氏だ。これは諱だからです。当時の中国皇帝は李世民ですから世の字は使えないわけです。知ってたらごめんなさい。それに中国人は普通、あざなで呼びますので、初字は読まないのが当たり前だと思います。これは古田さんのケアレスミスですね。

『訂正』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月10日(水) 12:32:36 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦氏がきたのは崇神ではなく垂仁天皇の283年でした。ただし西暦年に間違いはありません。

『小説を書く気分で』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月10日(水) 12:34:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 小野妹子と世清の会話をごく自然に考えてみました。これはあくまでひとつの見方ですが。
小野「あそこに見えるのが周防国です。中国の人々が作った国なんですよ。ご存じでしたか?」
通訳「あれはスオウ国で、あなたのお国の人たちがつくりました」
世清「秦王国?それは秦時代の徐福の伝説を思い出しますね。それなら南方の夏華の風俗が伝えられて今に残っていてもおかしくない。これは是非書き留めておきましょう」

 いわゆる発音上の誤訳があったことも考えられます。
 山口県の土井ヶ浜には大量の大陸人と思われる人々の人骨が、海岸に戦争の傷跡も生々しく、西を向いて埋葬・・
おそらく埋葬されたのでしょう・・が出ています。私は一昨年見に行きました。この日本海側の小村が今、何という地名かご存じでしょうか。豊北
町というのです!
 かなり以前からこうした「渡来」が日本海側であったことの証明なのですが、ここが出雲の領地だった可能性は十分あり、アメノヒボコと大国主のもめごとの記事を思い起こさせます。
 秦氏がやってきたのは崇神天皇の世、西暦にすると283年になります。卑弥呼の時代です。卑弥呼が死んだのは
248年〜9年でしょうから、40年のタイムラグがあるわけです。あくまで日本書紀の記述を信用すればですよ。
 卑弥呼の死から約40年後に大和の大王のもとに朝貢しているのです。これは可能な時間ではないでしょうか。彼らが九州を混乱させ、国王になっても習俗の違いから民が馴染まず、仕方なくまた女王をたて、大和に去ったとしたら・・・新しい国を造るために。
 さらにこの時すでに九州には波多氏という秦氏と同族が住んでいたとすれば、後着の秦氏も同族ならば王座を譲ってもよいと納得したとしたら・・・
 おそらくこれ以前に秦と波多のいさかいはあったに違いありません。その時去っていった波多一族もいたでしょう。それがアメノヒボコから逃げたあかる姫だったのではないかと。国東の姫島にはあかる姫と比定できる「比売許曽」が祭られており、これは浪速の姫島にも社があります。河内の陶村にいた大田田根子は崇神に呼ばれ、荒れる神・大和大物主を祭ります。
 どうでしょか、繋がって行きませんか。あまりにとっぴなかんがえですかねえ。
 あかる姫が瀬戸内コースで浪速に行くのに対し、ヒボコはなぜか日本海コースをとるのです。行き着く先の越の国には気比大神・ツヌガアラシトの建てた敦賀があるのです。ここは波多一族の土地です。応神天皇はここで気比大神と名前の交換をします。つまり王朝交代です。そして波多氏は建内宿禰の子孫だと新撰姓氏録はいうのです。応神は秦、建内宿禰は波多・・・この辺でやめときましょう。

『辛島氏、秦王国』
管理人 2004年11月10日(水) 6:43:6 削除・編集 スレッドの一覧・返信 さてあれから考えているのですが、辛島氏については、口寄せの神事という伝統的な祭祀があるのですね。中臣と同じで、卑弥呼の鬼道かどうかという問題があるそうですね。辛島勝の勝のカバネについては、ご指摘のとおり、私も秦氏の一族というよりは、ややもすると別系統の血縁ではと感じています。神事自体は私は見てないのでよくわかりませんが、神功皇后の巫女とサニワを配した琴を引く神事の話と関係ありそうですね。皇后紀は全体的にはアマテラス信仰と関係あるのかなと感じますが、問題は中臣が倭王権側から派遣されて、それを辛島氏から受け継ぎ導入したのか、あるいは、もともと中臣が持っていて大和にもたらしたのかですが、なかなか素人目には難しそうです。ただ、その辺から勝というカバネを持つ秦氏の支配者的集団の経緯がもしかしたら解明されてくるのではとふと感じます。あと、辛島氏に「メ」音の名前が出てくるお話ですが、私は魏志倭人伝の中の九州各国の記載にいろいろ「ヒミコ」のそれと類似する発音の名前が出てきていて、その辺先日も「ヒ」の発音の話題がでたのですが、その地の方言等との関連がどうなのかと感じているところで、その辺の発音問題興味深く感じています。
さて、秦王国の件ですが、小野妹子との関連と考えると、いよいよ不思議です。7世紀はじめの時点で、まだ「王国」が倭国内に残っていたということになり、かつ倭の支配者集団もその存在を公認していたとなりそうです。もちろん、王国は過去の名残で当時はすでに国造集団の支配のもとにあったのかもしれまん。ただ、華夏に似るという習俗に関する記載は、やはり、秦氏が中国人からみても中国的な習俗を維持し続けていたということになりそうです。このご指摘の隋書を書いたとされる裴世清という人物、朝鮮半島の習俗と中国の習俗との区別がついていたのかどうか気になります。また朝鮮と中国の習俗、5,6、7世紀当時でどの程度似ていたかというのも気になります。秦氏の大陸系祭祀について、またご指摘のとおり伊勢にも秦氏の祭祀類の残存がいろいろあるようですが、秦氏が中国系とすると、たとえば柱関連の祭祀とか、神社の遷宮関連の問題とか、秦氏が特に深く関わった神殿構築の部分とかについて、朝鮮的というよりは中国的あるいは大陸的という部分がでてこないかと感じます。秦氏がどの辺から、日本にかかわり始めたのか、ともかく秦氏大変奥深し!ですね。


『随書です。』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月10日(水) 1:0:0 削除・編集 スレッドの一覧・返信 小野妹子とともに日本にきた裴世清の情報から書かれたものだろうと大和岩雄氏も書いておられます。
周防については実は気になっていたのです。例えば今も、ここを豊浦と書いて「とゆら」というのですが、これは豊の国の浦ですから、かつてはここも豊の一部だったかも知れません。確かに船で穴門、つまり関門海峡を抜けると周防の方が視界に入りやすい、近いんですよね。私もここいらへんをもう一度考えてみます。

『訂正です。』
管理人 2004年11月9日(火) 22:9:37 削除・編集 スレッドの一覧・返信 訂正です。「秦王国」の記載は隋書倭国伝で、7世紀はじめの記憶違いでした・・。soudaさん、ただいま辛島氏と卑弥呼について考え中です。また後お返事いたします。

『管理人さま』
SOUDASUIJUNJUN::::: 2004年11月9日(火) 17:25:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信 お返事ありがとうございます。
最近、秦氏が実は邪馬台国を滅ぼしたのかな・・・と考えています。読売新聞の記者で宇佐神宮の八幡神研究者であった故・安藤輝国氏の論を読んだのですが、可能性があるように思えるようになりました。ただ、大神氏が秦一族というのは納得できませんが。
神夏磯姫って出てきますよね。それから宇佐の史料に神奈志姫という姫が出てくるそうです。これは安藤氏ではなく大芝何とか氏ですけど。どうもこれカムなしめとよむんじゃないかと・・・卑弥呼の太夫だった難升米です。
そういえば辛島氏の名前には「め」というのおおいんですよ。どう思いますか?

『RE『はじめまして』』
管理人 2004年11月8日(月) 7:0:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして!HP拝見いたしました。大変楽しく?いろいろ勉強させていただきました。リンクの件、よろしくお願いします。
さて、秦氏についてまた貴重なご意見ありがとうございます。鏡については、またご意見聞いていくと、やはり中国での思想やそれに関連する定規、コンパスとの兼ね合いを考えねばならぬようですね。すると鏡が日本に持ち込まれた時点で太陽信仰の道具に変化したと考える線は難しそうですね。それにしても企救郡、名前も意味深ですが、鏡作りと関連してくると面白そうです。
宇佐での秦氏の割合の高さには驚かされるところですが、個人的には今宋書の「秦王国」がどういう経緯で名づけられたのか?が気になっています。6世紀初頭の時点で後代「周防国」となる地域に「秦王国」と記されている点ですが、普通に考えると「秦王国」は中国式「すおう」の音の当て字ではないでしょう。やはり当地で「秦王」と自身を名乗っている、あるいはそう呼ばれていたことから、「秦王国」と記されたと考えるほうが自然ではあります。後倭王権の支配が行き届くにあたり「周防」にしたというほうが自然ですね。ご指摘のとおり、朝廷からの支配が行き届く時代になり、彼らの祭祀にいろいろ朝廷側の監視がつくようになったのですね。すると中臣については、やはり宇佐氏との血縁というよりは朝廷側からの血縁ということですね。そして鹿島の中臣の起源も、あるいは伊勢、出雲などの起源も、各地への中臣の派遣の結果という形でまとまるのでしょうか・・。ともかく秦氏についてですが、やはりご指摘を考慮すると、新羅系の神話を有しながら数段階に渡り九州北部に上陸していったようですね。新羅がもともと秦韓の時代、あるいはそれ以前の秦王の時代に、そこから九州北部に移住した人々が秦氏や秦王国の起源とすると筋が通ってきますね。最近の弥生人のDNA分布の分析によると、やはり紀元前後からずっと5世紀以降にかけて徐々に九州から関東方面へ弥生人が移住拡散していくのがみられるそうです。ですからそれ以前の縄文人のところに、なんらかの形で数段階にわけて朝鮮から移住?していったというのはそういう視点からも自然だと思います。支配のための戦争が起こったケースを考えると、縄文人の武力と、朝鮮半島系の国々の武力とを考慮すると、三国史記あたりだと確かに倭の武力も強いです。しかし、おそらくはある程度九州北部に朝鮮系の人々が住み着いていっても、縄文系のそれにくらべれば武力面でも不思議はないし、逆に移住が完全に防げるほど、倭王の支配が行き届いていたとも考えにくいですね。いわゆる朝鮮あるいは大陸系の王国が、邪馬台国当時に九州にあったとしてもそちらのほうが自然でしょう。
それにしても、秦氏等の全国移住の後、さらにその後倭王権の監視支配が行われたようですが、やはりご指摘のとおり、主流祭祀の拡散方法としては、先代者の祭祀をそのまま流用して自身の神を祀るということですね。確かにキリスト教の拡散にもユダヤ教やケルト、ギリシア、ペルシアの祭祀などの祭儀をそのまま流用して、主神を祀ったという経緯も部分的に?あるようです。すると日本においても、結局天武以降に伊勢などの祭祀が整備されてくる過程で、アマテラス三神が、そのまま先代者の祭儀、神殿に主神として祀られたという経緯がある可能性も感じます。しかし、秦氏の祭祀というのは、新羅系いや秦王国時代の秦人系の祭祀から端を発し、その後仏教など大陸系のそれも導入しながら、あるものは仏教導入以前に渡来し、あるものは新羅で仏教を導入した後渡来したとなりそうです。とするとたとえば三角縁神獣鏡に道教信仰と仏像が並置されている事例のように、かなりいろいろ宗教が混ざっていたと考えるほうがいいでしょうか。縄文信仰から弥生、あるいは秦氏系の新羅朝鮮信仰が入る時期に、同じく大陸系の宗教の流入もあり、その後仏教も入り、その後中臣、忌部等のアマテラス信仰がその祭儀、祭殿をそのまま流用して導入されて、今の神道が成立し始めるとすると、実に複雑な構造をしているようにも感じます。しかしいずれ遠くない将来、そういう西欧ではごく普通に考えられている宗教分析視点が、日本でも客観的にというより、ごく自然な流れで普通平凡に考えるということが、学問的にも可能になってくるのではと思います。ともかく、いろいろ貴重なご指摘ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。


