荻野吟子の足跡を追う



荻野吟子は日本で初めての女医(国家資格を持った女性医師)です。現在の埼玉県熊谷市にて嘉永4年(1851年)に誕生、慶応さん3年(1867年)地元で結婚したのですが、夫から淋病をうつされたことを理由に離婚しました。



生誕の地がある場所へは熊谷駅から国際十王バスの葛和田行きに乗車し終点まで25分程です。葛和田のバス停は利根川の河川敷にありました。



バス停から堤防を歩き10分程度で生誕の地にある荻野吟子資料館に到着します。小さい展示室には田中かく宛の手紙、荻野家に伝えられた什器、荻野吟子を題材にした書籍や舞台に使われた衣装などがありました。建物は荻野家の長屋門を模して建てられています。



先程のバス停先の河岸には今では3箇所しかない利根川を渡る渡船があります。この赤岩渡船は群馬県千代田町が管理運営を行っていて日中に運行されています。普段は千代田町側に船は泊まっていて、バス停の横にある黄色い旗を掲げると船が迎えに来てくれます。乗船料金は無料です。



渡船で渡り10分程度歩いた場所には明治時代に光恩寺に移設された長屋門があります。その横には荻野吟子の石像がありました。渡船からの長屋門までの案内図が渡船内にありましたので船頭さんに声をかけると良いでしょう。



荻野吟子は明治8年東京女子師範学校(御茶ノ水女子大学)に一期生として入学、卒業後女医を志し、前例がない中でなかなか認められない中、医術開業試験の受験の許可がおり、明治17年合格しました。明治18年最初の開業したのが現在の文京区湯島三組町です。この地で営業した期間はわずかで、翌年には台東区下谷に移転しました。明治23年敬虔なキリスト教信者の志方之善と結婚しました。13歳年下の学生であったことから反対も多い中での結婚だったとのことでした。



その夫は明治24年に現在の北海道今金町の利別川流域に入植。夫は様々な経緯を経つつも開拓、鉱山開発に携わることになり、明治29年に荻野吟子は要職を投げ捨て渡道することになりました。

これらの歴史を踏まえ、渡辺淳一は荻野吟子の生涯を「花埋み」という小説にまとめています。渡辺淳一は荻野吟子の印象を「風のように・母のたより」の「長万部から今金へ」というエッセイに記していますが、当時女性ではトップクラスのインテリであったから北海道へ移住しなかったら平塚らいてふや吉岡弥生らとともに明治を代表する女性として、後世に名前を残しただろうと述べています。「花埋み」という題目は名花が埋もれてしまったとの想いとのことです。

そしてこの地はインマヌエルとして名付けられました。インマヌエルとは新約聖書に基づき「神我と共に存す」という意味で共同墓地の看板にはその言葉も記されていました。現在この地は地名を改称して神丘となっていて、広大な畑作地帯となっています。

現在も日本聖公会インマヌエル教会があり、インマヌエルの丘の碑もありました。また教会裏に二人の茅葺の家はあったと伝えられています。



神丘の中心地には平成20年3月まで神丘小学校があり、校舎は今も残っています。明治41年簡易教育所が第一利別尋常小学校となり、昭和2年に今縫留(イマヌエル)尋常小学校と改称、さらに昭和9年に神丘尋常小学校と改称されています。



荻野吟子はその後すぐの明治30年に瀬棚に移り診療所を開業しました。開業の地の現在の瀬棚児童会館には記念碑が建立されています。途中札幌に移った期間もありましたが明治38年夫が死後もしばらく瀬棚に残り、明治41年に東京へ戻るまで瀬棚に居を構えました。

旧瀬棚役場前には荻野吟子女史像が生誕150年を記念して平成13年に造られています。また昭和42年に荻野吟子顕彰碑が建立され、現在は荻野吟子公園となっています。郷土館には遺品も展示されています。



明治41年に東京本所へ戻り、診療所を開業。現在その地には案内板があります。東京では湯島、下谷、本所と生活した範囲は限られていて、これらの地にかなりの愛着があったのではないかと思います。



大正2年逝去、雑司ヶ谷霊園に墓があり、光恩寺、瀬棚と同じ石像がありました。


参考文献 平成17年 せたな町観光ガイドブックせたな せたな町
昭和50年 花埋み 渡辺淳一 新潮文庫
平成7年 風のように・母のたより 渡辺淳一 講談社
昭和62年 角川日本地名大辞典1北海道上巻 編纂委員会 角川書店
平成15年 北海道開拓秘話 津田芳夫



北海道旅情報巻頭  9.アラカルトレポート
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