『はじめまして』
::::: 2004年11月7日(日) 17:16:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 宇佐八幡宮の建つ小倉山にはもともと道教の最高神・北辰が祭られていた。北辰は北極星であり、つまりは方角を示す天空の最高神。ということは海上交通の道しるべでありますから、渡来系の人々(厳密に申しますと「渡来人」というのは日本の史書には一切でてこない言葉です。正確には帰化人です。渡来と帰化は時代が異なります。)が大陸から持ち込んだものでしょう。実際に中国南部、楚や呉付近の馬王堆古墳からは三本足のカラスや月にカエルの模様を持つ黄幡が出土し、宇佐にほど近い国東半島の安国寺遺跡にいた人々も馬王堆と関連づけて発掘されました。
北辰はまた西王母でもあると考えられ、手に方格規矩・・コンパスと定規を持つ西王母は道教の最高神でもあります。豊前地方に出土率の高い方格規矩鏡は、豊前が中国南部にえにしのある渡来系の人々が多かったことを物語ります。小倉近辺を今でも企救郡といい、聞く物部の本拠ともいわれますが、史料はここに人口の90数パーセントに及ぶ秦氏系の人々が住んでいたと記しています。今、地名で推察するに勝山、椎田、赤村、香春などはその名残と思われます。
宇佐の最も旧い祭祀者・辛島勝氏の勝はカツと読み、山背の秦一族がこれをスグリと読ませるのに対して、同族ではあっても別種のにおいを感じさせます。ちなみに村主と書いてスグリと読ませていたのは百済系渡来の漢氏や文氏であります。新羅系加耶人といわれる秦氏や波多氏は勝の字を用いていたようです。なお波多氏はハダと読み、敦賀の気比神宮の祭祀者は波多氏の一族である敦賀氏で、これは宇佐の元宮であるという香春神社の神官と同じです。ここは敦賀氏と赤染氏が祭祀を務め、同族の長光一族が銅鏡を鋳造して八幡放生会にご神体として献上していました。先頃香春町ではこの神事を復活させましたが、宇佐までは行かないようです。
波多氏が日本書紀に秦氏より先に出てくるのを見ると、おそらく秦氏はあとから豊前にやってきて波多氏をおいやったのかも知れませんね。とするとアメノヒボコの神妻・あかる姫というのは波多氏のことかもしれません。
気比の神はツヌガアラシトという説もあり、ヒボコとツヌガアラシトはそっくりさんですからやはり同族だったのでしょう。
出雲大社を守る出雲国造氏は朝廷からおおせつかって大国主の神霊が現れぬよう見張っているのですが、宇佐神宮もかつては大神氏という、大和大三輪出身と豪語する神官が監視にやってきていました。これは大和大神神社の大物主を監視する大三輪氏の名を権威としたのでしょう。
また宇佐氏は中臣氏との血縁を書紀の中に書かれていますが、つまり中央の権威に取り込まれた地方豪族の悲哀を示しているのかも知れません。しかし辛島氏は逆に、応神天皇という聞いたこともないであろう河内の大王の神霊を押しつけてこられ困ったことでしょう。これは渡来系の彼らが祭っていたあかる姫や豊比刀Aそれに西王母などとはまったく違う男神でしたから。これは太陽神だった大物主=ニギハヤヒ命が天照の尊称を天照大神に盗られたのに似ていますね。それが権力者のやり方なのです。
宇佐の北辰社の真横には今、中臣氏の神である春日社が置かれています。監視しているのです。また中央の比売神は
両側に応神とその母・神功皇后に挟み込まれるように祭られております。そして出てくるなと四拍手で封じ込められています。その証拠に東に追われていった人々の恨みが国東の鬼やヶベスの出てくる祭りに残されたのでしょう。
道教はやがて密教を取り入れ修験道へ発展します。山に入って修行するのは鉱物資源の調査でもあるのです。九州の白山信仰は求菩提山〜英彦山へと移って行きます。そこから白山菊理姫というこれまた姫神が生まれました。またキクですね。この教義を調べて行きますとこれが弥勒信仰にそっくりなのに気づきます。弥勒といえば秦氏ですよね。広隆寺の弥勒菩薩は新羅様式です。平安京は百済派の天智天皇の血を受け継ぐ桓武天皇が秦氏の本拠地にぶったてたのですがおかしいですね。葛野と呼ばれ、草ぼうぼうの荒れ地だった所だし、奈良から見れば鬼門の方角ですよ。秦氏の治水技術でようやく豊かになり始めたところを、これは簒奪ですよ。大和川は能力の限界だったんでしょうね。その前のたった10年の都・長岡京も秦氏が住んでいたんですよ。また平城も渡来系葛城氏の開発した葛城も天皇に土地を譲ったんです。それからもちろん伊勢も。伊勢神宮造営のために猿田彦の一族が土地を譲ってるんです。伊勢にはそうかかれてます。だから外宮に申し訳に豊受大神という秦氏の稲荷神である宇賀の御魂の神を祭ったんです。それから鴨。上社は天皇家が作った。下社が本来の鴨のかみです。あそこは皆鴨氏の土地でしたのにね。先住者は常にあとからきた征服者に簒奪されるんです、ネイティブアメリカンのように。それが人のなりわいであります。パレスチナもそうでしょ。新羅と百済もいまだに仲が悪い。そりゃ逃げ出したくなりますわな。日本は天国だもの・・・

『RE『ヒの象形文字』』
管理人 2004年10月28日(木) 5:45:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 卑弥呼のヒについて、いろいろ漢字の語源からお知らせありがとうございます!ヒの語源、なるほど手を合わせて祈るという意味があるのですね。北の字にそんな意味があるなんて驚きですね。勉強になります。どちらにせよ、紀氏さん的には卑弥呼のヒは、日ではないということなのですね。古墳の鏡はやはり紀氏さん理論では、星空北斗七星に関係する測量の道具ということになりそうですが、ヒの文字も北斗七星のさじ型に関係するとなると、北斗の北とか・・、その辺のヒ関連の漢字は、すると星空祭祀と関係して中国では使用されたのでしょうか。
渡来系氏族の倭漢氏の祭祀にも牛の教えで方位を占う記述がでてきますが、そのヒの字に関していうと倭漢氏の一族に皀郭、皀という中国姓を持つ高句麗系?氏族が渡来しています。皀の意味事態は確かクロの意味、ソウと読み、辞典で調べると確かに紀氏さんご指摘の先の書き込みと関連して同じく馬屋の意味がありますね。皀衣と書いて、漢代の官人の衣服の意味で、同じく皀姓のかれらもどうも長幡部氏などを輩出するように衣服関連で関係します。祭祀というよりはクロの衣服作りと関連するのかもしれませんが、ヒの意味からいくとやはり祭祀に関するでしょうか。倭漢氏の領域に作られたキトラ古墳にも星図が描かれていることを考慮してみると、関係性がでてきたらおもしろそうな気がしますが考えすぎかもしれません・・。通説ではその皀姓は七姓漢人と呼ばれる一族で、やや新しい時代に倭漢氏が取り込んだ渡来人で彼らの出身地は高句麗と関係性が強いようです。さらにさきの倭漢氏の牛の占い伝承も彼らが中国から高句麗方面へ移動する際のものですから、いつごろどこの国から倭漢氏が導入した伝承かが気になります。いろいろいつも貴重なご指摘ありがとうございます。

『補足します。』
イバラの紀氏 2004年10月26日(火) 14:1:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 補足します。
「皁」ソウ(草と同じ字✝✝?)・・・・すみません、「早」の日が白(このような字形++ どんぐり・くろ・かいばおけの意が有るそうで橡の実からきているそうで「草冠」はこの橡トチの実「白」が原義だったそうです。十字架の頭が白いクロス???案山子?目印 ?「白」は頭がい骨・骨の色だそうです、「白虎」は西・日没・死・骨・・・・ 否、 西方の恐ろしい白人かも?  甲骨文字などの古い字形には、食材として火にかけられた字形や「楽」の字形に使われています・・・・・古代は恐ろしそうです。       補足 の紀氏でした。

『「ヒ」や「ト」は「人」』
イバラの紀氏 2004年10月26日(火) 12:54:39 削除・編集 スレッドの一覧・返信
今朝、遅ればせながら閃きました。「人」ヒトの甲骨文字などの古い字形は、「ヒ」や「ト」の古い字形なのです 人が人を支える形では有りません。「旨」シ(到着の意)は「詣」モウデ(神仏へおまえり) 「ト」は「占い」の意が有るなどから「斉しい」ヒトシイ・・・・「斎」の意も有ったのです。「旨」シは「日」(古い字形には「口」でも有り、禹の父「口」の塚(墳墓・測量台)の上で北・「玄武」(祖先の霊・蛇ミと亀キの交わり)・北極星(宇宙の主星)に「詣」モウデるのが神がヒトに望んだ姿なのだと思いました。
「蛇ミと亀キの交わり」(定規とコンパス・線♂と円♀の交わる「点?」)    ミ(男?)=未(ユダヤ・ヒツジ・まだ)・壬(壬生?)・箕・御・・・・・と キ(女?)=規(測量?)・木・紀(紀氏)・黄(中国?)・来(未来)・箕(?)・姫(臣の娘)・・・漢字は星座と神話に測量に民族が係わり発展したのです。
偶然にクロスに関係? 「皁」ソウ(草と同じ字?✝✝?)どんぐり(白と同じ字形?)・くろ(クロス?どんぐりで染色)・イ・かいばおけ(キリスト誕生?)やはり 漢字は星座と神話に測量に民族が係わり発展したのです。
 閃く漢字が沢山有り、気がせくばかりで まとめることが進まず 頭の中がワープし放題 トホホの紀氏です。

『ヒの象形文字』
イバラの紀氏 2004年10月26日(火) 2:44:48 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こんばんわ。
<呪術信仰におけるヒの発音、いかなる意味をもっていたのか興味深いですね。

「ヒ」さじについて考えを私的に述べさせていただきます。「ヒ」の甲骨などの古い字形では「人」が手をさしのべている形や手を合わせ祈る形に見える形のものも在ります。下にも手を形をつけると「神」の「申」サルや「雷」カミナリ(神也)の形に成ります。「北」の「ヒ」は禹が北方・「玄武・祖先」に祈る形と考えています。さじ(スプーン)には掬う・すくう・「救う」(助けるの意)が有ると考えています。他に短剣・あいくち・やじりの意も有り「鬯」チョウ(器に米を入れた形の下にヒ)象形なかには酒甕に手を合わせ祈る形の人を入れる形(豊穣をもたらす行為の形)も有り、「甘」の象形 酒甕に入れられ生贄にされた禹の父「口」を思い浮べました。(私は、銅鐸は酒甕に逆さに入れられ生贄にされた禹の父「口」・甕棺・測量での三角点と考えています。) さじ(スプーン)・短剣・あいくち・やじりなど意は「北斗七星」の変形から生じた象形と考えます。象形文字には、星座や旧約聖書・治水・測量などからの文字が沢山有ります。

「日売」ヒメから古代伊勢神宮の裏で巫女が売っていた話を思い出しました。豊穣・・・古代はおおらかで現世利益だったかも、秦氏は商売が上手な西方の商人・ユダヤの商人?だった秦の始皇帝も。
    妄想の紀氏でした。

『天文学、日子、中臣氏』
管理人 2004年10月25日(月) 5:49:26 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、夜遅くまでご考察ありがとうございました。紀元についてはカトリックでも、イエスの生誕について、紀元前のいつかでいろいろ論議があるようですね。また、ローマ皇帝が天文学者の意見を元に定めたとのこと、おもしろいですね。ローマ皇帝というと、先ほど電車の広告に明日25日から4日間、ローマ皇帝最後の館という、発掘番組が、夜放映されるそうなので、楽しみにしています。また紀氏さんご指摘の東洋の易、や思想などが、またどういうふうにローマ皇帝に影響を与えたのか?など、非常におもしろい課題のように感じます。
卑弥呼が日の巫女か、火の巫女なのか、彦が日子か、火子か、難しいところですね。根子の根は、スサノオや木俣神の出てくる根の国の根と、根の意味が同じかどうかと感じますが、古事記だと、根子日子というのもいるし、日子根神もみれますね。日子、日売の時代から、比売、日売が使用分類される時代、いろいろあるようですが、たぶん古事記の成立したことには、日+子に対する信仰ができていたのかもしれません。が、それ以前は案外火+子だったり、ヒの意味がどうだったのかが気になります。確かに卑弥呼のヒやヒナモリのヒ、紀氏さんご指摘のとおり、呪術信仰におけるヒの発音、いかなる意味をもっていたのか興味深いですね。
大国主、出雲神話とは切り離せない感じですが、鹿島、香取もご指摘にそうともともと出雲系で、蘇我も出雲系であったとすると、それをことごとく討伐した中臣氏という存在は大国主信仰ではなく、アマテラス信仰にあったということなのですね。確かにそうですね、中臣氏が後から入ったというのは、通説のひとつになっているようですが、一方でもともと中臣が鹿島にいたとする説もあるようですね。ともかく蘇我や中臣が関東に進出してはじめてアマテラス三神の信仰が神社に導入されたのでしょうね。すると、亡命渡来人が関東に進出した天武から奈良初期にかけてと重なりそうですが、鹿島神宮の霊剣を石上のそれを技術的にも模造したのが奈良初期で、710年代の藤原に関する関東各地の伝説と、高麗系渡来人の伝説の成立時期にかかわってくると思うのですが・・。やはり東国三社の成立のうち、息栖神社については、奈良時代とされますから?、二社から測量をしてここに神社をおいて三神にしたのも、中臣、もしくは蘇我系測量集団?となるでしょうか。ともかく、出雲系と中臣・忌部系の信仰がやや相違していたであろうということはやはり重要ですね。出雲系の教義がスサノオ、大国主にみられる英雄物語を含有した変則的な多神教であるのに対し、中臣・忌部系がアマテラス三兄弟および住吉三神を中心にすえた三神教となりますね。ご指摘のとおり出雲系が南方海洋民族的な側面を持ちながら日本にいたり出雲・諏訪・伊勢・鹿島への流れをもつ柱信仰を中心としたものであるのに対し、中臣系は九州オオ氏と関連しながら、それより後に入ってきた信仰するということになりますね。でも中臣と九州オオ氏の関東への壁画古墳の流れは、6世紀?とやや古く壁画古墳内部の南方海洋民系の渦巻き文様などはまた出雲系のそれと共通するのでしょうか。いや、もともと忌部氏が祀っていたアマテラス祭祀を中臣が奈良前後に横取り導入した形をとるので、最終的には出雲・鹿島系と中臣系は近い線にあり、忌部系というのが三神信仰の本来の導入者という線でどうでしょう。忌部氏の氏族範囲がわりと畿内を中心にしているので、出雲や中臣系とは相違してダイレクトに九州をほとんど経由せずに畿内に入ってきた信仰である可能性もあるかと感じますが・・・。出雲や吉備のスサノオに関連する古代ギリシア的な英雄物語的信仰については、その吉備の信仰がかなり九州南部を経由しているふしがあり、畿内に進出する形跡を持つものですが、百済亡命氏族関連の伝承も九州から吉備を経由しているようで、最後の西方トカラ人関連の伝承もやはり九州を経由して畿内にダイレクトに向かう形跡をとりますね。どれにせよ、当たり前といえば当たり前ですが九州を経由しているといえるでしょう。が、問題は吉備を経由しているかどうかにあるのかもしれませんが、ともかく三神信仰が導入された時期は、忌寸姓が成立した天武より少し前ごろがその時期でしょう。
ともかく、欧州でのケルト、ギリシア神話の多神教時代からユダヤ教の進出からその後のキリスト教の展開に類似する構造が、日本では縄文呪術信仰時代から出雲・諏訪系の英雄物語を含有した柱や神殿と関わる海洋+農耕民的多神教が入り、さらに日神と女神要素を含んだ教義的にしっかりした三神教が上に重なって現在の神社信仰が成立している点にみられるということですね。とはいえ、まだまだ考えとしてははっきりしない部分が多いですが、ともかく日本が世界の文化の流れの終着点という溜まり場的性質を持つゆえに、そうとう神道が世界中の文化的影響を含有して成立していることも当然なことで、その階層構造を明確にして客観視していくことが重要で、先の測量学や天文学、建築技術と祭祀との分析からよりいっそう明らかにできるのではないかと思います。ではまたお休みなさい。


『無題』
イバラの紀氏 2004年10月24日(日) 6:0:16 削除・編集 スレッドの一覧・返信 昨晩の、新潟(越)地震の被災者の皆様にお見舞い申し上げます。
7世紀以前の時代背景には私も困惑しています、古代史愛好家(研究家デハナイ)なのでアバウトな妄想で申し訳ございませんが述べさせていただきます。
日本書紀に、666年に2000人に及ぶ百済人が東国に送られ、『その後も多数の百済・新羅・高句麗からの帰化人が東国に送られたとの歌は諸国府の帰化人が記録したものか?、』(諸風土記は藤原・壬生氏らが編纂に係わったらしい?)日本書紀からの経緯と年代について疑わしいので困りました。
古代日本の先住民は、北からのマンモスハンター(狩猟民族)とミクロネシア辺りから海流に乗って来た海洋民族(海蛇族・体に刺青 漢民族の祖と同じ海蛇族)そこに「古代夏王朝の測量士」禹王(胡人らしい。)は中国を測量して九州をつくった、タカラマカン砂漠に消えた測量軍団もいたらしいので日本に測量に来た可能性があると思える。
春愁時代に「越」や「燕」(鳥の名・大鳥・ヤタガラスなどは測量関係者?)などからの渡来が考えられます。前500年ごろに魯(魚キリスト・ユダヤ系の国 孔子・墨子の故郷?申し訳御座いませんキリストの話は捏造では?キリストの誕生年・西暦は525年くらい後に中国の易により吉日を逆算したらしい)
『キリストの誕生を紀元にするとしたのは西暦525年になってからのことである。ローマ教皇ヨハネ3世は修道院長で数学者、天文学者でもあったったディオニシウスに計算を命じた。当時はディオクレチアヌスが即位した年(紀元284年)を元年とするローマ暦が使われていたが、彼はキリスト教徒を迫害した皇帝として悪名が高かった。修道院長のディオニシウスは「主が人の姿をとって生まれた時から年を数え、表示した方がよい」と提案した。それが「我らが主の年」(アンノ・ドミニ)すなわち、我々が西暦紀元の略号として使う A.D. である。ディオニシウスが「キリストは 525年前に生まれた」とした根拠は定かではない。マタイの福音書によれば「イエスはヘロデ王の治世に生まれた」とされているが、ヘロデ王は西暦紀元前4年に亡くなっている。歴史的事実に即してキリスト生誕を西暦紀元にするならば、元年の年を変えなければならない。』
(キリスト教は最初、遊牧民系ユダヤ人・ゼウスと農耕・海洋民族系漢民族・ポセイドンにより始まるが月・星に関連が深い農耕・海洋民族が異端・悪魔ルシファーとされた。)妄想です。
前221年秦立国(始皇帝は西方の渡来商人?)、このころ徐福来日か?・・・・・前206年 秦が滅ぶ
130年頃  カニシカ王が仏教を保護 ギリシャ彫刻の影響を受けた偶像(仏像)とキリスト教教義教義を中国に伝える。
        中国では神仙・儒教・ゾロアスター・ヒンズー教的原始宗教などが入り乱れていたらしい。
       蘇我氏(出雲系)はキリスト的教義の仏教導入で物部の鬼道的お告げによる朝廷の支配を終わらせようとした。
184年頃 黄巾の乱 倭国乱れる 狗奴国と邪馬台国争う 五斗米道(鬼道)伝わる 青銅祭器、甕棺墓姿を消す
189年頃 卑弥呼王に立てられる
204年   卑弥呼、倭国王として承認される
230年   呉の孫権徐福の子孫を探す(徐福の子孫が弥生人?物部?秦氏の親類?)
238年   卑弥呼、魏に使者を送る。
239年   卑弥呼、親魏倭王の印授・銅鏡を受ける
313年 以降唐代7世紀にいたるまでローマでキリスト教が公認され唐に影響を与えてきた。
      銅鐸(禹の測量では甕棺・生贄を兼ねる。)・銅剣・による測量が出雲系渡来人により行われた。
      古墳と鳥居・銅鏡・銅矛(鉾)・円筒形埴輪などによる秦氏系渡来人による測量が行なわれる。
529年  百済より仏が像献じられた。
      神仏習合による寺社・山伏による国見(朝廷による地図の作成)と成る。
635年   景教が唐の時代に伝来したされる(がモーゼの時代のユダヤ人がキリスト教的教義をすでに持っていたのではとの妄想。)
       (1600年頃までにイエズス会による世界地図が完成している、紀元前よりユダヤにより世界の測量が行なわれていたとの妄想です。)

卑弥呼は日の巫女では無く火の巫女か月の巫女(太陽の光を反射する鏡が御神体だし鬼道では太一(北極星)が祭神だから。ちなみに漢字の甲骨文字に星座の形が主となっています。
鹿島神宮は中臣氏により出雲系の神社を乗っ取られたようだ。香取神宮の富津主はユダヤ系の中臣氏より海蛇系の出雲族系だったらしい。
経緯と時代について、あいまいなまま夜明けを迎えた妄想漬の紀氏でしたオハヨウ御座います。おやすみなさい。

『RE『鹿島神宮の婆伽羅龍王』』
管理人 2004年10月22日(金) 2:3:11 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、こんばんは。ようやく多忙の日々からすこし開放されお返事できそうです。先日からいろいろ貴重なご意見ありがとうございます。安部晴明が鹿島神宮にゆかりがある話、その地での婆伽羅龍王からの陰陽術の話、猫!とのかかわり、かなりおもしろいです。根古、根子の語と天皇とのかかわりについては、先日紀氏さんご指摘の春日氏、和邇氏系図にも、「難波根子建振熊命」と見えますね。天皇家の系図としては、彦+命、根子+命と名づけられる時代から、各氏族が分岐する時代へと移りかわっていくようですね。日+子、根+子、この相違は、祭祀面ではどういう相違になのでしたっけ・・・。それにしても、和邇氏、春日氏はこの難波根子建振熊命を祖としており、出雲、物部、春日という神道祭祀家各派の祖となっていることを考慮すると、重要な家系ですね。かれらが海部人として、水軍、測量に関わっていたというご指摘にしたがうと、確かに全国各地に広く展開している意味や、東国三社にみられるような高度な測量が可能になった意味も、解明されてくるかもしれません。先の系図に八千宿禰命〔吉備穴国造〕とみえ、その次世代に難波根子建振熊命、額田国造と、畿内の地名がでてくるのも、また重要ですね。本来の征伐神話に従えば、逆になるべきですから。最後に、住吉三神との関連ですが、東国三社が3神に対応していることは知られておりますが、そもそも、難波の住吉三神については、鹿島の三神が祭られる以前に由来するものか、あるいは中臣が朝廷に出てからそうなったのか?壬生氏らが展開した7世紀中葉ころに、近畿から伝達したのかなど、経緯と時代について、あいまいなので、お教えいただければ幸いです。

『鹿島神宮の婆伽羅龍王』
イバラの紀氏 2004年10月21日(木) 20:35:38 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理さんこんばんは、東国三社について興味もっていただき感激致しております。以前「安倍晴明」が茨城の明野町に生まれたとの言い伝え お疑い?と思い補足いたします。「安倍晴明は鹿島神宮で婆伽羅龍王(婆伽羅龍王の婆伽羅が迦波羅=カッバーラのアナグラムになっている。鳥の言葉がわかるとは、魔術用語を理解できるようになったということ。  引用ーキトンボさん)から鳥薬を授って、鳥たち(ヤタガラス)の言葉がわかるようになり、陰陽師として成長していったといいます。」と平将門怨念ツアー 「飛んだ首の謎 晴明誕生の謎2編」をご覧下さい。「婆伽羅龍王」から「カバラ」ユダヤ。「筑波根真壁郡を尋ね見る何国よりか猫子数千匹あつまり吉備大臣の前後左右を取り囲んで公一足も進むべきもなし。大臣不思議に見る所にその里の童子ども□多(あたま)来るを見侍るに数千の猫子忽しに在所(あるところ)なし。是よりその里の在名として猫嶋村といえり」の「猫子数千匹」から「ネコが多いー( 猫=根子とは、天皇の隠語。となれば、猫島に生まれたという安倍晴明は、当然ながら天皇家と深く結びついていることになる。引用ーキトンボさん)  明野町の東、筑波山を越えた八郷町の「根古屋」が有ります「猫屋」なら「天皇の隠語?住まい?」平将門が天皇の血縁?だったら安倍晴明は平将門の血縁(母方?)?・・・・妄想です。  ネコが多いー道教における「北辰」は「太一神」と同一視され、神道では「天御中主神」、日本では「子(ね)の星」から「子(ね)」=エジプトの猫(スフィンクス・?)=黄帝(十二支のトップ・中国皇帝のトップ)   日本では 「オオタタネコ?」多多種子  太田根子・・・・無理ですよね。  ユダヤ国造り・・・妄想妄想の紀氏でした。 

『ネコというのは・・・』
そうだすい 2004年11月7日(日) 1:41:51 削除・編集

『RE『始めまして♪』』
管理人 2004年10月20日(水) 2:46:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめましてみにぃさん。渡来人について、ほんとにわずかしか知らないので、またなにか渡来人について新たに知識を得たら教えてくださいね。
ところで、たとえば先日の鹿島神宮と香取神宮と息栖神社、直角二等辺三角形でそれぞれ北と西に正確に位置しているとされますが、その辺奈良時代初期の、都作りなどでの、測量方法と技術者、およびその正確性について、どなたか教えてくれませんか、よろしくお願いします。

『始めまして♪』
みにぃc 2004年10月14日(木) 22:4:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 始めまして♪みにぃcと申します!
私ゎ中@で、今、社会の時間に、
渡来人について調べています。
みなさんゎ、渡来人について、
どのくらいの知識をお持ちですか?

『萩原恭次郎』
泊瀬 2004年10月12日(火) 2:58:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信 今晩は。彼については私もはじめて知った次第です。彼のやったことは人間の誉れだと思います。私も調べますね。

『RE『質問です!』』
管理人 2004年10月10日(日) 23:56:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 未未さんはじめまして。古閑姓について検索しましたら、以下の神奈備さんのHP掲示板でとり上げられたいました。
http://www.kamnavi.net/log/yumv0308.htm
平野社に祀られた古開神→古閑と線で成立した姓らしいです。平野社を祀った桓武天皇の母方系の渡来人などに関しては、うちの今来漢人についてのページで説明いたしているので参考にしてみてくださいね。では取り急ぎ。

『ありがとうございました。』
未未 2004年10月11日(月) 2:5:15 削除・編集

『質問です!』
未未 2004年10月8日(金) 0:57:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 『古賀』、『古閑』姓は朝鮮から帰化した人々の末裔だと聞いたのですがどの位の年代に渡って来たのでしょうか?
ご存知の方、是非教えて下さい。

『茨城地震?』
管理人 2004年10月7日(木) 0:47:0 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんの予知でしょうか?噴火ならずも、茨城で震度5の地震がおきて大変でしたね。神は紀氏さんにはどう現れましたか?
茨城の鹿島、香取神宮、および息栖神社という東国三社について、最近特に興味もっています。住吉三神との関連、出雲の神との関連、藤原氏、壬生氏との関連、非常に興味深い課題ですね。
泊瀬さん、萩原恭次郎についてお教えいただきありがとうございます。ほとんど知らないのですが、今度彼らの社会運動についてなど調べてみたいと思います。作家の泊瀬さんにとっては、どういう人に映りましたか?
ちょっと忙しすぎるので、また今度時間できてきたらその辺のことお返事いたします。

『ごめんなさい訂正します。』
イバラの紀氏 2004年10月6日(水) 13:10:55 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ごめんなさい。
『「斎」サイ・セイ(再生?)の文字です』は、間違いでした「斉」サイ・ゼイでした。謹んで訂正させていただきます。   紀氏。

『「神」いや「主?」を見つけました。』
イバラの紀氏 2004年10月6日(水) 11:11:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 漢字と言い伝えから「神」いや「主?」を見つけました。
「山の神?」・「山」を「神」と崇める信仰から、大地(地球)を万物を産み出す「母」と考えたときに「父」はだれ?と考えました。
万物を産み出す「母」なる台地の穴=火山=女・・・・・女人禁制 (ジェラシィー?)の風習から。火山がXXなら
閃きました!    「光」の字形の内にお腹が孕んだ様なひざまずく女らしき形の上に「山」(火にも?)の字形のものが有ります。
最初は、夜の火山の山頂がマグマで赤く見えた形から 「光」の字形が出来たのだとハヤトチリしてました。大地(地球)が出産(噴火)するには性交しなければ生りません。! 山頂の雲・・・・天つ神が住む天上界(雲の上)に神がいて、火口と交わる現象は?
!イナズマ・そうです稲妻です。字形の「電」を調べると、なんと「雨」の下に「神」の字形なのです。さらに雷ライの字形は、「雨」の下に「神」と「田」字形が4つのものや「口」の字形(禹の父)や「斎」の字形に有る(菱形)が複数の形なのです。(イナズマは、アロー赤い矢・龍(蛇・精子?)妄想?) 「田」字形が4つのものに「ムササビ(鼠+吾)・ルイ(3つの田の下に鳥)・・・吾=禹・鳥=測量士!(干支・十二支の順序は、聖徳太子の「冠位十二諧?鼠ソ=(祖・蘇・楚 )=主(ヤフェー?黄帝?)・「 丑=尭?ギョウ・ 寅=舜?シュン」(禹は漢字から読み解くと、上司の虎を嫌っていたので虎を「尭?ギョウ」で丑を舜?シュン」と考えていたのでは?と思います。) ・兎ウ=禹ウ=(烏ウ・胡ウ)・ 辰? ・巳(海洋民族・海蛇) ・午(騎馬民族・秦?) 羊(遊牧民・12-2部族) 申(サルタヒコ) 酉(ヤタガラス・匈奴?・鮮卑?・烏桓?) 戌(狗・狛・イラン人?) 亥 (エビス ユダヤ人?)の妄想です。
「雷神」から「ライディーン」が閃き、検索するとユピテル(ライディーン)はローマで最も古い神の一人。天空神で気象天候を司る神でDieu Pater(天なる父よ)という呼びかけが名前になり、Dieu=Djeusはゼウスの語源と同じでイタリア・ローマの神で、ギリシャ神話のゼウスと同一視されるとありました。ユピテルの他の呼び方としては「至善至高のユピテル」「雨を降らすもの」(龍神?)偽誓者を打つ、又は平和をもたらす神」「ジュピター」ローマの3主神の一人 妃ユノ(Juno)、娘ミネルバ(Minerva)とともに国家神として祀られ・・・もしかすると「斎」の字形に有る(菱形)とは他の2神妃ユノと娘ミネルバ?では、・・・・・・・いや、「甲骨文字」とヨーロッパの「古代神話」とではどちらが古いのか?????いや、双方に共通の古代文明が存在か?
 かなり核心に近づいたと自画自賛の紀氏でした。

『まとまりのない 紀氏です。』
イバラの紀氏 2004年10月4日(月) 17:40:33 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こんばんは、急に秋を飛び越えたような肌寒いこの頃です風邪などには気をつけたいものですね。相も変わらず御付き合いください。

春日氏・和邇氏・壬生氏が兄弟、富士氏(浅間神社社家)・・・物部・小野・諏訪・・にも繋がるのです。
『日本の苗字七千傑』や
『姓氏家系大辞典』所蔵「和邇部系図」などから、      
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01203.htm
の文字を見て「ムム・・これは、鳥族では! 推-てへん=「隹」スイ・サイ・トリ(測量関係者に使われる文字・・・私の考えです) 
鯨子臣の所に「壬生」の文字が円仁は壬生氏の出身です。(壬生氏は藤原氏と関係が深いと考えます。)
和邇氏には皇別の和邇臣の春日氏、出雲系の和邇君の三輪氏、近江の和邇部の丸部氏、の三種類存在するそうです。
 出雲系の阿田賀田須命が和邇君の祖らしく宗像氏の祖でもあり(春日神宮の末社に 宗像(むなかた)神社がある。)出雲の水軍を支配した海人族では?との話も聞かれます。
和邇臣は、天足彦国押人命を祖とする春日氏とも称するそうで春日神宮(タケミカズチ・フッツ主との係わりが深い?)
私はタケミカズチ(鹿嶋神宮・藤原氏)・フッツ主(香取神宮・壬生氏)そして天鳥船神(神栖神社・岐神?除厄招福の神?上筒男神・中筒男神・底筒男神・・・・・住吉三神?) 和邇部は、海人族・水軍?海上からの測量?・・・・又もや妄想が
神栖の「栖」スの文字には西方・鳥の巣の意が有ります。(鳥の巣=測量士の国?)またセイ・棲(鳥の住みか)「妻」の文字には 巾(はば)と 寸(はかる)の様な文字が含まれている。草冠(並ぶ十字架・測量?)+妻=セイ・そろって美しい意の語源「斎」サイ・セイからきています。あの!「斎」サイ・セイ(再生?)の文字です。
 次に、
八十神(大国主神話)、八十梟帥(神武東征)、八十人兄弟(景行紀)、の八十の八は産む(穴)、十はキリスト=八十は主・父・ヤフェーの様です。(人類は皆「兄弟」です。)ちなみに・八幡は八は産む、巾(幅の略字・織物)+バン番(中国の西方の住人・外国人・バンの音の意は漢字はおもしろいです。)

発見!  漢字の「思」の田の字はタではありません、「鬼」(黄河の治水と中国大陸の地図造りに鬼となった禹を表わしている漢字です。)の頭の形・「ひょめき」(乳児の頭の全頂部で、骨と骨の間のすきま。・おどりこ。)の字形なのです「思う」頭脳の心で心臓ではないことが知られていたのです。
相も変わらず、まとまりのない 紀氏でした。  

『☆9月6日、流言蜚語で自警団に襲われる朝鮮人を前橋駅構内で庇』
泊瀬 2004年10月4日(月) 3:24:42 削除・編集 スレッドの一覧・返信 古代史に関係なく申し訳ありませんが、萩原恭次郎という詩人のことを知りました。
http://www12.plala.or.jp/anarchism/hagiwara-chronicle.html

『RE『田に字は卍・萬字から』』
管理人 2004年10月3日(日) 16:12:37 削除・編集 スレッドの一覧・返信 なかなか忙しくお返事できない今日この頃です。蘇の字についていろいろ用例お教えいただきありがとうございます。中国で蘇の字がなるほど多く、当て字としても使用されていますね。耶蘇教、邪馬台国、蘇州、蘇因こう、蘇の字と中国王朝側からの視点、気になります。あと、キリスト教徒、宣教集団と地図測量、中世もそうですが、古代にもそのような思想があったかどうか、キリスト教史を考えて見なければなりませんね。

『田に字は卍・萬字から』
イバラの紀氏 2004年9月30日(木) 10:25:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 おはようございます。     また閃きました。  「卍」(バン・マン・まんじ)ビックバン?・マントル?万事?(「万」マン・バン 解字 仮借。数詞の万には古くは「萬」の字が用いられた。萬はさそりの象形。共にその音をかりて大数を表わす。一説には西域の数詞「卍」の変わった形という。)「萬」はさそりの象形の他に○に+(田に似た形)に東西南北を表わす形のものも有ります。卍は左廻りです(北半球で見える太陽は左から日の出、右に日没で地球が左廻りに自転しているのが感じられます。では南半球からは太陽は右から日の出、左に日没で赤道上では????前から後ろ?・・・・・・・「行基図」には東西南北が逆さの図が存在します。(行基図の制作者は南半球からも日本を見ていたのではないでしょうか。?)世界地図を完成させたのはイエズス会(キリスト教徒)だそうです、ある古代地図には南極大陸に氷の無い時でなければ知ることの出来ない地図が存在するそうです。(南極に氷が無い・・・・地球が温暖だった・・・大雨・大洪水・水没・・・ノアの大洪水の時?)もどります。私は以前より「田」の字を地図と言い続けています、これは禹が測量した図を最初「楯」たて・方形の木の盾に彫りこんでいたとの考えからで後には布に描いたと考えます。(測量作業は軍隊(臣・連)が「扶フ」(地元の農夫を「役」労役で使ったと考えます。) 日本の古墳内にはキリスト教関連の埋蔵物が発見されています。イエズス会(キリスト教徒)は古代日本でも地図造り(測量作業を行なっていたのです。) 出雲の民も銅鉾・銅剣・銅鐸などで・・・・北半球からの「卍」と南半球からの「卍」を重ねると「田」の字に成ります。・・・・いかがでしょうか?    今朝の紀氏でした。

『「蘇」「我」考』
イバラの紀氏 2004年9月30日(木) 3:30:58 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こんばんわ  「蘇」「我」をまた考えました。
「蘇」ソ・ス・よみがえる 蘇水ソスイ・・・木曾川を中国風に呼んだもの。蘇州・・・今の江蘇省呉県。蘇武ソブ・・・前漢の忠臣、五言古詩の創始者のひとり。他に蘇の姓が多いが、小野妹子オノノイモコを遣隋使の時に隋の人が蘇因高ソインコウとの字をあてたそうです。小野の姓は高句麗からの渡来人でした?ような?。
「我」ガ・わ・われ(吾・予・卯ウ・台(測量台)・余・俺・朕チン・僕・魚(キリスト教徒)などが「われ」の意の文字で、漢字のモデルとなった「夏カの禹ウ」のム私やヒなど禹に関係の深い文字です。)
地名や姓名にカ(夏・・・繁栄をあらわす。華(中華)・鹿(鹿嶋)・珂(那珂)・香(香取)・箇・日・霞・化・科・火・・・などなど)・ミ(蛇から・・・壬(壬生)・巳・三(主・神・霊)・箕・御・魅・身・見・彌・・・・などなど)・ウ(禹から・・・羽・卯・兎・鵜・胡・菟・宇・烏・右・芋・迂・雨・・・などなど)カとミで神とかウとミで海・産み(壬生)・・・再生(ウカ羽化・・・天使になること)
漢字を調べれば調べるほどに夏の禹カノウ・叶  治水と測量・天体(占い・北斗七星)・旧約聖書(景教?)・禹との人間関係・ 中国神話などなどの文字の意味に見えてしまいます。
「蘇」ソは耶蘇ヤソ(キリスト教徒)の蘇・蘇州(呉かまびすしい・・・田の文字が3〜4の文字)の蘇 耶蘇ヤソの「耶」ヤは耶馬台国の「耶」耳+こざとへん(阜・おか)阜は山東省にある孔子の故郷)耳は聞くキクで菊の紋章でインダス文明・「田」は地図・阜・おかは、台(測量台)・・・妄想が駆け巡ります。蘇我は我・魚(キリスト教徒のシンボル)は耶蘇ヤソ(キリスト教徒)蘇=くさかんむり(++・2つの十字架・測量での目印で鳥居も同じ)+魚(キリスト教徒のシンボル)+のぎへん(木に神がうつる)・・・・・・・このような状態の紀氏なのです。  おやすみなさい。

『蘇民将来と蘇我氏』
管理人 2004年9月29日(水) 21:18:44 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんご指摘のとおり、蘇民将来のお話の中で、牛頭天皇がでてきますね。蘇我氏と仏教のかかわりは深いですが、朝鮮のかかわりでは、蘇我韓子、蘇我高麗という朝鮮系の名前を持つ祖先がいますね。かといって蘇民将来の伝説と蘇我氏との間に関連性がみいだせるかというと、わからんのですが、たとえば、6世紀の仏教での蘇や我の字、あるいは朝鮮あたりでの蘇の用法など、その辺から手繰れないかと思いますがどうでしょう。

『将来蘇る民』
イバラの紀氏 2004年9月28日(火) 11:27:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん、泊瀬さん、今日は。
日本書紀での高天原 (エデンの園・メソポタミア )を追放された素戔鳴尊(アダム・モーゼの民?)は、朝鮮半島の牛頭という土地に住んだ、素戔鳴尊が牛頭天王になり新羅の牛頭山から(カナンの地)神奈備?に・・・・・・妄想もここまでくると?  崩壊寸前でしょうか?    危氏でした・・・・・・・・・・・・・・・・・
(モーゼの民は世界に広がり商工業や医学・化学・音楽などなどを発展させ資本家として国政にまで影(カバラ?)の力で操り世界を資本主義競争社会とすべく誘っている、武器を売り破壊と創造(戦争)をおこし貧富の差をつけピラミッド型の資本主義・カースト(ユダヤによる固定社会を完成させるべく最後の聖戦ハルマゲドンを目指している。その頂点にはアメリカ・イギリスの闇の資本家(?)が・・・・・紀氏でした。

『民族虐殺』
泊瀬 2004年9月27日(月) 19:52:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 許されんことです。悲しい。

『大久保コリアン街探索』
管理人 2004年9月27日(月) 15:31:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先日在日朝鮮人の方が多く住まわれる大久保周辺を巡る企画に参加してきました。高麗博物館などにも行き、在日外国人の方々について大変勉強になりました。ぜひ以下のページごらんになってみてください。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/ookubo040924.htm

『大義と隠蔽』
管理人 2004年9月26日(日) 16:26:54 削除・編集 スレッドの一覧・返信 泊瀬さんのご意見うかがいまして、だんだん権力者の習性について考えがまとまってきました。まだ権力基盤が不安定な時期の権力者は、いま辛うじて安定している基盤をさらに増強すべく、まず大義をかかげ、さらに不安定要因を隠蔽するわけですね。それはご指摘のとおり日本にかぎらず普遍的なことですね。大義の対象そのものはご指摘のとおり幕府、天皇、憲法と変化しつづけ、それぞれの権力者や法律を擁護しつづけていたわけですが、隠蔽したものは大義ほどおおきな変化をして現れてこないのが案外日本的なのかもしれません。わたしは存じません、蘇るなかれ。憲法を擁護するゆえに自衛隊はないことにしよう。憲法が擁護しないのでこのこともほっといてもよい。となるわけですが大義も隠蔽も表裏一体であり、扱う権力者によっては、両者偽証の手段にもなるし、善への導きにもなりますね。現在の権力者は憲法。聖徳太子の憲法に比較しての質の善し悪しが問われますね。なるほど聖徳太子は民衆は蘇ってほしかったがあるひとたちには蘇ってほしくなかったわけですね。なるほどねー。

『封印と隠蔽』
泊瀬 2004年9月26日(日) 14:58:28 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人様、イバラの紀氏様、今日は。
 権力による封印と隠蔽。これは人間が集団で生活するようになった時点で発生せざるを得ないものでありましょう。もし、私が権力を握ったら、同じことをしたでありましょうか。

 ただ、思うに戦国時代などは一地域における経済単位の「大義」という考えがあり、領主・寺社の存続にその一国中のエネルギーが全て使われました。今のように社会が個人を守ってくれるという「安心感」もありませんでした。至って、原初的な人間のあり方だったと思います。
 江戸時代になって中央集権が進むと、そのエネルギーは失われ、固定化した経済による領主と農民の軋轢が大きくなりました。

 現在は分国統治はなくなり複数の民族・宗教を含めた「国」という統治法に発展しているわけですが、このデメリットを今、分析する必要があるのは、現在起こっている民族独立運動(被支配民族によるテロ)や宗教紛争をみるに明かと思います。

 我々が古代を知りたいという想いは、その答えを求める衝動ではないでしょうか?古代を知ることは人間を知るということだと信じます。だから「我々」がいる!

 小説家として書いてしまいました。ご容赦を。

『日本人の蘇り観念と封印の習慣』
管理人 2004年9月26日(日) 0:56:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 泊瀬さん、紀氏さんのご意見をお聞きしていて、古代日本人の蘇りと封印の観念がどこからくるのか、気になりました。例の法隆寺関連の話にもその辺関係あるらしいですが、現在にいたるまで、日本人の心理の奥底に、蘇る神や人と、封印しようとする政治指導者や民衆の姿がちらほら特徴的に出てきているように感じます。先日はここ最近参加している在日外国人の方々について考える集いの企画で、大久保の高麗博物館に行ってきました。そこでは、特に関東大震災の時、いかに多くの朝鮮の人々が関東各地で虐殺されたか、そして政府がうまく事実を摩り替えて隠し通していたかを、諸資料とともに解説していたのでした。そのほか秀吉の朝鮮出兵の時の虐殺のことなども説明されていたのですが、あまりそういうことは、現在でもやはり教育現場で知らされていないことが、見学に行ってよくわかりました。似たような事例として、江戸時代に400万人のキリスト教徒が日本で虐殺されたことも知る人はほとんどいないでしょう。確かに教科書には載っているのですが、中高生の思考レベルではあまり理解に及ばないこと、たとえばどういう裁判の手続きが虐殺に関して行われたのかなど、については大学はもちろん、ほとんど日本人一般には教えられることはないということがあるようです。もちろんそういうことに関し専門的な授業時間を設けること自体、なにも受験勉強に役に立つこともないし、政治的にも経済的にも教育的にもなんの利益もないわけですから、適当に表面的にうまく部分的に体裁だけ整えて載せておけばよいということになります。まさに蘇ることなかれという論理なのですが、人事ではなく、われわれ日本人の心理の奥底に、可能な限りうまく周囲との人付き合いを壊さないようにするために、適当に面前の事実をかわして災難を避けて少なくとも自身と家族だけは生き延びようとする固有の性質が特徴的にみられるのと感じます。ということで、古代からみられる日本人の特に政治指導者の性質に関し、そうなった心理的原因をよく理解していかないと、今後もやはり蘇ることなかれの論理で政治も教育も変わらずうまくかわして継続しつづけていくことでしょう。そういう意味で藤原氏と蘇我氏の研究は重要かもしれませんね!ではまたご意見お待ちしています。


『発見 漢字のルーツ!』
イバラの紀氏 2004年9月25日(土) 18:29:29 削除・編集 スレッドの一覧・返信 発見しました「目目」ク(きょろきょろ見る)の「目」が「臣」の形なのです、更に「目目」の形が「トウ」(むさぼる)「テツ」(むさぼる)紋=(商代の最高神である帝を表わしているとされる、悪霊を退散させる役割をもつ紋様の目なのです。)それに、中国仙界の「羽人」ウジン(禹人?)・羽が有り下半身が貧弱(ムの姿)で榊を供える姿と耳が異常に大きく(悪魔か鬼の角の様)ちなみに、禹は黄河の治水に没頭し「鬼」に成ったとされ(「鬼」=角+田+「ニン・ジン」(足)+ムで、田=地図 +「ニン・ジン(足)」+ム(禹)なのです。故に漢字は禹をモデルに作られたとの確信を深めました。私(ム)・己(おのれ・巳・蛇)吾・我など漢字の自分をさす文字は禹を表わします。他に九・弓・ヒ・などなど・・・   日本に天孫族以前に渡来していたのは、禹の末裔(農耕・漁業の民・海蛇族)で、天孫族は、騎馬民族(狩猟民族系)と考えています。     だいぶ妄想が激しく成った    紀氏でした。

『「境部の臣」を御存知でしたら教えてください。』
イバラの紀氏 2004年9月25日(土) 11:48:40 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「臣」の文字は大きな「目」(出目)の形で直や省・相・望・堅・賢・臨・蔑・ギン(かまびすしい)「ウ冠に臣」(つかえる)蔵?(新字?)などに使われています、私は「禹」の測量に仕えた「測量士」が「臣」の起源と思っています。

私は「蘇民将来」に将来蘇る民を感じました。たしかキリスト教のお話に神の王国のメンバーに選ばれるお話が?将来への合言葉(景教徒の呪文?)かも知れませんとの妄想です。

「蘇我は鉄を研ぐ・製鉄に絡んだ一族か?」文字からは鉄に関係していたことには気付けませんでした。

邪馬壹国の所在推理も始まってしかるべきだろう。その道の権威、古田武彦の里程解読で明らかなように博多湾岸が邪馬壱国

古代中国の北の民族「匈奴」=「胡」を字解すると「+」(クロス)と「自」(みずから)で「禹」が「胡」の出身とクリスチャンを感じさせています。(なお「胡」は蛭子・恵比寿・夷・戎・恵比須・エビスでイラン?トルコ?ペルシャ?人らしいです)中国の著名人には「胡」出身者が多く感じます。

「八年の春二月、新羅、任那と相攻む。天皇、任那を救けむと欲す。
   是歳、境部の臣に命せて大将軍と為す。穂積の臣を以て副将軍と
   為す。{竝に名を闕(もら)せり}即ち万余の衆を将(ひきゐ)て任那の
   為に新羅を撃つ。是に於て、直に新羅を指して以泛海(ふねから)
   往く。乃ち新羅に到りて五の城(さし)を攻めて抜きえつ。 」の「境部の臣」を御存知でしたら教えてください。

まとまらない内容ですが、これからもよろしくお願い致します。イバラ(棘トゲの片方は、帝の字に似ています。キリストの冠?)の紀氏でした。

『蘇る』
泊瀬 2004年9月23日(木) 22:18:14 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ご無沙汰してます。
 蘇我氏の名前からいろいろ興味深い意見がありますね。日本には「さしすせそ」のどれかから始まる地名や名前が結構ありますが、聞くところによると上代は鉄をその様に呼んでいたとあります。
 「猿投(さなげ)」「磯城」「鈴鹿」「須賀」「駿河」「瀬田」など、ひょっとするとと思ってます。「蘇我」もくさいなあ。韓国の映画にもありましたが、「カル」は刃物、「ガル」は「研ぐ」という意味らしい。とすると「蘇我」は「鉄を研ぐ」とするとやはり製鉄に絡んだ一族なのでしょうか。
 法隆寺の精霊会(しょうりょうえ)の行列に蘇莫者という人物の役があります。梅原猛氏は「蘇我氏(聖徳太子)よ蘇る莫(なか)れ」という意味だと書いておられたように記憶してます。すると紀氏さんのおっしゃる「蘇我」の意味が、藤原氏によって呪文として「蘇莫者」としてすり変わっているということになりますね。

『蘇我、臣、連』
管理人 2004年9月21日(火) 13:14:42 削除・編集 スレッドの一覧・返信 週末は箱根の温泉に泊まってきました。特に遺跡探索はしませんでしたが、濃霧の中箱根山道を越えるのはなかなか大変で、きっと昔の人もそうだったのだろうと感じます。
さて、先日から臣連について話題に上っておりますが、紀氏さんご指摘の蘇我氏の蘇我の意味、おもしろいですね。よみがえるわれ!という意味となるのですね。そもそも当時の当て字のほうでソ音とガ音はどうだったかというのも気になりますが、また地方にいくと、蘇我の意味が失われ?奈良時代だと宗とか曾とかが当てられた地名もみえますが、蘇民将来の蘇とか、この字の使用起源とか類例について知りたいところですね。
臣は測量士(上級官僚)で連は支援部隊(技術士・物造り・物部氏?)との紀氏さんのご意見、興味深いです。

『RE『ヨロシクお願い致します。』』
管理人 2004年9月18日(土) 8:12:17 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんおひさしぶりです。お元気でしたか?体調お気遣いありがとうございます。また、貴重なご意見ありがとうございます。蘇我、臣、連、いろいろ勉強になります。週末はこれからすぐちょっと山地に出かけるので、また来週詳細お返事いたしますね。それでは今後ともよろしくお願いします。

『ヨロシクお願い致します。』
イバラの紀氏 2004年9月18日(土) 5:45:48 削除・編集 スレッドの一覧・返信  管理人さんお久しぶりです。 体調を崩されていたとのこと如何ですか?健康が一番大切です、御自愛して下さい。
わたくし(ム・我・私)私(津・斉・渡)は、時(字)空の旅より舞戻りましたが 大分 「字」差木瓜(ぼけ)がつづき叉、ご迷惑をおかけすることをお許しください。
私の考え(思考)は日本の神には理解しがたい様で管理人さんのこころ豊かな神様の偉大さをつくづく感じさせられました。
 さて「蘇我」と「藤原」を私的に分析(おもに字解ですが漢字の読みと同音の文字の意巳に関連性を益々感じています。)させていただきます。
「蘇」ソ・よみがえりの文字には「草」冠(2本の十字架)に「魚」(キリスト教のシンボル)と「禾」(神が下りた木)で「古文字字形表」(マール社の古代文字字典より)では、「星?」と「魚」が火から飛び立つ鳥、まさに「火に鳥」(フェニックス)なのです 驚きました。
もう一つは「星?」と火の上に「芽」を覆う(「甘い」の原字を逆さの形)で焼かれて芽を出す種か焼畑の意を感じる形です。
「我」は我(吾・わたくし(ム・我・私)私=禹=夏王朝の王(ウの音で禹に関連の漢字が多く有ります。)
「蘇我」は即ち「夏王朝」の再建 ( ! 「甘い」の原字を逆さの形は再-Tの形・以前お話したアダムの肋骨の形です。)を夢見た禹王の末裔では無いでしょうか。
「藤原」の「藤」では見当たらないので「トウ」の音で「藤に似た文字」で字解しました。「八」(産むの意も有る。私的)十字と「戸」の原字を両手で掲げる形。(掲げるの意に「掲棄」ヨウキ(矛盾した二つの概念を調和統一して、いっそう高い概念を生み出すこと。アウフヘーベン。)と「原」みなもとに意(源氏?)おもしろい音にゲン「芫」(フジモドキ)の意に「さつまふじ」 葉は葉ぼけに似て、汁を水に入れると魚が死ぬ。(魚=景教だったら?)

 相変わらずの妄想?御付き合い下さい。鱗うろこ+毛=虫・魚・鳥・獣の意(虫は蛇・禹)・魚は景教徒・鳥はヤタガラス・獣(サタン)の意?もし魚類から虫(爬虫類)・鳥類(爬虫類から進化)と進化の過程を知るとしたらオオーマイゴット(神)
「漢和辞典はスゴイ!」漢字に歴史が刻み込まれています。

臣は測量士(上級官僚)で連は支援部隊(技術士・物造り・物部氏?)の妄想です。    
   これからも宜しくお願い致します。                          イバラの紀氏でした。

『RE『ちょっと質問』』
管理人 2004年9月1日(水) 2:41:27 削除・編集 スレッドの一覧・返信 カズさんはじめまして。質問ありがとうございます。土師器から新たに須恵器が導入されたことにより、どう具体的に日本の文化に影響を与えたのか、とても貴重な話題ですね。ロクロを使い高温で焼くことができる竈の技術がもたらされたわけですが、実用面では耐久性に優れたものが一度に多量に手に入ることとなったでしょうし、労働面では須恵器専門の専業職人などがでてきて、地方への分配も始まったことでしょう。陶邑などの伝承にみられるような専業が集中するあり方も出現してきます。祭祀面でも横穴式古墳に須恵器類が埋葬されるなどの流行もおこったようで、小型の須恵器を埋葬、祭祀用に作る習慣などもでてきたようです。もし、現代まで須恵器ではなく土師器の文化が続いていたら、きっと生産コストも高く、耐久性もない半面、芸術的な自家生産のような形で土器を作る習慣が残っていたかもしれませんが、案外それが弥生やそれ以前の日本の独自文化として色濃く呪術性とともに残存を可能にしたかもしれません。が、実際は外来文化の積極的な導入がある時期にはじまり、ある意味朝鮮半島との文化的な類似性が強くなったのかもしれませんね。この古墳時代から奈良時代あたりの時期はやはり日本文化の形成に大きな影響を及ぼしており、また日本と朝鮮の文化の相違、共有の度合いがはじめて認識され、時に観念的で扇動的なイデオロギー的なものも出始め、それらが変化流動しながら固定していく時期であっただろうと思います。いわゆる第1、2期!の日本民族?のアイデンティティーの成立の時期にあたり、この時期の日朝文化の相違、共有をはっきり明確化させることが今特に重要な要素であろうと感じます。この時期について必要、現実以上に日朝の文化的相違を誤解認識させることもありうるし、また逆に同質化して捉えることもありうるでしょう。問題はいくら近代においてアジアの国家間に戦争とか併合とか援助とか文化交流とかが起こっても、本質的に尊敬ある外交、交流関係は、古代史からの文化認識なくしてありえず、文化や民族の根底に流れるアイデンティティー認識の部分に、この古墳、奈良時代の認識形成が深く根ざしているので、この時期の渡来人研究をなおざりにはできませんね。将来また悪い環境の時代が来たときに特にその研究が重要であったことを明らかにしてくれることでしょう。ということで、須恵器の日本文化への影響について、いろいろ研究してみてくださいね。



『ちょっと質問』
カズ 2004年8月31日(火) 16:38:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来人が日本に伝えた須恵器が、日本にどんな影響を及ぼしたのか教えてください。

『訂正:『祖先と氏族集団と技術』』
管理人 2004年8月30日(月) 2:25:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先の書き込みでの石上氏は蘇我系ではなく物部系でした。ここ8日ほど鎌倉に出向いており、記憶違いなどがありましたこと気づきましたので修正いたします。なお、臣、連集団それぞれについては、氏族名を見ていくと、皇族から出る臣系が地名などが多いのに対し、神別からでる連姓系はどちらかというと神器、武器製作などの部民系の姓が多いことに気づきましたがその辺はまだ気のせいかどうかと考え中です。蘇我氏については系譜に高麗、韓子など渡来系に関わる名を持つ先祖が見えますが、問題は出現当初は原始神道祭祀をしていたか、あるいは出現当初から外来系祭祀を導入していたかについてです。これももうすこししらべてみます。ちなみに渡来系は臣はほとんどなく連系あるいは直系であります。蘇我のほか臣系氏族において同様渡来系氏族とかかわりが深い臣系氏族の紀氏の例なども探していますが、臣系氏族の多くは武内宿禰など数人のおもに宿禰と呼ばれた限定された皇族もしくは命と呼ばれた皇子などを祖先としているようです。いわゆる宿禰という尊称で呼ばれた人々、およびその尊称について、紀氏の祖先は紀角宿禰となっており、紀+角が原型、蘇我氏の祖先の蘇我石川宿禰という場合は、蘇我+石川が姓の原型でしょう。武内宿禰は武+内となりますから、神宮皇后紀の前のヤマト武命とか、後の倭王武や雄略、いわゆる武の字と関連するかもと感じます。ちなみに武内宿禰の弟は甘美内宿禰なので、やはり○+内の形になります。羽田矢代宿禰の場合、羽田が後代の姓と出てきます。その辺後代からの伝説的要素も強いのですが、もし渡来系の要素がこれらの諸皇族に混入する場合があったと仮定すると、A+B宿禰という形式のうち、どういう形でAもしくはBに渡来系関連の名称が加わるかという点なども、あるいは分析対象となるかもしれません。と感じたままに書いてしまいましたが、またご参照までに。

『間違えました』
泊瀬 2004年8月30日(月) 19:28:4 削除・編集

『あまり気にしないでください』
管理人 2004年9月1日(水) 2:3:43 削除・編集

『祖先と氏族集団と技術』
管理人 2004年8月27日(金) 22:29:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 GARTさん、泊瀬さんご意見ありがとうございます。蘇我と紀氏、なるほど武内宿禰を祖としているのでしたね。泊瀬さんご指摘のとおり、大豪族が製鉄技術を確保しておくことは武力を保有するという面でも重要ですね。地方豪族の君や直のケースでは、自身で製鉄から武力まで維持できたでしょう。が、臣集団では、基本は皇族ですから、それぞれの氏族が独自で製鉄、武力を保持しうるかというと、もしそれが可能になるとすると次の前提が必要でしょう。ひとつは、臣が成立してから2,3代ではとても、それらの各自の氏族で製鉄や武力の伝統をもって対抗するなどということは起こり得ないということになります。とすると、やはり5,6代、つまり皇族から分岐して2,300年してはじめて、臣氏族同士で武力、製鉄を保有し対立しあうということになるでしょう。とすると、そうでないケースでは、臣という同祖集団内で特定の氏族が武力、また特定の氏族が製鉄、といろいろ役割分担していくと思います。さらに大きな役割分担として、神祇祭祀をやはりどの氏族が行うかということがあり、これがたぶん臣に対し、連という別の分岐集団が担当していたのではと感じます。この分岐をその2,300年にもってくるか、それ以前の分岐とするかで、やはり臣の分岐よりは古い、ただ、連の分岐氏族や地方の君、直との関係を考えると、ある程度時代はわかってくると思います。連など祭祀集団にとってもやはり製鉄はおそらく日本の場合かかわりがふかく、そのまま武力などの技術ともつながっていたのでしょう。ただし、蘇我系はご指摘のとおり、石上氏として製鉄、武力、神祇祭祀を分岐させていることを考慮しなければなりませんし、武力は渡来系氏族が代用していたことがありますね。蘇我は財政、外交と言われますが、かなり氏族集団というよりは、外国の官僚組織みたいに見えます。擬似的な官僚組織を作ろうとした、あるいはもともと持っていたという線でどうでしょう。いずれにせよ、蘇我の場合も、神道祭祀にどういうふうに対立なく諸外国の宗教祭祀を導入し、最終的に仏教擁護に回ったかその過程がかなり注目すべきと感じます。またそうですね、確かに祭祀氏族などは本筋氏族から分離するケースも多いのですが、たぶん大化の改新前のある時期に、畿内の氏族たちの間でも祭祀氏族とそうでない氏族が分離しても、なお祭祀氏族が十分生きていけて役割分担できるような仕組みが、部民制度とは別にできたという可能性も探ってみるのもどうかとふと今感じます。

『RE『紀氏について』』
管理人 2004年8月24日(火) 8:18:49 削除・編集 スレッドの一覧・返信 GARTさんはじめまして!紀氏は蘇我系なのですね。蘇我氏が渡来人とする説もあるようですね。また物部との関係も指摘されているとのこと聞いたことがあります。蘇我大臣、物部大連といったような、臣系氏族集団と連系氏族集団との間にある血族関係、それは皇別か神別かということになるのですが、この辺も考慮されてみてはどうかと思います。おそらく蘇我氏が渡来系でその後在地系氏族と称した系統と仮定しても、蘇我氏だけがそのような経緯をたどり、他の大豪族はすべて倭系だったと考えるよりは、他の大豪族にも同様な経緯をもって倭系を称したものがいたと考えたほうがよいこととなるでしょう。その血族関係の起源の目安として、臣、連にある血族関係が注目できるのではと感じます。あと宗教関連の相違も、確かにおそらく物部氏や中臣氏は神道系統でしょうから、祭祀としての代々血縁継承とその伝統も考慮しなければならないでしょう。だいたい伝統というものが何代くらいで大王を支えた豪族集団内で確立されると推定するべきなのか、逆に血縁的に祭祀氏族としての伝統が薄いケースではどういう代用が後代現れてくるのか、この辺も外交関係も考慮しながら注目してみると面白いかもしれません。それではまたみなさんのご意見をお待ちしています。

『武内宿禰』
GART 2004年8月24日(火) 10:24:34 削除・編集

『氏族について』
泊瀬 2004年8月26日(木) 23:58:29 削除・編集

『紀氏について』
GART 2004年8月23日(月) 8:54:35 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀良子という女性は足利義満の生母と聞いておりますが、
ある本では紀氏は蘇我系とありました。

また蘇我氏は渡来人だとありました。しかし別の本では出雲の物部と関係が深いともあります。

本から受売りなので、率直の所をご存じならばお聞かせ下さい。

『千葉の遺跡探索』
管理人 2004年8月20日(金) 3:10:28 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人です。先日今度は千葉に遺跡探索に出かけてきました。上総、下総のそれぞれ国府所在地を巡り、渡来人の情報を仕入れてきました。ぜひごらんになって見てください。以下のアドレスからもごらんになれますのでよろしくお願いします。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/isekitansaku.htm

『問い合わせ』
アキ 2004年8月18日(水) 18:44:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さんへ

管理人さん宛てにメールを出したのですが、送れません。

アドレスを教えて下さい。

『RE『問い合わせ』』
管理人 2004年8月20日(金) 3:7:1 削除・編集

『Re『曽屋神社』』
管理人 2004年8月17日(火) 3:31:26 削除・編集 スレッドの一覧・返信 泊瀬さんこんばんは!
早速探索日記拝見いただきありがとうございます。曽屋神社の合祀祭神については、以下のHPで再確認しているところですがhttp://ktan.fc2web.com/j_sub/kn4soya.htm
その経緯や理由に関してはよくわかりません。その辺明治からの合祀関係のことも後勉強しなければなりませんね。
泊瀬さんの米沢山形を舞台とした小説楽しみにしています。私も今日は本HPの地域別情報を整理してアップしなおしたのですが、北陸や東海、四国はまったく情報を自他得ていないことに気づきました。入院中同室に愛知と徳島と山形出身の年配の方がいて、特に愛知と徳島については行き方やいろいろその地のことなど聴いておいてよかったです。今年はその辺も調査のテーマになりそうなので、いろいろ情報よろしくお願いします。